今日の我らに乾杯!

妹蟲(いもむし)

第1話 鱈フライ

 身体が重い。

 黒い5センチヒールを引きずるように慣れ親しんだ地下空間を歩いていく。足が棒になるとはまさにこのことなのだろう。もはや膝をまげるのが嫌だ。毎日着ているはずの薄いトレンチコートすら重たい。

 朝から夜まで歩き続けて全身の疲労は当に許容範囲を超えている。目の前にどこでもドアが現れて自分の寝室にいけるならばメイクも落とさずにベッドの中へ飛び込むだろう。月末締め日まで残り四日。営業職としては最後の一踏ん張りといったところだ。

 朝しっかりと整えたはずの髪形はショッピングモールのガラスを見るまでもなくボロボロだし、昼に直したメイクもほとんど剥げ落ちている。口紅なんてもはやほとんど色らしい色を残していないだろう。

 は、とため息をこぼしながら重いかばんを引き上げて、髪の毛を軽くかきあげた。三十歳を超えても、まだ営業職から自分が離れていないことに感慨すら落ちてくる。

 さっさと帰ってシャワーを浴び、冷蔵庫内で冷えたビールを。

 と、そこまで考えた瞬間に胃がもぞりと小さく動き、ぐぅ、と間抜けに声をあげた。何気なく腕時計を覗けば当に十時を過ぎている。お昼を食べたのは二時少し前だったはずだから、体が空腹を訴えるのは不思議な話ではない。

 空腹に気付いた瞬間、急速に喉が渇き始める。悪い癖だが、正直私はその為に働いているのだから仕方がない。

「飲もう」

 誰にも聞かれないようにそう呟いた瞬間、身体が軽くなった。



 ***



 自分で選んだ仕事であり、十分やりがいを持ちながら楽しく働けている自覚はあるものの、営業という仕事に後悔がないかと言えば嘘になる。

 数字を求めて朝から晩までとにかく歩く。潰したパンプスの数など今更憶えているわけもない。毎日着るスーツだって体の線やらラインにこだわりたいけれど、それに加えて動きやすさと持ちも大切だ。クリーニング代だって馬鹿にならない。

 そんな肉体的疲労に加えて、とにかくこの仕事は胃の強さが重要になる。

 必死に積み上げた数字は一月単位でゼロになる。どこのサイの川原だと思ったことも少なくない。なんとか予算をクリアしても、翌月にはまた次の数字を求められる。

 何をするにも、数字、数字、数字。数字なければ人格無し、とはよく言ったものだ。数字が挙がらなければ発言権すら弱くなる。まあ、逆もしかりなのがこの仕事の面白いところなのだが。

 年間の数字、半期の数字、四半期の数字、月間の数字、週次の数字、毎日の数字と追わなければならない数字もたくさんあるし、数字の目標額もそれぞれの指標がばらばらだ。今は何を追えばいいのかすらわからなくなるときもある。

 それに加えて営業の仕事は不思議なことに営業だけではない。社内に一歩戻れば数字管理や行動管理の日報の提出も求められるし、今日以降のスケジュールも全て上長に提出せねばならない。無駄な社内資料の作成も求められるし、何より報告がひたすらに多すぎる。その提出した報告書も何に使われているのかなんてさっぱりわかったものではない。

 やるべきことはとにかくたくさん並んでいる。資料作成、本社提出用書類事務、報告書作成、経費清算。これは営業がやらねばならない仕事かと歯噛みする。

 数字を追うことが苦痛かといわれれば、それはもちろん苦痛だ。だが新卒からここまで続けてこられたのは苦痛だけではないのだと自分の胸のうちが小さく呟く。

 しんどい、と吐き出しておきながら決まったときにはそれら全てが消えるほど喜びが心を塗り替える。誰が言ったか、営業の麻薬。

 だが今日のようにさすがに疲れで死にたくなる日ももちろんある。

 今日もそんな、毎日の一風景だ。



 ***



 駅ビルから地上に上がり、細い路地の中を覗きこむ。隙間無くぎゅうぎゅうに立ち並ぶ赤い提灯と笑う男性たちの声。誘われるようにその路地の中にするりと足を忍び込ませた。

 串焼き、焼きそば、お好み焼き。今日は何で一杯を飲もうか。

 疲れた身体はシンプルにビールを求めている。もう、喉がからからだ。

 考えても仕方がない、と、路地の角、小さくも上品な暖簾と看板に誘われて席が8つほどしかない小さなお店の暖簾を払う。

「いらっしゃいませ」

 かすかに間延びした穏やかな声が響く。身体に染み付いていた屋外の埃っぽい匂いが中に入った瞬間に消え、温かみのある出汁の香りがふわりと鼻先をこすった。営業らしく肩先で切りそろえた髪の毛が、温かい風に小さく揺れる。

 中には二人ほどのお客がカウンターに着座しており、一人は常連と思わしき年配の男性、そしてもう一人はスーツ姿の若い男だった。年の頃は同じくらいか、少し下くらいだろうか。私が入ってきたことに気が付いたのか、ちらりと視線を二人ともこちらに向けたが、すぐに目の前の料理に戻した。

「お一人ですか」

 カウンターからひょっこりと顔を出した40代ほどと思われる女性が笑顔で私を迎え入れる。小さく頷けば、こちらに、とカウンターの真ん中あたりに誘導された。

 座るや否や出された暖かい手拭を受け取りながらほっと息を吐く。疲れた日は、こういうお店に限る。

「とりあえずビールと……」

 何を食べよう。ビールは決めていたが、そのお供をほとんど考えていなかった。どうしようかな、と目を泳がせていると、隣の若い男が食べている皿が目に入る。魚の、フライ、だろうか。横にマヨネーズのようなものが乗っているけれど、あれは。

 視線に気が付いたのか、横の男が薄く笑って「鱈フライですよ」とこちらに話しかけてきた。

「うまいですよ」

「やっぱり。じゃあ、私も鱈フライで」

 そう声をかければ、カウンターの向こうで女性が「はあい」と明るい声をあげる。

 常連のお客様はせわしなく手を動かし続けるその女性と声を大きくはやしたてながら話をしている。語尾をかすかに巻く癖は、この年代の男性によく見られる酔っ払いの象徴だ。

「はい、ビール」

 ふ、と息をつくまもなく、目の前にジョッキに入った金色のビールが突き出された。受け取ると同時に、グラスまでしっかりと冷やされたその感触に確信する。このお店はいいお店だ。

 カウンター越しにしっかりと両手で受け取って、そのジョッキを一気に傾ける。キン、と冷えた最高の贅沢が喉の奥を駆け抜けた。口の中、喉だけではなく、今でまっすぐ突き抜ける爽快感が脊髄をビリッと走る。少し熱いくらいの店内とあいまって、その冷たい感触は心地よく全身に染み渡っていく。

 なんという、多幸感。

「おいしい」

 半分ほど一度に飲み干してから息を吐き出すと、景気よく年配の男性と話していた女性がこちらに視線を向けていた。あいまいに笑えば、笑顔で小さく頷かれたのちに視線が外された。よくあることなのであまり気にせずもう一口ビールを傾ける。

 ごくん、と喉が鳴る度全身を痺れさせるような心地よさに見舞われる。

 私、この一杯のために頑張っている。

「すごく美味しそうに飲みますね」

 突然、横の男が妙にフランクな心地で話しかけてきた。カウンター席で飲むことは多くても、こんな小さな店で話しかけられることは、しかも同年代か、いくつか自分よりも若いだろう男に声をかけられるなんて初めてだ。

 視線を向ければ、男は少し照れたようにほほを引っかいた。

「ああ、ごめんなさい。あまりに美味しそうに飲んでたんで」

 笑うとさらに若く見える。あまりスーツに馴染んだ様子はなく、だからといって新卒のような新品感もない。毎日スーツを着る仕事ではないのだろう。何か仕事のイベントで着ざるを得なくなったと見るのが適当だ。赤色のシンプルすぎるネクタイがその証拠ともいえるだろう。

「いえ、別に。お仕事帰りですか」

「ああ、そうです。会社のキックオフで。ああ、キックオフって、新年度祝いみたいなものなんですけれど」

「ええ、わかりますよ」

 想定は間違っていなかったようだ。しゃべり方からも知らない人間と話しなれた様子はない。まだ二十台とおぼしきその青年に、もはや癖でもある営業スマイルを返して、残りのビールを一気にあおった。

「ビール、もうひとつ」

「あ、僕も」

 私が注文するのにあわせて、ほとんど空になっていたジョッキを男も掲げた。ちらりと伺った顔は微かに赤い程度なもので、表情からも酔った気配は見えない。空になっている皿を見る限り、一杯や二杯ではないように思う。

「お酒、お強いんですか?」

「いやあ、好きなだけで。お姉さんこそ強そうですね」

 お姉さん、という響きに複雑な心境になる。お嬢さんと呼ばれたかったわけでもない。それはおくびにも出さず、小さく首を振って否定した。

「私も、好きなだけで」

「はい、ビールと鱈のフライね」

 話に割って入るように、先ほどまで常連の男性と話していた女性が、とん、とカウンターの上にジョッキと皿を置いた。注文してから食事や飲み物が出てくるのが早いお店はとにかくいいお店だ。

 少しわくわくしながらその二つを自分の目の前に下ろす。ジョッキが美しい七対三の割合で真っ白い泡が金色のしずくの上に乗せられている。フライは見るからにさくさくで、私の箸を待っているようだった。

 よし、と。

「いただきます」

 両手を合わせてから、丁寧に割り箸を割る。待ちきれずに口の中に暴れだしたよだれをとりあえずビールで流し込む。この冷たさは癖になる。

 割り箸の先でつい、と鱈フライを一口大に割る。割った瞬間、やわらかい鱈の身の感触と、薄い衣が箸を阻む感触が同時に伝わってくる。そしてちらりと見える白い身から浮かび上がる薄い湯気。

 たまらない。

 口の中だけでそう呟いて、まずは何もつけずに、一口。

 さく、ふわ。

 二重の食感が同時に歯を喜ばせた。その直後に浮かぶうっすらとした塩味、そして白魚特有の甘い脂。肉よりはさっぱりとした上質な脂質が舌の上にころがり、だがその脂をまとった魚肉はほろほろと口の中であっという間にほどけてしまう。

 ビールで完全に冷え切った口の中に飛び込んできた、暖かく柔らかな魚肉が口の中を塗り替える。

 まだ鱈の塩味が残っているうちに、ジョッキを勢いよく傾ける。苦味と炭酸の痺れが、鱈の脂が混ざって舌先を優しくなぞっていく。

 ああ、たまらない。

「本当、美味しそうに食べますね」

 余韻を楽しむように、鼻から息を吐き出したところで横の男が肩を揺らしていることに気が付いた。何がそんなに面白いのか、全身を細かく震わせる。あまりに笑うその青年に、妙な気恥ずかしさとくすぐったさに肩を竦める。

「美味しい、ですから」

 返す言葉が拗ねた子供のような声色になってしまったことにも自分で恥ずかしくなる。ちらりと男に目をやると、顔をくしゃくしゃにしながら男もこちらを見た。穏やかな表情をしているときから若いと思っていたが、そうして笑う姿はむしろ幼い少年のあどけなさすら感じる。

「ポン酢もおいしかったですが、おすすめはこっちですね」

 そう言いながら、その青年は自分の皿の上にあるタルタルソースを指差す。私も自分の皿を再度見直し、今度は鱈フライの上にたっぷりタルタルソースを乗っける。

 期待で、口の中に唾液がたまる。それをやはりビールで一度押し流してから、それを口の中に放り込む。大きく口を開けて、タルタルソースごと一口で頬張った。上品になんて食べていればきっとこの鱈フライの美味しさを逃してしまうだろう。

 先ほど真っ先に感じたのは鱈の脂だったが、今回はそれより先にタルタルソース独特のマヨネーズの酸味、卵のまろやかさが来た。かすかに香る爽やかな香りはレモンだろうか。

 鱈のやわらかさはもちろん変わらない。が、タルタルソース独特の爽やかな酸味と甘さが程よく鱈の脂と中和する。フライ特有のこってり感がその爽やかさに抑えられ、代わりにより強く鱈の魚らしい繊細な味が前に来る。たまねぎのしゃきしゃきとした感触が歯に楽しい。

 後味に残るマヨネーズの風味は、ビールの最高のつまみだ。ぐい、とグラスを呷り、思い切り息を吐いた。

 ああ、最高。

「タルタルソース、合う」

「でしょう。僕、はじめてこういうお店来たんですが、はまりそうです」

 にぃ、と口の端を大きく引いて男が私の言葉に合わせてきた。そして最後の一切れとなっていた鱈フライに残ったタルタルソースを全て載せ、豪快に一口に食べる。そして、半分ほど残っていた残りのビールも一気に飲み干した。

「くぅ」

 かすかにうつむいて耐えるようにこぼれたその声は、歓声のように響く。

 ほんの少し赤くなった頬を緩め、男は幸せそうに目じりを下げた。そんな情けない表情のまま、男はこちらを見た。

「この一杯のために、私生きてる」

 ついついそんな言葉が落ちた。男はかすかに眉を下げてから、困ったように笑った。それからグラスを軽く持ち上げ、カウンターの奥にいる女性に声をかける。

「鱈フライ、もう一つ」

「あ、私はビール追加で」

 私も慌ててそう声をあげる。ニコニコとした女性は「はあい」と気楽な声をあげた。ビールを待ちながら、もう一口鱈フライを食べる。やっぱり美味しい。

 ビールはすぐにやってきた。空のグラスを私ながら、ジョッキを両手で丁寧に受け取る。グラスの冷たさがうれしい。

「今日も仕事を頑張った自分へのご褒美です」

 男がそう呟いた。

 そう、これは頑張った自分へのご褒美なのだ。小さく頷いて、先ほどよりもゆっくりとジョッキを傾ける。うん、本当に、幸せだ。

「明日も、頑張らなきゃですね」

 自分に言い聞かせるようにそう呟くと、となりの男も小さく頷いたのが目の端に写った。

「明日の私達に」

 そう言いながら、私はグラスをさしだす。それにあわせて、男もグラスをさしだした。

「乾杯」

 声はきれいに重なったが、ジョッキがぶつかる音にかき消された。

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