第3話 おでん

 は、と吐き出した息の中に疲れが混じっていた。


 歳は取るもんじゃない。どれだけ働いても平気な時期はとっくに通り過ぎた。中華鍋を振るう度に腰と肘へ痛みを感じる。昼から深夜まで、デザートタイムを除いてずっと立ち続けていることも辛くなってきた。

 脱サラして憧れだった一国一城の主になれたものの、選んだ仕事がラーメン屋というのは長期的に見れば間違いだったのかもしれない。

 最後の客を見送ったのが午前二時。店の後片付けと翌日の準備をしていれば気が付けば四時。これでも仕込みはほとんど営業時間中にやってしまうのだからそう手間でもないはずなのだが。

 痛む腰を軽く叩きながら、のんびり自宅への道を歩く。店から家までは徒歩五分ほど。川岸の小さな公園を超えるのが一番早い。今日もいつもの通り、痛む体を引きずりながら自宅への道を歩いていく。

 と、こんな時間にも関わらずぼんやりと赤く光っている提灯が目に入る。駅から近いといっても、住宅街からほど近いこの辺りではこんな遅くまでやっている居酒屋すら存在しない。

 開いているそれを見るのは久しぶりだった。小さな屋台には、それに見合う小さな椅子が数脚並べられている。その端に、一人の客がいるのが見えた。まだ冷える春先に、こんな店に長っ尻する人間なんて珍しい。

 おでん、ねぇ。

 そういえば、軽くかっこんだチャーシュー丼以外ほとんど口にしていなかったのを思い出す。冷え冷えとした春先の明け方は、まだまだおでんがよく似合う。

 たまには、こういうのも。



 ***



「まだやってんのかい」

 ひょい、と顔を出すと、疲れたような顔をしながらも楽しそうな中年の男が目に入る。自分よりは、少し年下だろうか。肌つやより年がいって見えるのはもしかしたら白髪混じりの紙のせいかもしれない。

「いつもだったら閉めてんだけど、こいつが帰んなくってさ。食ってくかい」

「おう。あるんだったらもらおうかな」

 長い暖簾を払いのけてその中に入る。夏とは違いビニールシートを全体にかけているその屋台は、おでんの湯気のせいか想像以上に暖かい。小さな椅子に腰を落ち着かせるのと同時に、隣から鼻を啜るような情けない悲鳴が上がった。

 黒の薄いダウンを着たその男は、ちびり、とビールを飲みながら目を真っ赤に腫れさせている。泣いていることは明らかだ。

「どうしたんだい兄ちゃん」

 ほぼ明け方と言える時間帯にあまり相応しくない真面目そうな少年に見えた。楽そうなジーンズにトレーナーを着ているが、真っ黒の短い髪や、口をへの字に曲げているものの酔っているだろうに崩れていない姿は生来の姿を現しているように思える。

「就職活動だとよ」

「……なんでこんな、うまくいかないんですかあ」

 おでん屋が笑いながら落としたところで、男は顔を赤くしてそう呟くと、ちびちび飲んでいたビールをいっきに煽る。飲みきると同時に、げふ、とげっぷを吐き出す。ついおでん屋と目を合わせてしまい噴出した。泣き上戸の絡み上戸、こりゃあ面倒だ。

「で、残っているもんならなんでも出せるが、何にする」

 おでん屋が笑いながら俺にそう聞く。そして聞きながら、銀色の大きな蓋をゆっくりと持ち上げる。ぶわ、と屋台全体を覆い尽くす湯気が溢れた。透明な金色の出しからは甘いいいにおいがする。いいねぇ、これぞおでんだ。

 出汁の中を覗けば、確かに少なくなっているもののそれなりに残っているようだ。

「とりあえず、卵と大根、あとはんぺんだな」

「あいわかった」

 ちょい、ちょい、と慣れた様子でおでん屋が皿によそうのを見てから、未だずびずびと鼻を鳴らす隣の男に視線を動かす。

「あんた、今いくつだ」

 横の男が、びくり、と肩を震わせる。それからおそるおそるといったそぶりでこちらを向いた。倍以上も年齢が離れていると、やはりどうにもこの世代の人間は幼く見えて仕方がない。

「はたち、ですけど」

 おどおどするように男が告げる。小さく頷いて軽く背中を叩いた。男の方がびくりと震える。

「おでん屋、日本酒を三つだ。この兄ちゃんとあんたの分も」

「お、景気がいいねぇ」

「景気が悪い話をするんだ。これくらいするんだよ」

 おでん屋は笑いながら俺の目の前におでんを置く。遠くで感じる湯気の香りだけでも美味そうに思うが、こうして目の前にくるとその気配は濃厚になる。種類は違えど出汁を毎日扱っている身だ、これが何の匂いなのかはわかる。鰹節と、昆布。おでんはやっぱりこうでなければ。

 ほくほくと湯気が立ち上っていくのを見て胸の中も同じ温度になっていくのはなぜなのだろう。

「よし、じゃあ日本酒三つ。ぬるでいいな」

「おう」

 おでん屋がそう言いながら、小さな枡の上にコップを三つ置いた。小さなおでん屋だというのに、もっきり酒とはいい趣味をしている。自分の目の前にもコップが置かれ、驚いたように身を起こしたのは泣いている男だった。

「え、おれ、日本酒は」

「いいから飲め。年寄りの酒も飲むもんだ」

 おでん屋がそう言いながらこぷこぷと日本酒を落とす。コップからこぼれた酒が枡の方に落ち、そこになみなみ注がれたところでようやくおでん屋は手を止めた。他の二つのコップにも同じように注ぐ。

「んじゃあ」

 俺が枡に手を伸ばす。おでん屋、若い男も同じように枡に手を伸ばした。

「乾杯」

 俺がそういうと、おでん屋も楽しそうに呟き、そしてコップに口を寄せる。俺も同じように口を寄せると、ずず、と音を立てて日本酒を吸う。米の味というより、日本酒らしい辛さが広がり、それから鼻の奥を米の匂いが抜けていく。だが飲み込むと同時に日本酒特有の甘さがほんのり口の中に残った。

 安酒だが、悪い酒ではなさそうだ。

「人の金で飲む酒は美味い」

 おでん屋がほんのり顔を赤くしてそういった。一啜りだけのはずだ。あまり酒は得意ではないのかもしれない。よこの男をちらりと見た。飲み方がわからないのか、見よう見まねで口元をグラスに吸いつけている。若干ではなく、間抜けに見える。

 こくん、と喉を動かしてから、少し眉を寄せた。

「日本酒は、普段飲まないのか」

 そうたずねると、男は素直に首を縦に振る。まあ、今時の若い青年が日本酒を飲むというのは確かにほとんど聞いたことが無い。

「日本酒って聞くと、イッキする飲み物のイメージのほうが」

「日本酒でイッキか。はは、若いな」

 俺が笑うと、目の前の男はなぜかまぶしそうに目を数度瞬きを繰り返した。それからようやく、俺の存在に気が付いたかのように、小さく頭を下げた。そして再び、ちびり、とコップに口を寄せる。

 その様子を見ながら、俺は皿の上に横たわった大根に箸を伸ばす。箸が大根を切るという意思を見せる前に、箸に溶かされるように大根は裂けていった。お、と声にする前に口を開くと俺の前に座るおでん屋が楽しそうに笑う。

「柔らけぇだろ」

「ああ」

 言われるがまま頷き、一口大に切ったそれを口の中に放り込む。予感していた通り、噛むよりも前にしっかりと吸い込まれた甘い出汁がぎゅっとあふれてきた。それに少し遅れて出汁の塩味と鰹と昆布のいい香りがふわりと鼻から抜けていく。煮詰まりすぎたしょっぱさは感じるものの、甘さと塩辛さのバランスがちょうどいい。

 うん、いい塩梅だ。これはこれで参考にするところがある。まったく別の食といえど、出汁を使うという分野としては被っている。

「これはうめぇな」

「だろう」

 おでん屋はそう言いながら自分用にも皿を準備して食べ始めた。屋台はこうなったらもうだめだ、仕事というよりは楽しみになる。まぁ、それも一つの楽しみであるからいいのだが。何より、客である俺にとっては都合がいい。

 男も日本酒の味から逃げるためなのか、目の前に残っていたちくわに箸を伸ばして、豪快に口の中に放り込む。ゆるりと眉が下がる。いい表情で食事をする男だ。


 それを見て、今日店に来た妙な男を思い出した。そろそろ閉めようかと思っていた頃にやってきたその男は、酷く疲れた様子で店の中に入ってきた。のろのろとした動きでカウンターまでやってくると、味噌ラーメンに瓶ビールを頼んでいった。

 まぁそれは別に珍しいわけではないんだが、味噌ラーメンが着た瞬間に、かきこむような勢いで麺をすすり始めた。味わうというより、とにかくかっこんでいった。

 飢えているのかと不安になったぐらいだったが、幸せそうに顔をあげたその頬が薄い赤色に染まり、随分と幸せそうな表情をしていたことに、心臓の辺りがそわりと揺れた。

 あれは、いい表情だった。帰り際、言いなれない様子で言われた感謝の言葉も胸に響く。あんなにうまそうにラーメンを食べられたのは久しぶりだった。

 横の若い男を見て、あの若い男を思い出す。


 ぐしゃり、と強引に頭をかきまぜると、その若い男は驚いたように視線を瞬かせた。

「就活なんてなあ、やってもやらなくてもいいんだよ」

 俺がそういうと、男は驚いたように目をぱしぱしと開いたり閉じたりする。それから訝し気に首を傾げ、答えを求めるように俺を見た。

「やりたくなきゃ、俺みたいにラーメン屋、やってみろよ」

 はは、と笑うと、男は困ったように眉を下げたまま愛想笑いのような笑顔を顔に張り付けた。大声で俺につられて笑ったのはおでん屋だった。

「そりゃあいい。おっと、おやっさん全然飲んでねえじゃねぇか」

「お、じゃあもう一杯もらおうか」

 ぐ、と残った酒をすぐに空にして、ついでとばかりに枡に残った酒もいっきに飲みほした。おでん屋が楽しそうに「よっ」と声をあげる。若い男はついてこれずにきょろきょろと視線を惑わせた。

「まあ、なんとかなるってことよ」

 コップをおでん屋に突き出しながら俺がそういうと、若い男の肩がすとん、と落ちる。ああ、男はそれくらいの方がいい。気張るのは女が見ているところだけでいいんだ。

「なんならこのおでん屋、のれん分けしてやってもいいぞ」

 こぷこぷと音を立てて酒を注ぎながらおでん屋が笑う。俺も声をあげて笑った。なんだか、妙にいい気分だ。さらに残ったはんぺんを食べる。さすがにこれは煮すぎでしょっぱい。商売としては失敗だな。

「おでん屋、はんぺんまずいぞ」

「次は美味いときに来いよ」

「お、次は俺のラーメンを食わせてやる」

 おでん屋は楽しそうに笑う。その顔はいい。

「俺のおでんよりうまけりゃ食べてやるよ」

「こんな煮過ぎたおでんに負けるかよ」

「次はちゃんとうめぇの作って待ってんよ」

 おでん屋が眉尻を下げた。それもそうだ。次はもっと早い時間に来てやろう。そしてまた、若いやつがいたら茶化してやればいい。

「お前もまた来いよ」

 若い男に俺がそう声をかける。男が、慌てたように残った日本酒をいっきに飲み干すと、こくこくと何度も頷いた。

「また、また来てもいいですか」

 おでん屋と目を合わせる。俺が答えるところでもないと思うが、夜の明け始めた美しい世界に免じて代理で答えておいてやろう。


「また、一杯やろうじゃねぇか」


 今日の仕事が、また少し楽しみになった。




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