第2話 味噌ラーメン


 肩の重さが尋常じゃない。

 岩のように固まった筋肉に触れながら首を回す。目の奥の鈍い痛みはパソコン画面を見てしまったせいだろうか。吐き出した息が生臭い。

「お先ー」

「お疲れっす」

 少しずつ消えていくオフィスの蛍光灯を見ながら、冷め切ったインスタントコーヒーを喉の奥に流し込んだ。最後に切ったのはいつだかわからない髪の毛をくしゃりかき混ぜて、コードの波を見つめる。眼鏡越しに見えるパソコン画面は、寒々しく僕の目に映った。

 オフィスに残ったのは、僕だけ。一人薄暗い社内の中で、しょぼしょぼ潰れそうになる視界と戦いながら、ひたすらに海の中にある小さなミスを探して泳ぎ続ける。

 小さな文字列の中に乱れのようなものを見つける能力が他者より高いと気が付いたのはいつからだっただろうか。気が付けばそういったエラーを見つけるデバックの専門家のような位置を部署で抱えるようになった。

 まだ二十八だが、この業界ではもう若手とは言えず、中堅になる。古株になってしまう前に、新しい言語を覚えて別の分野を習得しなければこの世界にいられることもできない。

 は、とため息を吐くと同時に、乱れを見つけた。

「ああ、このせいで初期値が狂ったのか」

 リセットエラー。比較的ありがちなミスだ。循環コードの入り口を間違えるよくあるコードミス。ふ、と息を出すと同時に、指示書にパソコン内部、そして手元のアナログに二つ記録を残してからデータの保存を三度確認。

 それから、ようやく僕は今日の仕事から解放された。疲れを感じさせない人体工学に基づいて作られたとされる椅子の背もたれに思い切り体重を落とす。ギィ、とプラスチックと金属の擦れる音が鳴る。

「……決めた」

 笑いにも近い声が零れる。

「濃いめのラーメンだ」

 夕食が決まった。


 ***



 システムエンジニアという響きに憧れた中学時代の自分を殴ってしまいたい。

 下手をすれば一週間ほとんど家にも帰ることが出来ず、寝ても起きても文字の羅列とスキップしたり小さな動作の確認を繰り返したり。僕がやりたかったのはこんなことだったのだろうか。

 コンピューターが好きだった。忘れもしない我が家に突然やってきたウィンドウズ95。見たことも無い白いテレビのような画面と、英数字の並ぶキーボード、ころころと回るボールが付いたマウスなんて今の小中学生なら見たこともないかもしれない。

 家にやってきたその機械は幼い僕の知的好奇心をどこまでも刺激した。目の前にあるボタンを押せば、画面がボタンに書いてあるローマ字を表示した。組み合わせで生まれる日本語。ローマ字とは何かすらわからない僕はその機械と触れ合う為だけに必死にローマ字なるものを覚えた。

 気が付けば両親よりもその機械に精通するのは自分になった。それもそうだ。ものが壊れるなんて薄っぺらな概念すらない僕と、触れてしまえば何かおかしなことが起きてしまうかもしれないと触ることさえできない両親との間では、大きな経験値の差が付く。

 そして僕は、その箱からつながる無限の可能性に落ちたのだ。

 パソコン、そしてインターネットの世界は凄かった。掲示板、交流サイト、今でいうSNSの前身のようなものがネット中に蔓延していた。僕はそれにのめりこみ、そしてこのパソコンと呼べるものはいったい何ができるのかという可能性に魅せられた。

 その頃には僕も一般的に呼ばれる、パソコンおたくと呼ばれるものになっていた。中学生のころには立派なパソコン中毒者だろう。

 その頃に抱いた「システムエンジニア」という生まれたばかりの職業を夢見るのは、今思っても仕方のないことだった。

 そこからは本当にとんとん拍子だ。高校は工業系専門学校に進み、そして情報学科のある大学に進学。当時最先端と言われたスマートフォンのアプリ制作会社に入社。

 僕は、夢を叶えたのだ。

 叶えた、はずだった。



 ***



 会社の施錠を二度ずつチェックしてから職場を後にする。もう時間は天辺近いというのに、ビルの中では未だに電気のついている事務所がある。土日関係なく常に煌々と輝くその部屋を見るたびに、自分はまだましな職場にいるのではないかと首を捻る。

 まぁ、悪い会社じゃないとは思う。給与もそこそこもらっているし。

 軽く頭を振って仕事を脳の外に追い出してビルを後にした。今からなら、まだまだ終電にも余裕がある。



 電車に揺られること十分少し。最寄り駅から家までは歩いて十五分ほど。家賃補助も出ないうちの会社からの給料ではわがままも言えない。これでも一番住みたかった街の一番いい駅を選ぶことはできたのだ。

 駅前には深夜だというのにちらほらと人の姿がある。遊び帰りの大学生、仕事終わりのくたびれたスーツ姿のサラリーマン、眠ってしまった小さな子供を抱える若い母親の姿も見える。タクシーを待っているのは別れを惜しむカップルだろうか。

 そんな人込みを通り抜けながら、線路沿いの道をゆっくりと歩いた。赤ちょうちんのかかる小さな居酒屋の中からは、ゲラゲラと笑う年配の男たちの声が薄い扉から溢れ出た。

 それを、ほんの少しだけうらやましいと思う。

 どうしても仕事柄、同じくらいの世代の人間、もしくは少し上くらいと関わる機会が多い。強制的な飲み会や、飲みニケーションと謳う交流は嫌いと断言できるが、友人たちに連れて行かれるチェーンの安居酒屋や、無駄に内装ばかりこだわった薄っぺらなイタリアンやフレンチよりは、赤提灯を掲げる小料理屋や焼き鳥屋に憧れを抱く人間だ。

 ただそういうお店にいつものラフなファッションで入る度胸は無く、そういう店に誘える友人も思い浮かばない。

 ぼんやりとこの前小さな居酒屋で出会った女性のことを思い出した。着崩しながらも清潔感、キッチリ感のどちらも外さない着こなしと穏やかながらもこちらの心理を覗きこむような視線、たぶん何かしらの営業職なのだろう。僕には決してできない仕事であるゆえに尊敬もする。けれどやっぱりやりたいとは思えない。

 珍しくスーツを着たという高揚感にふらふらと揺られて、憧れていたああいう店の扉に手をかけた。あの女性もおそらく年はたいして変わらないだろう。向こうの方が少しばかり上か、もしくは本当に同じくらいかもしれない。だが、彼女は僕が自分を場違いだと思ったあの店に、ひどく馴染んでいた。格好いいな、と、うらやんでしまう。

 疲れた足をふらつかせながら、だがまっすぐ目的地まで進んでいく。今日食べたいものは決まっているのだ。

 風が吹くと同時に、目当ての店の青い暖簾が揺れた。夜では目立たないはずのその暖簾も、僕の目には輝いて見れる。がらがら、と引き戸を開けた。外は深夜らしいヒヤリとした風が吹いていたが、扉を変えた瞬間生ぬるい湿気った空気と嗅ぎなれた甘い湯で野菜に匂いに目を細める。

「らっしゃい」

 勢いのいい店長の声に引きずられて引いた扉を想像以上に強く閉めてしまった。がらん、と大きな音がする。

 二十人も入ればいっぱいになる店だが、時間も時間だからだろう、七割ほどしか埋まっていない。まあ、この時間にこれだけ埋まっているのはもしかしたらすごいことなのかもしれない。日曜日の昼間に来たときには、あまりの長蛇に舌を巻いて逃げ出した記憶がある。

 適当なカウンターに腰をかける。

「味噌ひとつ」

「あいよ」

「あと、瓶ビール」

「あいよ、ビールね」

 メニューを見る前に店長に伝えれば、やはり先ほどと同じように威勢のいい声で返される。

 こんな真夜中には似合わないその声がたまらない。一人オフィスでパソコン相手にしか語らっていなかったあの空間から逃げ出したのだと、確信できる。

「ビールお待ち」

 乱雑にカウンターの上に小さなコップと瓶がおかれる。ジョッキのビールもいいが、僕は案外瓶ビールも好きだ。ぬるいコップにトクトクと手酌するこの音も嫌いじゃない。

 今日は飲むつもりはなかった。が、先日ずいぶん美味しそうにビールを煽るスーツ女性を思い出して、ビールの口になってしまった。

 ぐ、と小さなコップを傾ける。冷たい喉に流し込んだ瞬間、喉の奥がきゅっと引き締まって背筋が伸びる。もやもやしっぱなしだった頭が強引に覚醒させられる。仕事明けのビールがうまいという感覚は、これかもしれない。

 小さなコップはすぐに空になった。もう一度、そのコップを満たす。あれだけ冷たいビールを飲んだというのに、胃の中はぽってると熱くなったように感じる。

 ああ、お腹すいたなあ。

 強くは感じていなかった空腹感が一気に落ちてくる。鼻をくすぐり続けているラーメン特有の食欲を煽る匂いと、熱くなった胃が次なる味求める。空腹をごまかすように、ちびり、とビールを飲む。

「お待たせ、味噌ラーメン」

 に、と歯を見せて笑った店主がカウンターの上にごとん、と音を立ててラーメンをおいた。あせる気持ちを押さえつけながら、ゆっくりと器を自分の目の前に引き寄せる。

 鼻先にまず落ちてくるツンと響くにんにくの香り、そして甘い野菜たちの匂い。そしてとんこつ特有の獣の匂い。ああ、たまらない。

「いただきます」

 パキン、と箸を割る。まずはスープなんてそんな流暢な胃をしていない。空腹を超えてもはや飢えている。濃いスープの隙間から見えるか見えないかのちらリズムでこちらを煽る麺に箸を突き立てる。中太縮れ麺を軽くほぐし、口の中に突っ込む。

 口の中いっぱいに香ばしく濃厚な味噌とガツンと響く豚骨の脂、だがその二つを尖らせることなく柔和にさせる野菜の甘さが広がる。そしてしっかりと歯ごたえを感じさせながら、何よりのずる、と啜るときの快感すら覚える喉越しのいい麺は、スープをしっかりと絡めとり口の中へと運んでくれる。

 ああ、美味い。めちゃくちゃ美味い。

 ビールで冷やされた喉が一瞬で熱くなる。口の中が空になるのを待たずに次の一口を口の中に押し込む。はふはふと熱さに呼吸を乱しながられんげでスープを流し込む。ようやく空になった口は脂と強い味噌の味が残る。ここにビール。旨みと苦味が混ざり合って、そして一瞬で消えていく。

 空腹は最高のスパイスというが、それは本当のことだろう。いくらでもこのラーメンを食べていたいとさえ思う。

 ずるずると音を立てて麺を啜り、必死にスープを流し込む。合間に口をすっきりさせるビールが尚いい仕事をする。美味いラーメンがさらに美味くなる。

 食事とは野生的だ。ただひたすらに箸を動かし、口の中に放り込む。脳内にあるのは美味い、のひとつの考えだけになる。必死に口に麺とスープを運び続ける機械だ。

 額の汗を軽くぬぐいながら、ずるずると麺を啜る。

 空虚なオフィスのことも、最近はプログラミングよりもデバックばっかりやっていることも、明日も仕事であることも、全て忘れてラーメンを食べる。

 ああ、美味い。それだけでいい。


 スープまでしっかりと飲みきって、コップ半分だけ残ったビールを喉の奥に流し込む。最高の時間が終わってしまったような気分になる。

「ごちそうさまでした」

 両手を合わせて頭を下げる。胃が満たされると重かった頭が少し軽くなったような気がした。時計を見れば深夜も深夜、もうすぐ一時になろうとしている。

「お会計を」

「まいど」

 いつもどおりの金額を置く。店長がぴったりであることを確認して頭を下げた。

「今日も、美味しかったです」

 あまりの幸せにそう店長に呟くと、少し店長は驚いたようにこちらを見たが、すぐにいつもの笑顔へと変わった。


「また、どうぞ」

「また、きます」


 ガラリと音を立てて引き戸を開けると、深夜の匂いが一瞬で僕を包んだ。なんだか、不思議な気持ちよさがあった。

「明日も、がんばるか」

 重たい肩をぐるりとまわして、僕は日常に帰っていく。家まではあと十分、帰ったら、もうすぐに寝てしまおう。

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