歌姫のほとり

藍雨

歌姫のほとり



歌声が波音に潜み、静かな浜辺に響いていた。


「忘れたい、忘れたかった、でも、忘れることなんて、できないの……」


失くした足の代わりとばかり、美しく澄んだ歌声は、渡り鳥や旅人の心を奪って離さなかった。



僕の心も、話に聴く旅人たちの例にもれず、彼女の歌声にすっかり奪われてしまっていた。







「お隣、よろしいですか?」


歌声以外の声すべてを失ったかのように、彼女はひとことも話さない。

でも僕は、彼女になにかを語ってほしいわけではない。


それは旅詩人である、僕の役目だ。


「あなたの歌声に惹かれて、此処を離れるのが惜しくて気づけばずっと海を眺めていました」


歌姫は、穏やかな笑みを浮かべたまま、夕に沈む水平線をみつめていた。


「寄せては返すさざ波はなみだ

 こころに合わせて、寄せては返す」


水気を嫌う楽器だが、たまにはこういう場所で弾くのもいい。


「…………」


目を伏せた彼女は、僕の音に耳を傾けているようだった。

彼女に応えるように、音を奏でる。


渡り鳥が、夕の空の彼方へ影となっていく。





旅人にテントはつきものだ。当然、僕はこの浜辺で寝泊まりする。

すこし海風が強いが、それもたまにはいいだろう。


彼女はどこで眠るのだろう。

彼女はなにを食べるのだろう。

誰と生きてきたのだろう。

誰と生きていくのだろう。


ひとりで、生きていくのだろうか。



波音がテントの中まで聴こえてくる。

風に乗り、澄んだ歌声も。


歌姫は、眠らないのだろうか。

歌姫は、眠れないのだろうか。


なにを思って歌うのだろう。


傷ついた女性の声が、誰の心にも響く音に代わり、人々の涙を誘う。



静かな夜だった。





「おはようございます」


今日も懲りずに、歌姫の隣、きっと誰かが彼女に寄り添っていただろう場所に腰掛ける。



大事そうに抱えているその靴は、誰のものですか?



訊かない。訊けない。訊いてはいけない。

彼女の歌声を、揺さぶらないように。

自分の詞を、壊さないように。



「失くした言葉は誰のため

  失くした言葉は彼のため」



涙がひとつ、大海の雫となり消えていく。


彼女はどうして、泣いているのだろう。

僕の言葉に涙を流しているなんてことは、きっとない。


彼女に言葉は届かない。

誰の言葉も届かない。

彼の言葉でないと、届かない。



歌姫の逸話は、ある青年の「死」と同時に、国中を駆け巡るようになった。







「駄目よ、わたしは声なんていらない」

「いいや。君には届けたい想いがあるはずだ。声がいらないなんて嘘は、吐かなくていい」

「嘘じゃないわ! 嘘なんかじゃ、ないの……」


誰の声だろう。聴こえないはずの声が聴こえる。

ああでも、歌姫の声によく似た――――――――。




「……聞いた? マシューが言葉を話せなくなったって」

「ああ、あの似非魔女の仕業に違いないね。でもいい気味だよ、あいつは代わりに足を失った」

「でもマシューは吟遊詩人よ? 声が出せないんじゃ、もう……」


誰の話だろう。

ああでも、吟遊詩人と呼ばれる人間には、心当たりが――――――――。




「マシュー、貴方はなんてことを……!」


歌姫の前には、微笑む青年が立っている。

その顔には、なんだかとても見覚えがあって――――――――。







「……っ、おっと、眠ってしまうところでした」


すっかり濡れてしまった足を手拭いで拭く。

塩水ですこし気持ちが悪いが、仕方ない。


夕暮れ時になると、彼女は決して歌わない。

その表情は、ひたすら後悔に苦しんでいるようだった。


「その後悔は、君のもの。そしてそれは、僕のもの。

 君だけのものではない。君だけが苦しむ必要はない」


こんな詩は、普段はあまり考えない。

でも歌姫に共感したくなったのだ。たまには、いいだろう。


僕の後悔は、なんだっただろう。

旅路の先に、答えはあるだろうか。



「あなたの足跡も、わたしの足跡も、嘘じゃない」

「っ!! ……足跡、ですか。あなたとは、あなたの大切な人ですか?」


当然歌姫は応えない。


「……失礼しました」


光を反射する髪が揺れる。その眩しさに覚える既視感の正体を、僕はまだ知らない。







「では、そろそろ此の海ともお別れです。……あなたとも」


気づけば一週間が経っていた。

歌姫は、今日も静かに歌っている。かすれることのない声が、心を揺らし、涙を誘う。


「さようなら」



歌姫のほとりで過ごした時間、脳裏をかすめた記憶たち。

まだ知らないそれらの正体を、旅路の先に求めて。


僕は何故か流れる涙を拭いつつ、彼女の隣にさよらなをした。







僕の足跡をさらう波音が、彼女の歌声をかき消した。

夕暮れ時の、始まりだった。




Fin.

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歌姫のほとり 藍雨 @haru_unknown

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