第4話 ツナ缶

 腹が、減った。

 ぐうぐうと叫び続ける自分の腹に辟易したが、何かを買いに行くという気力も余分なお金もない。ごろりと寝転がるせんべい布団には寂しい学生の汗の匂いが染みついていた。なんとも空しい。

 随分前に短く切りそろえた髪の感触に未だ慣れずにいる。就職してからしばらくはこの髪型でいなければならないのだろう。延ばし続けていた襟足の辺りがスカスカと常に風を浴びているような気分になる。

 ちらりとカーテンの完全にしまっている窓際を除いた。大学からほど近い場所に借りた1Kにかかる薄いカーテンからは、薄く外の街灯が見える。時間を確認しようと携帯を引っ張った。

 20:09。

 ああ、眠りすぎた。眠りすぎて痛む頭を押さえながら体を起こす。こちらに気付けとばかりに点滅するスマホの案内に負けて中を除けば、希望から電話がかかってきていた。自然、はあ、と嫌なため息が零れた。

 ラインもメールも確認したが、待っていた採用の通知は一切なく、むしろ二通ほど新たなお祈りメールが増えていただけだった。連絡を待つメッセージがいくつか並んでいたが、全て無視してベッドへ放り投げた。

 うまく、いかねぇなあ。



 ***



 順調だったはずだ。人生なんてイージーモードと語っていたほどだ。

 授業さえ聞いていれば別に他に勉強しなくたって勉強はできた。運動神経の良さは親譲りで、何をしなくても人より早く走れたし、一人より上手くボークを操ることが出来た。むしろ他人の不自由さが不思議でたまらなかった。あんな簡単なことがどうしてできないのだろうか。

 友達に困ることもなかったし、一流と呼ばれる大学に進学してからも勉強に悩むことはなかった。教授にも一目置かれる存在であったし、意味なく入った飲みサーでも気が付けば中心人物になり、もちろんのようにサークル長も任されている。

 要領の良さはバイトでも発揮された。居酒屋のバイトでは二年ほど早く入った先輩より仕事ができると褒められたしすぐに昇給した。時間によっては時間帯リーダーも任されている。

 そう、俺は選ばれた人間。そんな自分を疑うことは、この人生で一度もなかった。

 ところが、だ。

 就活を初めてみてからどうだろう。周りがじわじわと内定を取っていく中、俺は一人追い残されていた。周囲は「理想が高いからしょうがないね」とか「大手はこれからだから」と勝手に納得をしているが、そうではないことを俺は知っている。

 同じゼミを選んだパッとしない友人が内定をもらった会社も俺は受けているし、地元の中小企業にも履歴書を送り込んだ。どれも一応出したわけではなく、本当に行きたいと思って出した履歴書だった。

 しかし、そのどれも、俺の存在をはねのけた。

 徐々に俺はお祈りメールや、お断り電話の数に埋もれていく。何もできず、ただひたすら紙と電話の海の中で次の一枚を必死に描く。もはや何がしたいのかわからなくなっていた。

 必死に行った自己分析も、会社研究も、全ては一枚の紙や一回の面談で全てが水疱に帰す。自分ごと否定されるようなその感触が、俺が人生でも一度も経験したことのない痛みだった。



 ***



 ピンポーン。

 呼び鈴が鳴らされると同時に扉が開いた。問答無用に開けられた扉が、いくつか溜まっている狭い玄関の靴にぶつかってガツ、と雑な音が立つのが聞こえた。それと同時に聞こえる引きずるような安物の細いヒール音。

「昌義(まさよし)、生きてる?」

 にぎやかな、だが間延びした声で俺を呼ぶ声が聞こえた。聞きなれたその声に、俺は諦めて立ち上がった。キッチンと玄関の間にある薄い扉を開くと、想像通りの人間がそこにしゃがみこんでミュールを脱いでいた。

 明るい茶髪を高く結い上げ、ぴったりと体に張り付くような薄いニット素材のミニスカート、くるぶしまでの黒いスパッツをまとったその女性は、堂々とした足取りで部屋の中へと侵入する。

「今日も来たの」

「だって家遠いし」

「まだ八時じゃん」

「ちょうどいい弟の家があるんだもん。たまにはいいじゃん」

 はは、と高い声をあげて姉は笑いながら僕の背中を押しながら僕のリビング兼寝室に入り込む。それからきょろりと視線を回した。

「相変わらず小綺麗にはしてるんだよね」

「それくらいはね」

 姉が部屋の中をくるくると見回しているのを横目にしながら、何か腹に入れられるものはないかと部屋を出てキッチンに出て冷蔵庫中を漁る。驚くほど冷蔵庫の中は空だ。当然冷凍庫には氷しかない。よこぞここまで空にできたといえる。

「まさよしー」

「なんだよ」

「なんか飲めるものないの?」

「水とお茶なら」

 冷蔵庫中を覗きながらそういうと、扉からこちらに視線を向けている姉が不満そうに唇を尖らせた。

「ちがーう」

 その言葉に何を言いたいのかようやく伝わった。

「……ああ、焼酎しかないけど」

「十分」

 ふふん、と言いながら姉は立ち上がり一緒に冷蔵庫を覗き込む。だが姉が見たところで冷蔵庫の中に何もないことは変わらない。

 姉が何も言わず小さく頷き、今度はシンクの下を覗き込む。しかし残念ながらゴミ袋と貰い物のツナ缶があるだけだ。

「いいのあんじゃん」

「え」

 姉はツナ缶を取り出して口元をにやりと緩ませる。こっちが首を捻ると、姉は口をゆっくり横に引く。真っ赤な唇が三日月のような細さで歪む。

「醤油ある?」

「あるけど」

「じゃあ、飲もう!」

 楽しそうに姉はそういうと、勝手知ったる人の家、姉は棚の中からガラスのコップを二つ取り出すと、冷凍庫から氷をその中に移動させた。それからコップの三分の一ほどに、ほぼ遊びに来る姉の為だけに準備している焼酎ボトルを傾けた。トクトクと優しい音とともに、アルコールの温度で氷が微かに溶けてカランと音を立てた。

 大して酒は飲めないものの、やはりその氷の音にはあらがえず喉の奥がゴクリと鳴る。それと同時に腹もなる。姉はそれを聞きながら軽く笑った。

「あんたごはんもまだなの?」

「あ、うん」

「じゃあご飯も一杯、よそって」

 冷蔵庫に残っていた水をコップに注ぐ姉に何も言わずに小さく頷き、炊飯器の中で色を変えかけている米をよそう。それから指示されるがまま、小さなリビング兼寝室に小さな机を出し、そこに焼酎と米を運ぶ。

 そこまで準備が出来たところで、姉が小さな器を持ってこちらにやってきた。

「何それ」

「醤油ツナマヨ」

 え、と俺が顔を持ち上げると、姉がやっぱり楽しそうに笑う。差し出された箸を手に取る。姉は当然のように俺の目の前に腰を押しつかせた。

「まぁとりあえず」

 姉が挑発的にコップを持ち上げ、俺に差し出す。同じ素振りで、カン、とグラス同士をぶつけ合わせた。安っぽいコップの音だが、それでも心地のよい音が耳に落ちて心地がいい。

「かんぱーい」

「乾杯」

 楽しそうに声をあげる姉に付き合う形で同じ言葉を口にする。それからちびり、と口をグラスに近づけでぐ、と喉に流す。麦焼酎特有の少し渋い香りと、強いアルコール臭、だがするりとその特有の香りも抜けている瞬間を楽しむ。

 案外焼酎を嫌いな友人は多いが、個人的に日本酒よりはずっと飲みやすいし、好きだ。だがそう言っていたのも昨日までの俺であり、あのおでん屋で朝が完全に明けるまで飲んだ頃には、日本酒も少し好きになった。

 ちびり、ともう一口飲み込む。ストレートやお湯割りより、俺と姉は水割りを好む。最初に感じる辛みがなんとなく心地いいのだ。

「んまいねぇ」

 にひぃ、と歯を見せて笑う姉につられて俺も小さく頷いた。四つ上の姉は、法律が飲酒を許すや否やあっという間に酒の虜になったらしい。母からも「あれはダメな酒好きだから」と釘を刺されたこともある。

「んで、これ。食べてみ」

「醤油ツナマヨって」

「つまみだけで食べるのもいいんだけど、ベストはやっぱりお米だね」

 そう言いながら、姉は遠慮なくそのツナマヨに箸を伸ばし、ほんの少しだけつまんで幸せそうに眉を下げた。酒を飲んでいるのときの姉は、いつもより素直で、そしていつもより幸せそうだ。

 誘われるがまま、俺もその醤油ツナマヨを箸でつまむ。どう見ても、ツナにマヨネーズと醤油をかけてかきまぜただけのように見える。いや、きっとそれだけなのだろう。うちにまともな調味料なんてそれくらいしか存在しない。

 ごはんの上に乗っければ、どう見ても残飯にしか見えない。最近は限界飯という言葉がはやっていると聞くが、まさにそれだろう。

 あまり食べる気はしないが、焼酎を入れられてさっきよりも空腹を訴える腹が「それでいいからよこせ」と小さく震える。しぶしぶ、それを口の中に放り込んだ。

 放り込んで、驚いた。

「うまい」

 食べてから、そりゃそうだ、と俺の中の誰かが囁く。口の中に入った瞬間思ったのは、コンビニで最近売られている和風ツナマヨおにぎりだ。醤油ベースのごはんツナマヨが入っている、ただそれだけのあれだ。

 あれと同じ味が口の中で広がった。姉が満足そうに歯を見せて笑う。

「でしょう」

「……そりゃあ、うまい組み合わせだよな」

「これがお酒にもお米にもあうから不思議だよねぇ」

 はは、と笑い、姉は再びツナマヨに箸を飲ます。それから思い出したかのようにポケットにねじ込んでいたスマートフォンを取り出して、画面の上にするすると指を滑らせる。

 俺はもう一度ツナマヨ箸でつまみ、今度はそのまま口の中に放り込んだ。ごはんのおかずになるくらいだ、結構塩味は強い。飲み込む前に、コップの中身を流し込む。

 ああ、この組み合わせは悪くない。油の強いシーチキンとマヨネーズ、そして印象は強いものの薄味の焼酎と醤油がきれいに口の中でバランスよく手を取り合う。

 妙にチープな味がちょうどいい。肩肘張らない、おいしいけれど安っぽい。俺にはこれくらいが、本当にいい。ツナマヨと焼酎、いいじゃん。

 もう一口、焼酎を飲み込んだ。


「あんたさ、将来何やりたいの」

 携帯に夢中になっていたはずの姉が、唐突にこちらも見ずにそう呟いた。茶碗の中の米は当に空っぽで、俺はツナマヨをつまみにちびちびと焼酎を飲んでいた。

「そりゃあ、いずれは大きな商品企画とか」

「そのときのあんたはどんな格好で働いてる?」

「……え?」

 どんな、恰好で。ふわりとしていた印象は姿も見えず消えていった。姉がスマートフォンを机に置いて、真剣な瞳をこちらに向ける。

「何年後? どこで? 理想はどういう職場?」

「そ、そんなん、会社次第だろ」

「でも理想はあるでしょう。どういう風に働く、くらい」

 姉が考えるように「そうねぇ」と口にする。エクステなのかつけまつげなのか、人工的なまでに長い睫毛がバサバサと揺れた。

「これでも私、30までに店持ちたいの」

「店?」

「最低店長。可能であれば社長」

 聞いたことのなかった姉の夢に、目を瞬かせる。俺よりずっと成績の悪かった姉は、ずっと学生時代にアルバイトしていたアパレル関係の会社に契約社員として入社し、そして正社員になった。

 そして今も、だらだらと年の似合わないそのギャル系アパレルショップで働いている。それは、そうでしかならないだけだと、そう、思っていた。

「具体的なものは仕事初めてみなきゃわからないかもだけどさ、なんかこう、ふわってやつは今から持っててもいいんじゃない?」

「ふわってやつ」

「そ。私だったら、絶対スーツや制服で働きたくない、っていうのだったし」

 へへ、と笑いながら鼻の下をこする姉は、あまり見たことのない姿だった。姉が、そんなことを考えて生きてきたなんて、知らなかった。

「……そういうのでも、いいのか」

「むしろ今時そういうのの方が多いんじゃないの?」

 姉はつまらなそうにそういうと、再び自分のグラスを傾け、そして一気に空にした。「もう一杯もらうね」といいながら、少し気恥しそうにキッチンへ向かう姉の姿を見ながら、なんだか胸の中が軽くなったような気がした。

 何かが、府に落ちたような、そんな気がした。

「姉ちゃん」

 久しぶりに、その呼称で呼びかける。当然のように姉は「なに」と返した。

「俺にも、もう一杯」

 明日、もう一度大学の就職支援を受けに行こう。姉にグラスを預けながら、ぼんやりそんなことを思った。

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