霊酒

 昇降口を飛び出したじゅんは校舎沿いにグラウンドへ向かった。

 まだグラウンドの真ん中にいるその人へとそのまま駆け寄りかけ、しかしこれ以上目立つのはいけないという考えがよぎり、思いとどまる。

 グラウンドの入り口でぴょんぴょん跳ねながら両手を上げてアピールする。

 それに気付いた女性は、クルマに乗り込んでこっちに向かってきた。クルマには詳しくない巡でもそれとわかる高級車が、聴いたこともないエンジン音を響かせて、巡の目の前に停まる。

 ウィンドウが下がり、西洋的な目鼻立ちの女性が顔を出した。

「こんにちは」

「監督官殿……ですよね?」

 女性は首肯する。

「少し、お話しする時間はありますか」

「は、はいっ。大丈夫です」巡はがくがくと頷いた。

「では、乗ってください」

 昼寝ができそうなほど長大なボンネットを回りこんで、助手席のドアを開ける。床にめり込んでるんじゃないかと思うくらい低いシートに腰を落として、ドアを閉める。

「そこら辺をテキトーに走りながら話しましょう」

 学校から出たクルマは幹線道路に合流し、真ん中の車線を余裕のある速度で流していく。

 巡は横目で様子をうかがう。

 端的に言って、美人である。日本人ばなれした彫りの深い顔に白い肌。歳は三〇代半ば。目元は鋭いが刺々しさは無く、鼻歌でも歌い出しそうな顔でステアリングを握っている。

「ここは妙な世界ですね」

 監督官はいきなり口を開いた。どう答えればいいのか迷った巡はオウム返しをする。

「妙な世界?」

「ええ、実に奇妙です。カテゴリ的には閉鎖世界になるのでしょうが、それにしては世界構造が緩すぎます。この程度なら我々も楽に干渉できるはずなのですが、それが非常に難しい。調査部の鑑定によると、この世界はそれ自体として存在するのではなく、そこにある内容物によって在り方が規定されている。そしてその世界に規定された内容物がまた世界を規定する。喩えるなら『夢に夢見られた夢の中の夢』というように、無限退縮的な堂々巡りとして存在しているようなのです」

 さっそく何を言っているのかわからない。

 巡は「はぁ……」と曖昧な返事をする。

「要するに、取っ掛かりがまるで無いのです。今も私は膨大なリソースを消費してこの身体を保っている状態です。久瀬くせさんは元々この世界の住人ですし、テトさんにしても久瀬さんと同時に世界へ侵入できたからこそかろうじて存在できているのでしょうが、私はそう長くはこの世界に留まれません」

 増援、というわけではないようだ。

「あなた方もこの世界ではほとんど力を使えないようですね」

「はい」

「グローブボックスを開けてみてください」

 と言われても、普段乗るクルマとはかけ離れた雰囲気の内装に巡は戸惑う。下手に触って壊したり汚したりしたらと思うと気が気でなく、ただ座っているだけでも落ち着かない。

「ええと……こう、かな」

 これほど大きなクルマのくせに、グローブボックスはびっくりするほど狭かった。

 中には小さな風呂敷包が一つだけ。

「それはあなたたちの為に用意しました。開けてみてください」

 包を手に取ると予想よりもずっしりとして、なにか固い手触りを感じる。

 膝の上で慎重に布をほどいていくと、二つの小瓶が出てきた。

 栄養ドリンクほどの大きさの透明なガラス瓶で、金属の装飾が巻き付いている。中には金色の液体が入っていた。


霊酒ミードです。捜査に役立ててください」


「これが……」

 巡はアンティーク小物のような瓶を目の前にかざしてみる。

 今の巡たちのように、管理官が何らかの理由で力を発揮できない場合がある。そういったときには特別な法力を濃縮した『霊酒ミード』を、一時的な増強剤として使う場合がある――と教育課程で習ったことを思い出す。

「私はあなた方の様子見も兼ねて、それを届けにきたのです。対策部は現在、作戦の準備にとりかかっています。間もなく彼らもこの世界に突入し、こんどこそ目標を始末するでしょう。……ですが、まだ時間はあります。あなたたちはあくまでも飛沫世界係ひまつせかいかかりとして捜査にしているだけなのですから。獲物を前にして対策部が動くのを待つ必要もありません」

 出し抜いてやれ、と監督官は言っているのだ。

 今こそが対策部よりも先に対象を始末する絶好の機会であり、それを確かなものにするために霊酒ミードを持ってきたということらしい。

 もしかしたら、と巡の脳裏に冷たい予感がよぎる。

 もしかしたら、監督官は自分達があの二人を逃がそうとしていることに気づいているのだろうか。――いや、もはや気づいていると考えるべきだ。観測部でも詳しい会話の内容は把握できてはいないだろうが、自分達が『獲物』と接触したこと、そしてなにもしなかったこと、それらの動きは知られているだろう。だからこそ監督官はこうして巡の前に姿を現したのだ。


 変な気は起こすな。

 今すぐカタをつけろ。


 自分の膝の上に乗っているのは二発の弾丸なのだと巡は思う。

 お前たち二人はそれを込める銃なのだと、監督官は言外にほのめかしているのだ。

「監督官殿」

「なんですか、久瀬さん」

「――ありがとうございます」

 巡は小瓶を包みなおして、デイパックにしまった。

「期待していますよ」

 それから監督官は、巡を家まで送ると言った。

 だが巡は途中で買い物をしてから帰るつもりだと――嘘を――言い、マンションから少し離れた場所で降ろしてもらうことにした。

「――ここで良いのですか? お買い物なら私も付き合いますよ?」

「いえいえ、どうぞお構いなく」

 と、ドアノブに手をかけようとしたとき、監督官が何かを思い出したような声を上げた。

「ああ、そうだ」

「何でしょうか?」

「このようなことを尋ねるのは、とても不躾なことだとは思います。なので、今ここにいる二人――久瀬さんと私だけの、この場限りのことだと思って、ご宥恕していただきたいのですが」

「なんなんですか、そんなに改まって」

「これは私個人の好奇心から尋ねるのですが」

「はい。なんでしょう?」

「あなたはなぜこの世界を滅ぼそうとしたのですか?」

 自分の胸には穴が空いているのだと思う。

 無を呑んでさらに深い虚は『久瀬くせじゅん』という存在の逆説的な証明であり、それ故に自分は『久瀬巡』ではないのだという、どうしようもなく残酷な真理そのものだった。

 巡はフロントガラスに向き直る。

「――私は、母に助けられました」

 その瞳は、自分が立つ深淵を覗きこんでいる。

「でも、私は母を助けられなかった――いや、助けたくなかったんです」

 監督官は黙ってその言葉を聞いていた。

 真空に引かれたような沈黙の中で、猛獣の寝息のようなエンジン音だけが低く響いていた。

「送って頂いてありがとうございます」

 巡は何事もなかったかのように表情を切り替えて、クルマから降りた。

「それでは、事が終わったらまたお会いしましょう」

 監督官は静かに頷く。

「良い報告をまっています」

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