4:嵐の底

出陣

 ――一度咲いた花は永久に死ぬ。それだけは確かだ。――


 確か、ペルシアの詩集かなにかに載っている言葉だったと思う。

 抑えきれぬ生を蕾から迸らせるように開いた花は、同時に絶望的な死そのものでもある。たとえ毎年のように花を咲かせる草木でも、その時に咲いた花は二度と元に戻らない。

 少なくとも、この世界ではそうなっている。

 全ての物事は根本的に不可逆で、同じように繰り返されて見えたとしても、以前に見たそれとは全く別の物だ。

 それはある意味では、とても幸せなことなのだと思う。

 全ての物事が二度と元に戻らないからこそ、それを過去として自分から――たとえ僅かでも――切り離せる。未来は過去と違うのだという、ある種の安堵を抱くことが出来る。

 それは多分、希望と呼ばれるものなのだろう。

 そして自分は、希望を対価として捧げることで異界管理官いかいかんりかんになったのだと思う。


 過去も未来もない、ただ永久に咲き続けるだけの花を創ろうとした。


 自分はその過ちを償うために、他人の希望を支えなければならない――というのはしかし、都合のいい自己弁護に過ぎないのだろう。実際のところ、自分はとうの昔に失われた希望の甘い記憶の中にずっと微睡んでいたいだけなのだった。自分が信じたい希望を他人のそれにスライドさせて、自慰的な満足感に浸ることを止められないでいる。

 もはや自嘲すら湧かない。

 喉元を包む湯の水圧は自虐の心地よさを優しく支えてくれる。体中から力が抜けていく。水面がチリチリと肌を舐め、顎を、頬を、耳を、慰撫するようにせり上がってきて、

「――っぶごへぇぁっ! ぉえっへっ!」

 鼻から入った湯にむせて、じゅんは正気を取り戻した。

 うら若き女性とは思えない迫力で何度も咳き込み、浴槽の縁にぐったりもたれる。

 七生ななみを見送り、学校に休みの連絡を入れた巡は、これからやってくる決戦を思ってざわつく気を落ち着かせるために、風呂に入ろうと思った。もしかしたらこれが最後になるかも知れないと思うと、なかなか湯船から出る気になれず、気づけば手足の指がしわしわになっていた。

 自分は、恐れているのだろうか。

 どんな危険だってくぐり抜けてきた。腕を斬り落とされようが腹を貫かれようが、そんなものは物の数ではないと思っていた。なのに、今じゃ鼻から水を吸っただけで死ぬかと思う。

「はぁーっ」

 柔らかい肌の内側に詰まった弱気を排水口めがけて吐き出し、

「よしっ!」

 気合一発。海底から現れた怪獣のように湯船から飛び出た。


 帰ってきたら、きっとまた入ろうと思う。

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