22 月ホテル
2038年最大の宇宙開発のトピックスは、エクソ・マーズによる火星生命体の発見でもなければ、パーカー・ソーラー・プローブによる太陽大接近でもなく、月ホテルの開業である。
OPAホテルグループは、世界最大のホテルチェーンであり、世界に5万か所のホテルを有する。そのモットーは「どこでもいつでもだれでも」である。マリオット、リッツカールトン、ヒルトンなどの欧米のホテルチェーンの後塵を拝することなく、独自の道を歩んでいる。その発祥がソウル市江南区のタントルネ(スラム街)にある木賃宿だったというのは今や伝説である。
2025年、OPAホテルグループのキム・ヤン総帥は、宇宙ステーションホテル計画を発表して世界を驚かせた。当時はたった数十分間大気圏外に滞在するだけの宇宙旅行ですら1000万円もしていたし、ロケットの手配ができずに何年も計画が延期され、詐欺で訴えられる宇宙旅行会社も多かった。ところがキム・ヤンは3年後の宇宙ステーションホテル開業を約束した。旅費は往復5億円、滞在費は1日5千万円だった。この絵空事のようなホテルを予約することは世界の富裕層のステータスとなり、たちまち10年分が予約で埋まった。約束どおり、彼は2028年に宇宙ステーションホテルを実現させ、世界のホテル王の一人として認められることになった。事業費は3兆円だったといわれる。
宇宙ステーションホテルを文字通り軌道に乗せたキム・ヤンは、2030年にムーンリゾート計画を発表し、その第一期事業として、2038年に月ホテルを開業すると約束した。旅費は往復20億円、滞在費は1日2億円だった。それでも宇宙ステーションホテルを上回る人気となり、初飛行チケットには200億円のプレミアム価格がついた。
そして2038年、いよいよ月ホテル開業の日が来たのである。
月ホテルはアポロ11号が世界初の月面着陸に成功した静かの海にある。ここは月一番の観光名所である。アポロ11号の着陸地点は静の基地と呼ばれており、1969年に立てられ世界初の衛星TV中継された星条旗が残されている。中継画像では旗が風にはためいているように見えて、月ではなく地球で撮影された捏造映像の証拠だとされた。しかし空気がなく重力も弱い月面では一度はためいた旗は慣性でずっとはためいているのである。静かの海にあるいくつかの小クレーターはアームストロング、オルドリン、コリンズと命名され、近くの谷はアメリカ合衆国道1号線と呼ばれている。アポロ計画で使われた月面車のレプリカに乗って、こうした歴史遺産を見て回ることが、月ホテル滞在の一つの眼目である。
月には静かの海以外にも観光名所は多い。アポロ計画の宇宙飛行士たちがさまざまな場所に残してきた彫刻などのモニュメント、着陸船のロケット噴射痕もあるし、本物の月面車も置き去りにされている。人気の宇宙飛行士は足跡すらが遺跡である。アポロ計画以外にも、各国が打ち込んだ探査機の残骸も無数にある。なかでもアメリカ、ソ連に次いで月面軟着陸を成功させた中国の月面探査車、玉兎(ぎょくと)を見に行くことは中国人の月旅行客にとってマストである。中国の富豪は中東の王族と並び月ホテルの最大級のVIPとなっている。月ホテル限定の玉兎のミニチュアは人気の月土産になりそうである。
地球の6分の1しかない月の重力を利用したいくつかの競技も提案されている。中国映画「少林サッカー」の試合を再現したような気分になれる月面小林サッカーや、同じく人気映画「ハリー・ポッター」で競技されるクイディッチの月面版などである。
レストランでは、青い地球の薄明かりの下で、最高のシェフによる最高のディナーと最高のワインを楽しむことができる。地上のレストランで200万円のロマネ・コンティは、宇宙ステーションホテルでは500万円、月ホテルでは2000万円である。しかしそれでも美しく青い地球の眺めより高くはあるまい。最高の思い出を作るには最高のワインを空けるしかない。この贅沢はどんな高級ホテルチェーンも真似できない。バカラのシャンデリアを1万台飾ったとしても、地球というシャンデリアに比べたら一顧する価値もない。
月ホテルを揶揄する人は、人類が到達した金で買えるかぎりでの最高の贅沢と称した。そう確かに月旅行は金で買える贅沢になった。だが金で買えてこそ文化と経済は翻訳可能になる。ゴッホのヒマワリやダ・ビンチのモナリザに1兆円の価格がつくことの意味はそこにあるのだ。
キム・ヤンの次なるチャレンジは火星ホテルかと聞いたところ、違うと一喝された。彼が次に作りたいホテルは難民のためのリゾートだそうだ。そのために彼はエーゲ海に浮かぶ島をすべて買い占めようとしている。トルコからの片道旅費を含む滞在費は1日500円で分割払いも可能になる。レストランではエーゲ海の新鮮な海産物を使った寿司や鰻などの日本料理をバイキングで提供したいそうだ。
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