クローバー

 七生ななみが帰ってきた時、じゅんはテトを膝に乗せて仲良くソファでTVを見ていた。

「おかえりなさい」

 巡の雰囲気があまりにも自然だったので、七生は一度リビングを素通りして台所に向かい流しで手を洗い再び戻ってきて初めてテトの姿に気づいた。

「どうしたのその猫」

「ああ、この子はね――」

「ペットは飼えないぞ」

「ペットじゃないわよ。ねえ?」とテトに向かって巡は言う。

「じゃあなんなの」

 うにゃあぅ。

 とテトは少し不機嫌そうに答える。

「名前はテト・グロウラー・シャプトゥスっていって、まあ、友達みたいなものかな。テト、この人は新庄しんじょう七生ななみさん。私の――保護者ね」

 んう。

 テトは品定めするような視線を七生に向けたが、しばらくして唐突に興味をうしなったように顔を逸らす。

 なおも七生は怪訝な顔のまま突っ立っている。彼は特別犬猫が嫌いだとか、アレルギーだとか、そういうわけではなかったが、かといって動物に寛容なわけでもなかった。

「今日はこのへんでお開きにしましょう」

 ソファから下りたテトは爪を立てないようにのびをした。

 そのまま並んで玄関に向かう二人の後に、七生は半ば無意識的な足取りでついていく。

「じゃあ、明日はお休みだから……」と巡はすこし考えて。「お昼にまた合いましょう。場所は今日と同じところで。ここから一人で帰れるよね?」

 にゃあ。

 とテトが応えた。

 そして巡が開けた玄関のドアから外に出ようとしたところで、

「あ、ちょっとまって」

 んにゃっ。

 尻尾を引っ張られたようにテトは振り向く。

「もう人様の車には上がらないこと。いいわね」

 んうー。

 面倒臭そうに応えたテトは挨拶がわりに尻尾を一振りして、巡の家を後にした。

 ドアを閉めた巡は何事もなかったかのように踵を返し、

「さあて、ごはんにしましょ。今日はヅケの山かけ丼だよ。オクラ入りでネバネバマシマシ」

 台所に向かうその後ろ姿を、七生は夢か幻でも見ているような面持ちで見ている。


 巡と七生の食事は静かだ。

 もっともそれは他人行儀というわけでは決してない。そもそも二人共沈黙を苦に思わない性格だし、さらに食事中もつけっぱなしにしているTVにしても、その内容を話題にするということもあまりないというだけであり、要するに、それだけお互いに慣れているのだとも言える。

 なので七生が口を開いた時、うっかり真面目に返答してしまいそうになった。

「さっきの猫、ほんとに何者なの」

 同僚だよ、と危うく口にしかけて息を呑んだ。

「――なに?」

「野良にしては毛並みが良すぎるし、それにあの人間慣れというか猫離れというか、態度がどうみたって飼い猫のそれだろ。あまり人の家のペットにちょっかい出すのは――」

 なんだそんなことか。

「正真正銘の野良だよ。結構前からこの辺をナワバリにしてるみたい。キモが太くて人間なんて全然怖がらないから、暇な時に会えたら遊んであげてるの」

「そうか」七生は未だ釈然としない顔。「でもウチは――」

「ペット禁止、でしょ」と巡は相手の言葉に被せて、「今日は特別汚れが酷かったから、ウチに上げてお風呂に入れたってだけだよ。家の中は汚してないから心配しないで」

「ならいいけど」

 そしてまた無言。

『八時のニュースをお送りします』

 TVが宣言した。次いで、


『アメリカネバダ州の超重粒子線加速実験施設、通称「クローバー」の爆発事件から四年が経とうとしています。現場となった荒野の一角には、今もなお巨大なクレーターが残り、爆発の凄まじさを物語っています。先日、アメリカ国防総省が新たに明らかにしたところによると、事件に深く関与しているとされる久瀬くせ渡真理とまり研究員の事件前日の行動に、不可解な』

『――気は下り坂になるでしょう。続いて台風情報です。大型で強い台風9号は、依然として勢力を保ちながら、毎時7キロというゆっくりとした速度で東へ進み、明日の未明には――』


 七生が無言でチャンネルを変えた。

 巡は、公的な認証の必要がない場面では『新庄』の姓を名乗ることが多い。

 この世界では『久瀬』という名にはどうしたって良くないイメージがつきまとうからであり、余計な面倒事を避けるためでもある。

 良くないイメージというのは、もちろん〈クローバー事件〉のことである。

 直径十数キロの粒子加速器と実験施設のほとんどが吹き飛び、北米大陸の広範囲にわたって電力網と電子機器が破壊され、発令された国家非常事態宣言すら伝言と手紙と狼煙で伝えねばならないほどの混乱をもたらし、世界経済にも大きな影響を与えた大災厄。

 目下そのとされる人物こそが久瀬くせ渡真理とまり――つまり、巡の母親だった。

 しかし、


 それは全て“片付いたハナシ”なのだ。

 確かに、異界管理官いかいかんりかんとして選ばれた当初は自分でもどうかしてると思うほど自暴自棄な状態だったが、そこでまず相手をするのが数々の新人――もとい荒くれを、いっぱしの管理官に育ててきた歴戦の教導官たちである。巡も教育課程を終えるころにはすっかり吹っ切れて、新たな人生を楽しもうと決めたのだ。

 だから全て“終わったハナシ”なのだ。


 気にするほどのことじゃないのに、と思う。

 それでも七生は自分のことを気にかけてくれているのだろうと思う。

 そして、そんな七生に甘えきっているこの世界の自分は、度し難いほどに醜悪だと思う。

「そういえば俺、来週の木金と出張だから」

「ふーん」と巡は興味なさげに言って。「台風が来るみたいだから、気をつけてね」

 無表情のままあさり汁をつついてる巡を、七生はひどく真面目な眼差しで見つめた。

「悩み事でもあるのか」

「――は?」

 全く予期せぬところから飛んできた言葉に、巡はぽかんと口を開ける。

「昨日からなんか変て言うか……雰囲気が違うというか」

「変って、どんなふうに?」

 そう言って巡は七生の瞳を覗き返す。下手に隠し通そうとして更に相手の疑念を煽るよりは、堂々と構えていたほうがよっぽど効果的だ――というのは後付けのリクツで、本当のところはどうせ何を話しても理解出来はしないのだからと高をくくっているだけである。

 冷たく高踏的な目つきで、口元には不敵な笑みさえも浮かべて、真正面から対峙する巡の雰囲気に気圧された七生はたまらず視線をそらして、

「いや……なんか……」

「なあに」

 巡は攻めの姿勢を崩さない。口ごもる七生の表情に嗜虐的な満足感を覚える。私もたいがい良い性格してるなあ、と心の中で自嘲するがやめる気はさらさらない。

 七生は渋い茶を口に含んだような顔をして、

「人が変わったというか、別の人間みたいな……」

「変わったってぇ、どこがぁ、どんなふうにぃ?」

 ねっとりとした声を浴びせ、さらに身を乗り出して相手の顔を覗き込む。今の巡にしてみれば十五の歳の差など無いに等しいどころかいっそ子供同然のように思える。

「――いや、やっぱなんでもない。変なこと言って悪かった」

 一転して七生は憮然とした表情で、ズルズルと山かけ丼をかきこむ。

 あからさまな照れ隠しに巡はますます可笑しくなる。腹の底で意地悪の虫が騒ぐ。

「じゃあ後でゆっくりと、隅々まで確かめてみる?」

 ぐっ、と喉をつまらせるようにして固まった七生を見て、巡はたまらず吹き出した。

「あっはははっ! 絶対いま変な想像したでしょ。このスケベオヤジ!」

「おやじではない!」

 とふくれる様子がまたさらに可笑しい。


 笑いながら頭の隅でふと、このままこうやって暮らすのも悪くないな、と思う。

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