第18話

 そこで深く息を吸い、栄は気持ちを改めた。


「口では言えぬような事を、孝信様は行われました。当然、紀和の佐々様のお耳に知らせが入ります。小競り合いであったはずが、国主自ら出向いたとなれば、国境を争っての戦という事になる。真実はどうかと問う使者が、すぐさま送られました」


「その時、父上はまだそちらに滞在していたのか」


 栄は頷いた。


「直接、その使者と面会をなされた孝信様は、なるほど片手落ちの処罰であったと申されて、争いの元凶となった者の一族を連れてくるよう命じ、手ずから使者の前で斬りました」


 手綱を握る栄の手が震えている。硬くなった声と伏せられた目に、晴信は彼女がその場に居合わせた事を知った。震える睫の奥に、光るものがある。


「彼らの首を持ち帰るようにと、孝信様は使者の方に申されました。その為の馬と、国土争いと思わせてしまった詫びとして、女を数名贈られました。その時に私は、人質となるよう申しつけられました。孝信様が帰還なされると共に出立いたしましたので、その後にどうなったのかは存じません」


「おそらくその時に、恨みなどで離反者が出ては困ると、先代は考えられたのでしょう。栄姫殿を迎えた後、各所の里から人質を取るようにと下命なされました」


 克頼が補足し、晴信は肩を揺らして息を吐いた。


「話が聞けてよかった。小競り合いの問題から、思わぬ案件を知る事が出来た」


「次の巡察には、私もお供つかまつりとう存じます」


 栄の申し出に、克頼が眉をひそめる。


「間者として働くつもりかと、ご心配なさるのも無理からぬ事。ですが私、そのようなつもりは毛頭ございません。どのように証明すればいいのかわかりませんが、もしも間者であるとわかったならば、遠慮なく斬り捨ててくださいませ」


「栄殿は、俺が憎く無いのか」


 晴信の問いに、栄はクスクスと喉を鳴らした。


「これほどお人よしな方を、どうして憎めましょう。無知である事を恥じ、改善なされようとしておられるのですから、その手助けをしたいと思いこそすれ、邪魔立てをしようなどとは思いませぬ。それに、もし私が晴信様をお恨み申し上げ、お命を奪う事が叶ったとして、この国はどうなります。晴信様以外に、竹井田家には子がおらぬと聞いております。国主は誰になるのかと、争う事になりましょう。ふたたび孝信様が戻られる可能性も出てまいります。晴信様の姉君がお産みになられた方が国主となれば、霧衣は茅野の支配下という事になり、国は在って無きが如し。そうなれば、それを理由に戦がはじまる可能性が出てきます。――私は、戦が嫌いです」


 きっぱりと栄は言い切った。命のやり取りを間近で見た者の持つ、芯のある言葉に晴信は唸った。


「そういう理由で、私は晴信様を手助けしたいと思いこそすれ、危害を加えようなどとは考えもいたしません」


 栄は克頼に表裏の無い顔を向けた。克頼は感情を消してそれを受け止め、口を開いた。


「戦が嫌いであれば、城下の町より外には出られぬほうがよろしいでしょう。戦をいとうは栄姫殿ばかりではございません。もしも同道なされれば、あらぬ噂が立ちましょう。例えば、村杉は娘を使い、いち早く晴信様に取り入った、というような」


 はっと栄が息を呑み、克頼が薄氷のような目を向ける。


「晴信様を案ずるというのであれば、目立つ行動はおつつしみなさるがよろしいかと」


 栄が唇を噛んだ。


「そう、ですわね」


「おわかりいただけて、恐縮です」

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