ジョーカー

 さて、映画にはとある悲しき宿命とも呼べるものがあります。


 それは「言うほどじゃない現象」です。


 ディズニーのノートルダムに出てくる鐘撞き男は「言うほど」醜くない。

 シュレックは「言うほど」醜くない。


 悪も同じです。


 勧善懲悪ものだったら、悪はきっちり悪だけれど、いざ主人公として悪を語るとなると、そこには「言うほどじゃない」が出てきてしまう。


 マレフィセントも悟飯とピッコロさん現象におちいったし。

 スーサイドスクワットの悪人たちはどう見ても「平均よりもいい人達」だし。

 せっかく闇堕ちしたアナ雪のエルサも、最後はなんか「愛よ」とかわけわかんないこと言ってスケートリンク作ったし。




 要するにね、だめなんですよ悪って。


 本当に語ろうとしたら、観客がひいちゃうんだもん。どうしても共感できるように描けない。ていうか共感するように描いちゃいけない気がする。そんなの悪いこと。映画を作る人間だってそこは気持ちのいいもんじゃない。罪悪感とか残っちゃう。


 だから映画にはいつも「言うほどじゃない」現象がある。

 ぶっ飛ばしてくれる正義の味方が存在しない、悪が主役の映画には、なおさら。




 今までは。





 ぶったまげた。


 この映画、あちこちで批判も出てる。


 危惧する声も何度か目にした。大人にとって――そう、大人にとっても、教育上よろしくないと。


 そうかもしれない。否定ができない。


 だれでもジョーカーになりうるとか、そんなことを危惧してるんじゃない。ジョーカーっていうのは、そもそも人を悪の道に引きずり込む誘惑者のことをいう。だから、ほんとうに怖いのは、これを見てジョーカーになることじゃない。


 これを見て、悪に惹かれてしまうことだ。


 そしてそれこそが、西洋でいうところの、悪そのものなのだ。



 この映画はあらゆる意味で、ジョーカーそのものになってしまったわけだ。



 地下鉄のトンネルを踊りながら、ジョーカーに仕上がった男が歩くさまよ。


 なんてかっこいいんだと思わざるを得ないよ。




 もしかしたら映画を作った人間たちにとっても、これは誤算だったんじゃないかと思える。だって映画の最後に、ジョーカーがあるセリフを吐くからだ。


 映画を作った連中は、ジョーカーに共感なんてしてほしくなかったんじゃないか。


 少なくとも、「こいつは本物の悪だ。映画を見に来る善良な人たちは、きっと共感なんて絶対できないだろう」と思って、あのセリフを書いたはずなのだ。


 でも、あれを聞いて「いや、おれはわかるぜ」と思った人は、いるんじゃないの。


 けっこう、いたんじゃないの。



 作った人さえ、そのやばさに気づかなかったと思えるようなセリフ。


 それをジョーカーが言う。

「言うほどじゃない」なんて言葉がつけられないほどの彼が。



 やばいよ、この映画。

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