嵐の中へ
早めに夕食を取り、テトの帰りを待った。
このアパートでは周囲の住人の意識が邪魔をして通路を開くことが難しく、開けたとしても今度はその住人まで通路に飲み込みかねない。なので通路は野外で開くことにした。通路の開設予定地は昨日のウチに調べておいたが、万全を期してその周囲に警報と罠を仕掛けることをテトが提案し、現在それを実施中である。
――しかし、
「そろそろ第二次予定時刻ね」
作業が順調に終わった場合の合流時間である『第一次予定時刻』を過ぎてもテトは姿を見せなかった。このまま第二次予定時刻を過ぎた場合、巡たちは独自に行動する手はずになっている。
そして、第二次予定時刻が過ぎた。
テトはまだこない。つまり、それだけの事態が起こっているということだった。
「こっちよ」
巡は荷物から
「それで、秘策ってのは?」清明が落ち着かない様子で言う。「本当に大丈夫なんだろうな。ここでウッカリ死んだりしたら、俺は死んでも死にきれないぞ」
「保証はできない」
という巡の弱気な言葉に、清明は親の裾に縋りつく子供のような表情になる。
「でも、やるしかないでしょ」
開ける。
小瓶を口につけると、蜂蜜とウィスキーを合わせて濃縮したような、強烈な香りが鼻を突く。そのまま一気に半分を口に含み、飲み下す。
「――っばはぁっ!」
どっと息を吐きだした。途端に、暴力的な力が身体の中に生まれた。炎のようなそれが全身を舐めていく。体中にめぐる血は赤々と輝く溶鉄のように重く、しかし頭の中は広大な宇宙を呑み込んだかのように冷たく開けている。全ての感覚が、どこまでも深く透徹していく。
「テトも言ってたけど、結構キツいわねこれ」
清明のほうに向き直る。
「それじゃ、次はあなたの番。一気にいくわよ。――覚悟は良い?」
清明は大きく呼吸して、頷く。
そして巡は残りの半分を口に含んだ。
「ちょ、おい、なんで――」
慌てる清明の顔を引き寄せ、有無を言わせずに唇を重ねた。
「――っ!」
焦らず確実に、相手の唇が開くのを待つ。こちらの意図を察した清明の全身から力が抜け、口が大きく開かれる。僅かでも無駄にしてはならない。頭を斜めにずらし、口に含んだ霊酒をゆっくりと流し込んでいく。ごくり、ごくり、と嚥下する音を数える。トドメとばかりに相手の中に舌先をつっこみ、唾液混じりの最後の一滴までをも吸い取らせる。
唇が離れた。
途端、清明はその場に崩折れてゲホゲホと咳き込む。
一方の巡は余裕の表情でそれを見下ろして、
「ちょっと鼻息が荒すぎでしょ。くすぐったくてしょうがなかったわ」
清明はしばらく床に手をついたまま、呼吸を落ち着けた。
「どう?」
「――ああ」と清明は立ち上がった。「ガツンときた」
「成功したみたいね。でもここからが本番よ。キスのぶんくらい頑張ってもらわないと」
「はははっ。まったく、ずいぶん高い借りを作っちまったな」
と、清明が笑ったそのとき――
「テト!」
言うなりキッチンを飛び出した巡が玄関の扉に手をかけるのと、そのドアベルが鳴らされるのは、ほとんど同時だった。
ドアを開けた瞬間、その人は猫のような身のこなしで中に滑りこんできた。
男とも女ともつかない、中性的な顔立ちの青年だった。
カーキ色のミリタリージャケットの肩を雨に濡らし、大きく肩で息をしている。
同じくカーキ色のブーニーハットの下から覗く真鍮色の瞳が、逼迫した状況を伝えていた。
「今すぐ出よう!」
玄関にどっかりと腰を下ろしたテトが、喘ぐように言った。事態を悟った巡は目蓋を下ろして、周囲の
――いた。
「対策部がもう動いてる……数は三――」
「――いや四だ」
とテトが言う。
「突入部隊は六人。そのうち二人は僕が送り返した」
「よくやったわ、テト」
相棒を労った巡は荷物を取るためにリビングへ引き返した。それと入れ替わりに清明とユノが玄関へやって来た。
「――だれ?」
見知らぬ訪問者に戸惑ったユノは、清明の後ろに隠れた。
「やあ、ユノ。僕だよ。テトだよ」
雨を吸ってまだらになった帽子を取る。その下から、銀色の髪と猫のような耳が現れた。
ユノは興奮した猫のように目をまんまるに見開き、
「ほんとにテトなの?」
「そうだよ。ユノに会いたくて人間になったんだ」
体中で歓喜を弾けさせたユノは、その場に膝をついてテトの頭に手を伸ばした。テトが頭を差し出すと、ユノはその存在を確かめるような手つきで耳を撫でる。大きな耳がぴくりと動く。「うきゃあっ」と声を上げてユノは破顔した。
準備を終えた巡が戻ってきた。
「ユノさん。これ、テトに着けてあげて」
ユノは受け取った首輪をテトの手首に巻いてやった。
「テトと私の、友達のしるしだよ」
テトの喜びようは巡の比ではなかった。それこそ子供のように顔を輝かせて、蛍光灯の光に飾り石をかざして見入っている。
「わあっ! ありがとうユノ! これは僕の宝物にするよ!」
四人は部屋を出た。
雨はまだそんなに強くなかったが、間欠的に吹き付ける風は凄まじく、まるで濁流の水底を歩いているようだった。
だが、これからだ、と巡は思う。
嵐の夜が、これから始まるのだ。
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