第36話
名を呼ばれた男は恐縮し、腰を落として頭を下げた。
「他の者も、控えよ」
安治と呼ばれた男に続き、他の者たちも戸惑いながら膝を着き頭を下げた。
「やるじゃねぇの。お姫様」
楽しげに隼人が褒める。堂々とした栄の姿は、この上もなく美しかった。
「晴信様。里の者たちが無礼を働き、失礼致しました。どうぞ、ご存分に処罰なさいませ」
栄の言葉に、晴信方の者たちが膝を着き
「村杉の里からの出迎えをありがたく思う。ここから先の道案内を、よろしく頼むぞ」
「かしこまってございます」
答えた安治が、晴信の器量を推し量るように目を上げた。少しでも意にそぐわない相手であれば、喉元を掻っ切るぞと告げる目だった。これが栄の言っていた、ひそやかに味方をしてくれている男かと、晴信は頼もしく安治の視線を受け止めた。
* * *
村杉の里では、為則が引きつった笑顔で晴信らを迎え、安治に厳しい目を向けた。栄と安治が結託している事は漏れていないらしいと、為則の様子から克頼は見て取った。それを晴信に目顔で示す。晴信も目の動きで了解したと克頼に告げ、為則の案内で佐々道明との対面の座に着いた。
道明の傍には左右それぞれ二人ずつ、合計四人の男が控えている。晴信の背後には、克頼、義元、信成、隼人が座った。村杉為則は双方の間を取り持つ役柄として、座の奥に着いた。
「この度は、我が父の不徳のために佐々様には大変なご迷惑をおかけいたしました事、お詫び申し上げます」
晴信が頭を下げると、壮年の落ち着きと旺盛な野心を併せ持った佐々道明が、
「何事も、ご自身の一存で
孝信の追放は、外交的には隠居として広めてある。だが、内実を隠しおおせるものではない。道明はわざと、皮肉めいた声音を使った。座にいる晴信側の誰かが短気を起こせば、これ幸いと晴信を亡き者にするつもりなのだろう。
「父の頃より仕えている者たちが支えてくれてはおりますが、色々と思い悩む事もございます。佐々様には、色々とご指導のほどを
道明の言葉の中にある棘を、晴信はふわりと包みこんで手を打ち鳴らした。
「民をお預かりいただきましたお礼にと、ご用意させていただきました。つまらぬ物ですが、お受け取りください」
道明の傍に控えていた者がにじり寄り、目録を手にして道明に渡す。それを広げて目を走らせた道明は、不快も満足も見せずに頷いた。
「ありがたく頂戴いたそう」
次は道明が手を叩いた。庭先に人のざわめきが現れる。晴信らは庭に目を向け、やせ細った者たちが怯えた目で連れてこられるのを見た。
「預かっておりました民の全てを、お返しいたしましょう」
晴信は道明に向かって礼をすると、すばやく立ち上がり庭に下りた。
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