第17話

 馬を操っていたのは、あでやかな笑みを浮かべた栄だった。小花を散らした濃紺の小袖に朽葉色の袴を身につけている。馬はよく栄に従っているようで、落ち着いた目をしていた。


「あら。もうお帰りですか」


 つまらなさそうに首を傾げた栄の、高く結い上げられた髪が揺れた。言葉が出て来ない二人に笑いかけた栄は、晴信に馬を近付けた。


「馬をお借りいたしました。事後承諾になり、申しわけございません」


「どうして、このような所まで貴方がいらっしゃるのですか」


 驚きから先に立ち直ったのは、克頼だった。栄は頬に指を当て、不思議そうに克頼を見る。


「あら。まるで私が出てきてはいけないような口ぶりですわね。晴信様から、外出自由というお言葉をたまわったはずですけれど」


「その事は耳にしておりますが、馬で遠く出られるとは、どのようなお考えですか」


 克頼の声に棘が見える。


「城下の町だけのおつもりでしたの?」


 栄が晴信を見た。晴信はようやく驚きから脱し、首を振る。


「乗馬が出来るとは、思いませんでした」


「里を束ねる一族の者が、馬に乗れなくてどうします。我が里では、たいていの女は馬に乗ります」


 なるほどと感心する晴信と栄の間に、克頼が自分の馬を挟んだ。


「騎馬の稽古も十分になされていると――?」


「国境付近の者は、誰でも行っているのではないかしら。山や川の資源に対しての小競り合いは、日常茶飯事ですもの」


 克頼の目が鋭く光る。栄は難なく受け止めた。


「国境での小競り合いが日常茶飯事というのは」


 栄の言葉に引っかかりを覚えた晴信は、率直に聞いた。


「野山や川に境の線が引かれているわけではないと、晴信様もご承知でしょう? 獣を追って、うっかり超えてしまう事もあれば、知っていながら超える事もございます。それは何も珍しい話ではありません。けれどそれを許せば、領域があいまいになってしまいますから、国境に近い里の者は誰しもが兵となって働けるよう、幼き頃より訓練を行っているのです」


「晴信様」


 克頼が諫止かんしした。それ以上を問えば無知を露呈する事になるぞと、克頼の瞳が訴えている。それに気付きながらも、晴信は栄に問いを重ねた。


「小競り合いが起これば、それは報告されるのか」


「細かな事は報告いたしません。ほとんどが里同士の争いとして終わります。治まりが着きそうに無いときは、近隣の里も交えての軽い戦といった様相になりもしますが、よほどで無い限りは他の里の代表者か、国益に無関係の寺社の者が、頃合を見て調停に乗り出し、それで済みます」


 晴信が口に手を当て、視線を落とす。考え込むときの彼のクセであった。それを見た栄は「そうそう」と、声の調子を高くして言葉を続けた。


「晴信様のお父君が、見学に来られた事がございましたわね」


「父上が、見学を?」


「そのお話でしたら、館に戻り次第お聞かせいたします」


 克頼が平坦な声で遮る。晴信はじっと克頼を見てから、栄に顔を戻した。


「栄殿は、その様子をごらんになられたのか」


「晴信様」


 咎める響きに、晴信は静かな目を向けた。


「館の者の話は聞く。だが今、栄殿から見た側の話を聞きたいんだ。双方の視点から、物事を判断したい」


 肝を据えた晴信の瞳に、克頼は軽くまぶたを伏せた。引いた彼に目顔で礼を述べた晴信は、栄に目を向け無言で促した。


「それはそれは楽しそうに、見学をなされておいででしたわ。ご自身は連れてきた一兵も出さずに、あくまでも見学という態度を貫かれておりました。けれども国主自らが出てきたというので、相手方はひるみ、こちらの勝利となりました」


 そこで一息ついて、栄は晴信の様子を見た。これから辛い事を聞かされるのだと察し、晴信は腹に力を込めた。克頼は何もかもを知っている顔で、静かに流れを見守っている。


「勝利の褒美として瑠璃を下された孝信様は、一時的に捕虜として捕まえた茅野の者を……」


 栄はそこで眉をひそめ、言葉を切った。


「どのような扱いにしたのかは、館に帰ってから、包み隠さず申し上げます」


 女人にょにんの口から発するには、残酷すぎると克頼が助け舟を出す。察した晴信は、大きく頷いた。


「酷な事を聞いてしまい、申しわけ無い」


「いいえ。話すと言っておきながら、ためらってしまい、申しわけございません」

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