第6話
「そうか。……そうだな。俺がいきなり訪ねてくると言われれば、何用かと頭を巡らせ、不安をあおる事にもなりかねないからな」
言葉を発しながら納得する晴信に、栄は親しみのこもった息を漏らした。
「先代を追放した方と聞いておりましたので、どのような豪気な気風の殿方が来られるのかと思っておりましたが」
「姫様」
栄をたしなめた侍女の呼び方に、晴信は気を向けた。
「お前は、この方と共に来たのか」
侍女は答えず、這いつくばるように頭を下げた。
「それほど、かしこまらなくていい」
苦笑する晴信に、栄が答える。
「息子である晴信様に、こういう事を申しては何ですが。お父君である孝信様は、それはそれは恐ろしい方でした。この者は蹴り転ばされた事があるので、息子である貴方様をも怖がっているのです」
はっとした晴信が、床に額を擦りつけている侍女を見た。
「そうだったのか」
侍女へ膝を向け、声をかける。
「それは済まない事をした。申しわけない」
本気の謝罪が滲む晴信の声音に、侍女は勢いよく顔を上げた。こぼれおちんばかりに目を見開いて、晴信を見つめる。
「父上は茅野で隠居生活だ。もう、怯えなくていい」
侍女はポロリと涙をこぼし、唇を震わせて頭を下げた。栄は「蹴り転ばされた」と事も無げに言ったが、彼女はよほど酷い扱いをされたのだろうと察し、晴信は胸を痛めた。
「晴信様」
促すように克頼に呼ばれ、晴信は栄を見た。
「俺は、他の者たちが帰参をしているというのに、貴方だけを残すという事は出来ないと思っている」
「私のみは、残しておいたほうが良いと思います」
きっぱりと、栄は言い切った。
「何故だ」
「民のためです」
「民のため……?」
どういうことかと眉を寄せた晴信に、栄は晴れやかと言っていいほど明瞭に答えた。
「私の父は、紀和の佐々様と内通しております。私を帰せば、父は私を盟約の証として、佐々様の所へ送るでしょう。そうして霧衣に攻め入る算段をつけ、戦をしかけてくるつもりです。ですが私が帰らねば、父は証として出すに足る者を得る事が出来ません。佐々様は、霧衣を裏切ろうとしている父を信用しきれないでしょう」
ぽかんとする晴信の変わりに、克頼が答える。
「自分の立場を、よくわきまえておられる姫君だ」
栄は礼を言うように、克頼に微笑みかけた。
「ですから、迷惑と思わずに私を置いてくださいませ」
「栄姫殿の父君が紀和の佐々様と通じているという証拠は、おありでしょうか」
克頼が鋭く目を光らせる。それに臆する事なく、栄はきっぱり「いいえ」と答えた。
「決定的な証拠、と申すわけにはまいりませんが、父が紀和に民を送っているという事は、お調べになればわかるはず」
「お心当たりがあると?」
栄は悼むように目を伏せ、少し唇を迷わせてから声を出した。
「父が紀和に流した人々は、ひと所に集められ、紀和の民とは隔離されて生活をしております。新月の夜に抜けたい者を集め、紀和の者の手引きにより国越えをさせているのです」
その言葉が真実であるのか見定めようと、克頼は彼女の挙動に意識を集めた。
「父上の悪政に苦しむ者を、他国に逃がしているというのなら、栄殿の父君は心正しきお方ではないか」
「いいえ!」
穏やかな晴信の言葉を、栄は鋭く否定した。
「父は人買いと同じ事をしているのです。紀和に連れて行かれた者は、もともとの民と区別され、労働力として牛や馬のように扱われているのです」
悲壮に声を高めた栄が、唇を噛み両手で顔を覆った。
「申しわけございません」
指の隙間から漏れた苦しげな栄の声に、晴信も克頼も呑まれた。
栄は深い呼吸を繰り返し、気を落ち着かせた。顔に当てていた手を床に着き、頭を下げる。
「ですから……どうか、私をこちらに残してくださいませ」
晴信はそれに、わかったと答えるしかなかった。
* * *
騎乗している晴信に、克頼が並んだ。
「晴信様」
呼んだ克頼は、そのまま晴信の前に出て馬の足を止める。行く手を遮られた晴信の馬が、足踏みをして鼻を鳴らし、止まった。
「どうした、克頼」
憮然とした克頼に、晴信はのんきな顔を向けた。
「先ほどの栄姫殿のお言葉、まるごと受け止められてはおられませんな」
何を言い出すのかと、晴信は目を丸くした。深々と息を吐いた克頼が、あきれたように首を振る。
「何だ、克頼」
「信用をなさいませんよう、ご注意ください」
「何故だ。克頼も褒めていただろう。自分の立場をよくわきまえている、と」
「立場をわきまえているというのは、褒めたわけではございません」
「しかし、自分がどういう意味を持つ存在なのかを、知っているというのはえらいじゃないか。俺は、何も知らずに過ごしていたからな……」
声を落とした晴信の唇が、苦い笑みを浮かべている。胸深くに息を吸った克頼は、周囲に目を配って晴信に顔を寄せた。
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