歌姫のほとり
藍雨
歌姫のほとり
歌声が波音に潜み、静かな浜辺に響いていた。
「忘れたい、忘れたかった、でも、忘れることなんて、できないの……」
失くした足の代わりとばかり、美しく澄んだ歌声は、渡り鳥や旅人の心を奪って離さなかった。
僕の心も、話に聴く旅人たちの例にもれず、彼女の歌声にすっかり奪われてしまっていた。
○
「お隣、よろしいですか?」
歌声以外の声すべてを失ったかのように、彼女はひとことも話さない。
でも僕は、彼女になにかを語ってほしいわけではない。
それは旅詩人である、僕の役目だ。
「あなたの歌声に惹かれて、此処を離れるのが惜しくて気づけばずっと海を眺めていました」
歌姫は、穏やかな笑みを浮かべたまま、夕に沈む水平線をみつめていた。
「寄せては返すさざ波はなみだ
こころに合わせて、寄せては返す」
水気を嫌う楽器だが、たまにはこういう場所で弾くのもいい。
「…………」
目を伏せた彼女は、僕の音に耳を傾けているようだった。
彼女に応えるように、音を奏でる。
渡り鳥が、夕の空の彼方へ影となっていく。
○
旅人にテントはつきものだ。当然、僕はこの浜辺で寝泊まりする。
すこし海風が強いが、それもたまにはいいだろう。
彼女はどこで眠るのだろう。
彼女はなにを食べるのだろう。
誰と生きてきたのだろう。
誰と生きていくのだろう。
ひとりで、生きていくのだろうか。
波音がテントの中まで聴こえてくる。
風に乗り、澄んだ歌声も。
歌姫は、眠らないのだろうか。
歌姫は、眠れないのだろうか。
なにを思って歌うのだろう。
傷ついた女性の声が、誰の心にも響く音に代わり、人々の涙を誘う。
静かな夜だった。
○
「おはようございます」
今日も懲りずに、歌姫の隣、きっと誰かが彼女に寄り添っていただろう場所に腰掛ける。
大事そうに抱えているその靴は、誰のものですか?
訊かない。訊けない。訊いてはいけない。
彼女の歌声を、揺さぶらないように。
自分の詞を、壊さないように。
「失くした言葉は誰のため
失くした言葉は彼のため」
涙がひとつ、大海の雫となり消えていく。
彼女はどうして、泣いているのだろう。
僕の言葉に涙を流しているなんてことは、きっとない。
彼女に言葉は届かない。
誰の言葉も届かない。
彼の言葉でないと、届かない。
歌姫の逸話は、ある青年の「死」と同時に、国中を駆け巡るようになった。
○
「駄目よ、わたしは声なんていらない」
「いいや。君には届けたい想いがあるはずだ。声がいらないなんて嘘は、吐かなくていい」
「嘘じゃないわ! 嘘なんかじゃ、ないの……」
誰の声だろう。聴こえないはずの声が聴こえる。
ああでも、歌姫の声によく似た――――――――。
「……聞いた? マシューが言葉を話せなくなったって」
「ああ、あの似非魔女の仕業に違いないね。でもいい気味だよ、あいつは代わりに足を失った」
「でもマシューは吟遊詩人よ? 声が出せないんじゃ、もう……」
誰の話だろう。
ああでも、吟遊詩人と呼ばれる人間には、心当たりが――――――――。
「マシュー、貴方はなんてことを……!」
歌姫の前には、微笑む青年が立っている。
その顔には、なんだかとても見覚えがあって――――――――。
○
「……っ、おっと、眠ってしまうところでした」
すっかり濡れてしまった足を手拭いで拭く。
塩水ですこし気持ちが悪いが、仕方ない。
夕暮れ時になると、彼女は決して歌わない。
その表情は、ひたすら後悔に苦しんでいるようだった。
「その後悔は、君のもの。そしてそれは、僕のもの。
君だけのものではない。君だけが苦しむ必要はない」
こんな詩は、普段はあまり考えない。
でも歌姫に共感したくなったのだ。たまには、いいだろう。
僕の後悔は、なんだっただろう。
旅路の先に、答えはあるだろうか。
「あなたの足跡も、わたしの足跡も、嘘じゃない」
「っ!! ……足跡、ですか。あなたとは、あなたの大切な人ですか?」
当然歌姫は応えない。
「……失礼しました」
光を反射する髪が揺れる。その眩しさに覚える既視感の正体を、僕はまだ知らない。
○
「では、そろそろ此の海ともお別れです。……あなたとも」
気づけば一週間が経っていた。
歌姫は、今日も静かに歌っている。かすれることのない声が、心を揺らし、涙を誘う。
「さようなら」
歌姫のほとりで過ごした時間、脳裏をかすめた記憶たち。
まだ知らないそれらの正体を、旅路の先に求めて。
僕は何故か流れる涙を拭いつつ、彼女の隣にさよらなをした。
僕の足跡をさらう波音が、彼女の歌声をかき消した。
夕暮れ時の、始まりだった。
Fin.
歌姫のほとり 藍雨 @haru_unknown
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます