巡礼の少年

桜枝 巧

巡礼の少年

「――――」


 それは、完璧なまでに少年だった。

 やせ細った小さな体躯。

 乾いた肌。

 拾った布を継ぎ接ぎにしたような下着とズボン。

 大人用の、およそ彼には似合わないボロボロのコートを羽織っている。

 砂漠の砂で失明しないよう長めに伸びた睫毛。

 その奥に潜むコバルトブルーの瞳も、しっちゃかめっちゃかに跳ね回る短髪も、その全てが少年を少年たらしめるよう、つくられていた。


 少年。


 そう、それは、子供だとか、boyだとか、あるいはLes garçonsだとか、そういうものではなく、「少年」であるための構成素だ。

「――、―、――――」

 砂漠からは距離のある、土と呼べるものが残る街。

 彼が発した高音に男が音を返す。

 彼らはいくつかの鉄屑と小さなコインを交換し、別れた。

 少年はさらにそれを、小麦をこねて焼いただけの固いパン一欠片へと変える。

 彼はパンを持っていない左手を、ベルトに紐で括り付けた革袋に突っ込んだ。

 中にあるものを確かめ、一つ大きく息を吸い込む。

 左右の口端を思い切り引く。舌の先を下側の歯と歯茎の間につけた。そこから息を吐きだせば、不器用な「シ」が生まれる。

 それは少年が唯一知っている、意味有る音たちだ。

「シ、ォ、ウ、ネ、ン。シヨウ、ネン」

 自身の存在を示す大切な言葉を忘れないよう口ずさみながら、彼は一歩ずつ進んでいく。



 とある光化学スモッグが脳に影響を及ぼしている、という事実に人類が気づいた時、最早それは止めることのできないほどに進行していた。


 言語概念の消失。


 それは何十年という月日をかけて、あまりにゆっくりと人々を浸していった。

 その為に、人々は何が起こっているのか、何か起こっているのかすら、察知することができなかった。

 初期はただ「学習能力が低下している」としか判断されず、僅かながら抵抗が可能な人々が異変に気が付いた時にはもう手遅れにも程があった。

 人々は新聞や本を読まなくなった。

 醤油のラベルはいつの間にか簡単なイラストへと変わっていた。

 0と1で形作られていた世界は、徐々に溶けていく蠟燭のように廃れていった。

 紙幣やコインに描かれていた数字は意味を成さず、重さやその美しさで価値が決まるようになった。

 言葉は消えたが、人々は便利な「交換基準」のことは覚えていて、それ自体が消えることはなかった。

 他にも、言語やそれに関するもの以外で人々が「便利だ」と考えていたものは、意外にも生き残った。パンの作り方もその一つだ。

 しかし、時間がたつにつれて、それらも徐々に失われようとしている。

 そもそも人はものを考えるとき、言語を使用するのだ。それが失われてしまった今、人々はぼんやりとした感情や、昔の経験、思い出、あるいは過去出会った人々――親や長老たち、その真似をしている者――の真似だけで動いていた。

 社会はとうに破綻しきっている。

 「外に出るときは何かを羽織る」という本能めいた何かのために、服という概念ははまだ何とか保たれていたが、そのうち裸体で歩き回る者もでてくるやもしれなかった。

 そのスモッグは様々な工場が当たり前に排出していた。責任は、今まで道具というものを使い続けてきた人間たち全員にあった。

 脳から言語を消し去るその物質に抵抗できる者も、中にはいたという。しかし、周囲から孤立し、彼ら彼女らもまた少しずつ言葉を繰ることをやめていった。


 そうして、人々は言葉を失った。





 

「シ、ヨウ、ネン、ショウ、ネン」

 何度も繰り返すうち、少年はやっと「ショウネン」と発音することができた。

 空気はつんと澄んでいる。夕方が近づき、急激に気温は下がっていく。

「ショウネン」

 過去の残り滓のような、微かな笑みが口元に浮かぶ。今ではただの生理的なものだとも言えるかもしれないそれに、彼自身は気づいていない。

「ショウネン、ショウ、ネン」

 続けて呟きながら、彼は茶色い革袋から最も大切にしている物を取り出す。


 それは、二つの活字だった。


 高さ〇.九二三インチの鉛製の直方体。

 一つには「少」、もう一つには「年」の鏡文字が浮き彫りにされていた。

 長年使われてきた証として、小さな傷が無数に入っている。「少」の払い部分の端は欠けていたし、「年」の二画目は半分ほどが千切れてしまっていた。

「ショウ」

 少年は思い出そうと瞼を閉じる。だが、その時の映像は酷くぼんやりとしか脳内で再生されない。

 忘れてしまったものの残骸だけが、少年の金切り声として空を引っ掻く。無意識の内に奥歯が噛み締められる。ギリ、と小さく音が鳴った。


『××、××××』


 不意に、耳元を声が掠めた。

 春に咲く釣鐘状の白い花のような、静かな、しかし芯をしっかりと持ち合わせている女性の声だ。

 他の記憶に埋もれ、音声ははっきりとしたものではない。それでも、少年は俯いていた顔を上げた。

 二つの活字を、そっと指先で包む。

 少年がまだ完全には「少年」と呼べない年齢であった頃、女性が落としたそれを拾った。

 その時もまた同じような夕方で、真っ赤な日が彼らを照らしていた。

 髪は長く黒く、汚れた布――以前は「ワンピース」と呼ばれていたもの――をまとった人だった。

 彼女が落としたそれは汚くて、重くて、とても重要なものには思えなかったが、不思議と彼はそれから目を離せなかった。

『少年』

 落とし物に気が付いた女性は戻ってきて、活字に掘られた文字を一つずつ指さしながらそう言った。

『少年』

 そして地面に活字を強く押し付ける。「少」「年」という形が地球に刻まれた。

 彼自身はそれをじっくりと眺めている。

 女性が文字と彼を交互に指さしながら、ゆっくりと唇を動かす。

『少、年』


 そのとき、夕日がざあっと光を増した。


 「ショウネン」という音、「少年」という形、そして、彼自身。三つが少年の中で確かに結びついた。

 自分が「少年」という存在なのだと、初めて認識した瞬間だった。

『イ……シ、ォ、ウ、ネ、ン』

『××、少年×』

 うまく発音できない彼の言葉に、女性の声が重なる。「少年」と言う単語だけが、少年の脳に刻まれていく。

『ショウ、ネン』

『××、×××××。少年』

『ショウネン、ショウネン、少年!』

 綺麗に言い切った彼に、女性はにっこりと微笑んで頭を撫でてくれる――。


 脳内の映像が途切れる。

 あの温かさを表す方法を知らない彼は、冷え切った髪をひっぱった。

 視線が下を向く。

「――」

 少年が、小さな音を上げる。何かが落ちていた。

 しゃがみ込んで拾ってみると、それは縦横三センチほどの薄い物体だった。下側が斜めに破れていて、この世にあるものすべてと同じくボロボロだった。

 見慣れないそれに数度首をかしげるものの、そこに記されたものの中に二つ、見覚えのある形を見つけた。「少年」だ。

 少年の脳が言語を知っていたならば、それがいわゆる「小説」と言うものの断片であることを理解しただろう。ただ、彼は二つの文字以外を知らなかった。


「少年!」

 

 それでも、彼は顔を綻ばせて指をさした。何故そこに自分を表すものが存在しているのか、疑問符を浮かべることすら彼はできなかったが、体の中心から熱が沸きあがってくるのを感じていた。

「ショウ、ネン」

 彼はそっとそれを活字と同じように革袋へしまう。

 すると、また十数歩先に何かが落ちているのが見える。駆け寄ってみると、それは黒い直方体だった。

 手に持つと、ずっしり重い。少年は先程の袋から宝物を取りだす。自身が持つ活字と、そっくりだ。

 でこぼこした部分を柔らかな地面に押し付ける。「S」という形が現れた。

 少年の眉がひそめられる。それは彼の知る「少」や「年」よりもなめらかで、ぐにゃりとしていた。

 形を崩さないよう小指でなぞる。

 昼間ずっと外に出ていた時の、脳がじりじりと焼けていくような感覚を味わう。

「……少年?」

 小さく呟いてみる。黒い物体からの反応はない。

「――、……、―――」

 数分間少年は先人たちの名残を発しながらその場にしゃがんでいたが、やがて立ち上がった。

 新しく手に入れた「S」の活字を、宝物と一緒に革袋へ入れる。

 鉛同士がぶつかりカチン、と涼しい音がした。

 





 その日から少年は、鉄くずを拾い集めるのと同時に「宝物」を収集するようになった。

 同じような紙切れ。

 かすれた不思議な形の並ぶ金属板。

 あるいは少年が持つ活字と同じような鉛の直方体。

 見分けが難しく、中にはただの汚れでしかないものもあったが、少年は気にしていなかった。

 ラテン文字、ゴート文字、キリル文字、仮名、漢字、ヘブライ文字――自身の中で何か渇望めいたものがあれば、彼はそれを拾った。

 一つ二つ見つかる日もあれば、全く見つからない日もあった。

 少年が一日に歩く距離は、少しずつ伸びていった。

 いつからか彼は街を離れ、砂漠にまで足を運ぶようになる。


 そして、少年は見つけた。


 最初彼は夕日に照らされたそれを見て、ドロドロに汚れた黒猫のイメージを思い浮かべた。

 石炭色の髪は手の施しようがないほど乱れていたし、それに埋もれる二十代後半ほどの瘦せた頬には、得体のしれないものがこびり付いていた。

 かつてワンピースだったらしいものは上半身のみが残っていて、右膝から下が破れているジーンズを履いている。少なくとも、夜の近づく肌寒い気候に適した服装とは言えなかった。

「――、―――」

 少年が高音を喉から発する。

 黒い塊が、わずかに震えた。同時に、女性の脇から何かが崩れ落ちる。

 活字、薄く黄ばんだ紙片、それらが大量に挟み込まれた分厚いもの。

 少年が今まで集めてきたものと同じような物体たちが、緊張の糸をほどいたかのように散らばる。

 よく見れば彼女は重たそうな、以前「鞄」と言われていたものを背負っていた。底には大きく穴が開いている。

 少年は大きく息を吸い込んだ。

 風が吹き飛ばされてしまいそうになっていた紙片を捕まえる。

 砂で汚れてしまったもの達の表面を軽く払って綺麗にし、脱いだ自分のコートの上に横たえた。

「…………」

 少年は終始無言だった。

 音の一つも発さず、おそらくは彼女にとって大切であっただろうそれを、今までと同じように集めた。

 書かれた文字の中には、少年が今まで見たことのあるものもあった。彼はそうっと線をなぞる。

 彼にはそれが同じものだと、同じ文字だと判別できても、何と発音するのか、どういったことを指すのか分からない。

 少年が分かるのは、ただ一つ、自分のことだけだ。


「シ、シォウ、……ショウ、ショウレン」


 違う。そうとでも言いたげに、少年は首を振る。

「ショウエン、エン、ヘン、イェン、メン……」

 少年は、皮袋に入った宝物たちをぎゅうっと握りしめる。満杯になったそれを、決して手放さないよう、こぶしに力がこもる。

 熱い、どろついたものが腹の奥に溜まっていく。

 女性が、また一つ、体を震わせた。

 突っ伏していた顔が横を向く。瞼がゆっくりと持ち上がり、光のない瞳が少年を捉える。

「チェン、ゼン、セン、ネン……ネン、ネン!」

 彼と女性の、目が合う。


「ショウネン、ショウネン、少年!」


 女性の目が、大きく見開かれた。


「……ヴァ、ア、ガ」

 ガラガラに破れた、疲れ切った声だった。久しぶりに声を出したのか、次の瞬間何度も咳き込む。

「――っ!」

 少年は女性を抱き起こすと、わずかに水の残っていた水筒を彼女の口元で傾けた。以前、同じような声をした人が水を飲んでいたことを、彼は覚えていた。

「ア、ア、……ふ、あ、あぁ……」

 女性の声が、少しずつそれらしいものに戻る。

 まだ意識がはっきりとしていなかったようで、ガクンと少年に正面からもたれかかった。

 体重を支えきれなかった彼は、背中から思いっきり地面に倒れこむ。


 目の前が一瞬白く染まった。


 背中の不快な刺激と自分のものではない温かさ、それから女性の中心で刻まれる音に包まれる。

 そして、それよりも圧倒的に速く暴れまわる少年自身の心臓の音。

 それを何と言うのか彼は知らなかったが、大切なものであることは本能的に知っていた。

「……あんた、は、私の事を覚えていたんだね。私が落としたものを、集めてくれたのか」

 耳元で、女性の声が聞こえる。

「もう、どれだけ守ろうとしたって、世界中を飛び回って、他の仲間と連絡を取り合って、残った文字たちを、言葉たちを集めたって……無理だって、どうにもならないってっ!」

 女性から発される音が、少年には聞こえる。

「そう諦めた――諦めたっていうのに、それでも、あんたは、私の落としたものを、捨てたものを、集めてきてくれた、んだね」

 少年は目を伏せる。音は聞こえるのに、声は確かに分かるのに、何を伝えたいのか、彼には分からない。

 女性はそれに気がついて、あぁ、と声を漏らした。少年を抱きしめたまま起き上がる。彼の目を見つめ、確かに目の前の少年が自身の言葉を理解できないことを知る。思わず、苦笑いが漏れる。

「言葉は分からないまんまか。……ごめんな。ん、でも、さっき、少年、って」

 その単語に、自分が唯一知っている言葉に、少年は反応した。

「ショウネン!」

 ぱあっと笑みが広がる。少年、少年、と何度も繰り返しながら、少年は最早ぱんぱんになってしまった革袋を漁る。

 しばらくして取り出したのは、彼の宝物だ。

 本来の用途として使われていた時よりもあちこちが欠け、汚れてしまっている「少」と「年」の活字。

 初めて二人が出会ったときと同じように、彼は砂にそれを押し付ける。

 現れたのはただの小さな穴だけだった。

 少年が首をひねる。

 ははっ、と女性から笑い声が漏れた。

「残念ながらここでそいつは使えない、かな。砂の粒が荒すぎるし、ちょいとばかしその活字は働きすぎているようだ」

 女性は砂に指を突っ込み、「少年」と書いた。

 少年の瞼が大きく持ち上がる。

「ショウネン!」

「ああ、ひょっとして文字は自分で書けないものと思っていたのか。……ほら、こう」

 彼女は少年の人差し指を持つ。

 彼が初めて書いた「少年」は歪だったが、女性は彼の頬が桃色に染まっていくのを見た。

「ショウネン! 少年、少年!」

 自ら生み出した「少年」に彼は何度も指をさす。

「……ああ、そうだ、君は少年、だよ」

 女性はそう言って、赤々と燃える空を見上げた。

はしゃぐ彼を横目に、冗談交じりに口を開く。

「なあ、少年、他の言葉も教えてやろうか。生憎、いろんな世界を廻ってきたもんでね、覚えている言語くらいは伝えることができるよ。……どうだい?」

 なんてね、と女性は彼を見る。

 「少年」という単語に反応したブルーの瞳の視線が、彼女とぶつかる。


 少年は、ただにっこりと笑った。


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巡礼の少年 桜枝 巧 @ouetakumi

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