記憶の中
目が覚めると、座敷の布団の中だった。
妻が隣りで寝ていて、枕元に蔵の鍵があり、すぐ側でギンも身を丸めて眠っていた。
やがて妻も目を覚ますと、僕にギンから絶対に目を離さないこと、それから佐久間が来たら自分が帰ってくるまで絶対に、体をはってでも引き止めるようにと固く言いおいて、いつものブルーインパルスの帽子をかぶってフロイン堂へパンを買いにいった。
布団を畳んで押し入れへしまい終わるころにはギンも目を覚ましたので、僕はギンを抱いて縁側で妻の帰りを待った。
ここに住んでいた頃からの習慣で、門の所にある新聞受けから新聞を取り、縁側に座って読もうとしたが、全く頭に入らなかったのでやめた。
驚く程の早さで妻は帰ってきた。
「佐久間さん、来た?!」
「まだ」
焼きたてクロワッサンの入った紙袋の他に、妻はコンビニの袋も持っていた。
縁側にランチョンマットを広げ、その上にパン皿と紅茶セットを並べて朝食をとった。
ギンには、妻がコンビニで買ってきた缶詰のキャットフードと牛乳を出してやったが、ギンはまったく手を付けようとしなかった。
「そうだよね……。あんた、あいつらのこと、しこたま食ってたもんね……。完全に『ウルタールの猫』だ……」
ひきつった顔で妻がそんなふうに言うものだから、僕は『ラヴクラフト全集』のうち──わざわざ妻は家から全巻もって来ていたのだ──6巻に収録されていた『ウルタールの猫』を、クロワッサンを食べながら読んだ。
短い話だったので、すぐに読めた。
そのまま『銀の鍵』と『銀の鍵の門を越えて』も読んだ。
妻は食器の片付けもせず、帽子をかぶってティーカップを持ったまま、じっと待っている。
さすがに『未知なるカダスを夢に求めて』は読むには長いなあと思っていたところへ、佐久間がやってきた。
ぴくり、と、ギンは耳を動かすと、ずっと座っていた僕の膝の上から降りて、門の方へと歩み寄った。
佐久間の足が、門前で止まった。
目線は門柱に向いたまま、何かを見ている。
やがて、佐久間は僕らに会釈をすると、昨日と同じようにギンを抱き上げた。
そして僕も、気づいた。
佐久間。いや……。
「梶尾策磨さん、ですね?」
驚いた表情すら、梶尾は見せなかった。
「え……」
かたり、と、妻が紅茶のカップをソーサーに置いた。
「いつ、お気づきになりましたか?」
ギンを抱いたまま、梶尾は聞いた。
「今です。……梶尾さんも今、そこの新聞受けの名前を見たんですね? それでここが神原家だと気づいた」
「そうです。あなたは神原泰明くんの……」
「兄の、孫です。僕からだと、泰明さんは大叔父にあたります」
「そうですか。確かに、どこか面影がある。……迂闊(うかつ)でした。この辺りの出身だという話は聞いたことがあったのですが。ギンがいないことに、すっかり気を取られていた。……そのせいで、とんでもないご迷惑をおかけしてしまったようです」
「……わかるんですか?」
「いま、ギンから聞きました。私の不始末です。本当に、申し訳ありませんでした」
再び、梶尾は深々と頭を下げた。
「……あの、立ち話もなんですから、こちらへ……。紅茶と、クロワッサンがあるんです。いかがですか? すぐそこのパン屋ので、焼きたてで、おいしいんですよ」
「いえ、せっかくですが……。そういった物は、もうずっと、必要としていません。欲しいと感じること自体がありませんし、この体が受け付けるかどうかも解りません。いつの頃からか、そんなふうになったようです」
「どうして……?」
ずっと黙っていた妻がつぶやいた。
座っていた縁側から立ち上がり、木のサンダルをかつかつ言わせて、庭の入り口で立ったままの梶尾に詰め寄った。
「どうしてそんなことに?! だって……だって、こんなの、おかしいでしょう?! 梶尾さん……ひょっとしたら百年以上も生きてることになるじゃないですか!」
頭ひとつぶん以上も背の低いところから噛み付くように言い立てられて、梶尾は少し笑ったようだった。
だがそれは、どう見ても、青年士官の若々しい顔でしかない。
「さて、どうだか……。だんだんと、感覚が曖昧になってしまって。ただでさえ何度も年号が変わりましたし」
「ああ、僕もずっと、もう全部西暦でいいのにって思ってるんですよ」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
今度は僕が怒鳴られた。
「『鍵』が……こいつがいるから、死ねない」梶尾がギンの頭を撫でた。
「え……」
「最初は気づかなかった。だが、あの時、神原に刺さったままの『鍵』を抜き取ったのは……そうしなければならないと思ったのは確かに覚えている。やがて、ギンがどこからともなくやって来て、私につきまとうようになった。どんなに遠く離れた戦地でも、艦艇(ふね)の上までも……なのに、その姿は私以外の誰にも見えない。その時にはもう、私自身の本質が、この世界の時間から完全に切り離されてしまっていたのかも知れない。激しい戦闘があって、艦艇(ふね)が沈んで、『ああ、これで今度こそ死ねる』と思って目を閉じても、気がつくとまたどこかで目を覚ましていて、隣りにこいつがいるんです。そんなことを何度繰り返したか」
「……どうして『鍵』を抜いたりしたんですか?」
梶尾を見上げたまま、妻は問いつめる。
「退院前の、あの時ですよね? 『梶尾はただ黙って聞いていた。そして黙って病室を出て行った。去り際に一度だけ、僕の肩に手をふれていった』……」
「よく覚えていますね。一言一句、小説のままだ」
「そうです! 私、そういうのは覚えてるんです! だって……」
ずっと梶尾を見上げていた妻は、ためらうように一瞬だけ目を伏せた。
だが再び、顔を上げ、こう言った。
「……だって、あるから……、私にだって、『回廊』は!」
ギンを撫でていた梶尾の手が止まった。
「泰明さんだって同じです。『鍵』は梶尾さんが持っていってしまったけれど、『回廊』はずっと泰明さんの中にあった。だから、ずっと書いていた。今はもう本のタイトルだけしか残ってないけれど、そのタイトルを見るだけでも、泰明さんの『回廊』がずっとそこにあったってことがわかる……。『回廊』は手放せない。だって、刻み込まれてるんだから。それなのにあなたは『鍵』をかけて、『鍵』だけを持って、行ってしまった。……自分で自分を『鍵』に縛り付けた。そうすれば『回廊』が深淵に届くことはないから……。そうやって、泰明さんを守ってやろうとでも思ったんですか? 自分がこうして抱え込んでおけばそれでいいんだって? いいわけないでしょう!? だって、そのせいであなたは……」
「私が『鍵』を手放せば、『回廊』が開けばどうなるか、あなたは身をもって知ったはずでしょう」
「でも私たちは帰ってきた!」
つめたく冷えた梶尾の声にも、妻は抗(あらが)った。
縁側の前に突っ立ったままの僕の方を見て、彼女は抗弁を続けた。
「……ほんとはみんな、そうなんです。『回廊』を抱えたまま、現実を生きるのは苦しい。……泰明さんは、もっともっとつらかったんでしょうね。だからなんとかしてやりたいと思う気持ちはわかります。でもね! 『回廊』は、狂気の深淵にばかり通じている訳じゃない! どれだけ豊かで、あざやかで、心躍る光景を私たちにもたらしてくれることか……。私たちが帰って来られたのも、泰明さんが遺した作品だって、全部『回廊』があったからこそです。そうやって、泰明さんは戦争だって生き延びた。私たちだって、これから生きていってやるんです! それを否定しないで下さい……私たちと、泰明さんの魂のありようを否定しないで下さいよ!」
「いや……そうじゃない」
「何よ!? 何がそうじゃないって言うの!?」
思わぬ僕の反撃に逆上する妻にも、自分にも、噛んで含めるように言い聞かせる。
「梶尾さんが泰明さんから『鍵』を抜き取ったのは自分の意志じゃない。たぶん、光彦のせいだ」
「え……?」
「だって、泰明さんから『鍵』を遠ざけるためだったのなら、泰明さんが死んだ時点で手放せるんじゃないかな。……ギンは、自分から離れない、ずっとそうだった、そうおっしゃいましたね?」
僕の問いかけに、梶尾がうなずく。
「その通りです。ギンがいなくなったのは、昨日が初めてです」
「……そもそも梶尾さんが、泰明さんのためには『鍵』を抜いて、自分で持っておかないといけないと思い込んだのからして、光彦の暗示がかかっていたんじゃないかな。一番始めに、光彦が梶尾さんに『鍵』を託した時点から、そう仕組まれていたんだ。もしかしたら、万にひとつでも『黒山羊』の報復を逃れることができたなら、再び『鍵』を取り戻そうという一縷の望みをかけていたのかも知れないし、それまでに勝手に深淵への『回廊』が開いてしまっては困る。まあ、結局は三千代が梶尾さんごと『鍵』を引き寄せて開けてしまったうえに、今はもう光彦自身も『鍵』なんか必要なくなってしまったわけだけど……そんなの結果論だよね。あの西王子家最後の夜の、常軌を逸した状況下で、そこまで予測できるはずもない。可能な限り長く、できることなら永久に続く呪縛をかけてやろうというつもりだったんじゃないかな……」
「『あの常軌を逸した状況下で』なんて、まるで見てきたようなことを言うなあ。……いや、見てきたのも同然か、君にとっては」
あきれて妻がそう言った。
「そうか、光彦のやつ、梶尾さんにそんなとんでもない呪いを……。くっそう、あの子、ほんっとに恐ろしいことするなあ。あんなにかわいい顔しといてさあ……」
「あなたこそ、見てきたようなことを言ってるじゃないか」
本気で憎らしげな顔をする妻に、僕は思わず笑ってしまう。
「いや……そうか……」
妻も、見てきているのだ。
「……ああ。『こんなの、おかしいでしょう』、か。なるほど」
梶尾が、懐かしいものを見つけたかのように、妻に笑いかけた。
「え……?」妻が梶尾を見上げた。
僕にも、見える気がした。
小さな背には薬箱を背負って。
帽子も、薬売りの帽子に変わっている。
「あ……」
妻の頬に、涙が流れた。
「あの後、ユウスケ君とはずっと、一緒に?」
「……はい……」
「それから今度は、薬剤師になったんですか」
「……はい……、はい……」
梶尾の前で、妻が泣いている。
僕はそれを、ただ見ている。
ああ、それで『こういうの』が好きだったのだなあと、わかった。
そこには何の嫉妬もなかった。
たぶん、ユウスケさんという人も、そうだったのだろう。
「お返しします」
涙を手でぬぐっている妻に、梶尾はギンを託した。
「この『鍵』は、あなたたちが持っていて下さい」
「はい……、でも……」
「確かに、呪縛をかけたのは西王子光彦だったのでしょうが、私自身もやはり『鍵』につながれることを望む部分があった。その必要など、とうになくなっていたというのに、そんなふうに考えようとすら、しなかった」
「いや……梶尾さんならそうするだろうということも含めて、光彦は読んでいたのかも知れませんよ?」
何もかもを見通すような、深淵よりも深い『王』の瞳を僕は思い出していた。
「だが、ギンにはわかっていた。自分のあるべき場所がどこなのか。だから自ら私の元を離れ、あなたたちのところへ来た。……それに、私が何もしないでいた間に、ずいぶんとこの国は変わったようです」梶尾は僕の方を見て言った。
「そうですね。戦争がないって言うのが一番大きいですが、泰明さんや梶尾さんが生きていた時代に比べれば、価値観が多様化していて、いろいろな生き方ができますから。ええ、ずっと、生きやすくなっているはずです」
「そのようですね。なら、大丈夫です」
多少、間違っているのが世界の前提ではあるけれども。
それはまあ、『お互い様』ってことで、やっていけるのだろう。
「わかりました。では」妻が抱いていたギンを下におろして、姿勢を正した。
ギンは少しの間だけ、しっぽを立てて妻の足元にじゃれついたが、すぐに僕のところへやってきた。
「私たちが責任を持ってお預かり致します」
妻が、梶尾に敬礼する。
万感の思いを込めて。
梶尾も姿勢を正し、答礼する。
梶尾が手を下ろすのを確認してから、妻も手を下ろした。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
うつむいたまま、妻は縁側に座っている僕とギンのところへやってきた。
帽子のひさしで顔は見えなかった。
そのまま僕の隣りに座る。
妻の肩を抱いてやった。
そうやって、身を寄せ合って、僕たちは生きてゆくのだ。
二人と一匹で、これからも。
(続く)
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