welcome to my world

 眼鏡を忘れた。

 そんなものは管理官になってから一度も必要としなかったし、日常生活に支障が出るほど目が悪いというわけでもないのですっかり失念していたのだが、いざ学校に来てみると、教室の後ろ側にある自分の席からでは黒板に書かれた文字がほとんど潰れて認識できなかった。元より真面目に受ける気などなかった授業をよそに、じゅんはこれからのことを考えて一日を過ごした。


 まずはテトを探そうと決めた。


 身体に引きずられたせいだろう。どうやってこの世界に来たのかを一向に思い出せないのだが、しかし相棒であるテトを置いて来るわけはないと巡は思う。きっと一緒にこの世界に入ったはずで、自分がこの体に吸い寄せられたために離れ離れになってしまったのだろう。

 今の巡は、ほとんど無力と言ってよかった。

 この世界の形而上構造けいじじょうこうぞうはかなり特殊で、たとえ練達の管理官であっても大きな力を振るうことは困難である。そのうえ巡の身体はこの世界の住人であるために、ヤドリギの杖を呼び出す事もできなければ〈因果律操作プロフェータ〉も満足に使うことができず、このままではそこらへんの女子高校生となにも変わるところがない。

 事程左様に、テトにしてみたって〈完全観測スペクタトル〉が使えるとは限らない――というか使えない公算のほうが高いのだが、それでもいるといないでは天と地ほどの差がある。

 そしてなによりも、この事件は自分達二人が受け持ったものだ。できれば一緒に力を合わせて解決したいと巡は思っている。


 さて、問題はどうやってテトを探すかである。

 巡は〈枝〉に頼ることにした。

 といってもそれは黄金に輝くヤドリギの枝などではなく、学校から帰る途中の公園で拾った、名前も知らない木の枝である。

 巡は地面に立てた枝の先を指で押さえる。感覚を研ぎ澄まし、幽かな気配を見せるだけの形而上構造けいじじょうこうぞうに意識を集中させる。そして頃合いを見計らい、まるで風が流れるような色のない動きで指を離す。


 枝が倒れた。

 たぶん、あっち。


 これが今の巡が使える能力の精一杯である。なんとも地味で侘しい上に、傍から見たら完全に足りない子なのだが、これでも鉛筆を転がせばテストでかなりの高得点を取れるほどの力はあるのだ。

 そして巡は、枝が指し示す方に足を運び、しばらく行っては枝を倒し、という作業を繰り返した。天下の往来にしゃがみ込み、神妙な面持ちで棒きれを弄る女の子に、道行く人もあからさまな奇異の視線を投げかける。――が、当の本人はいたって真剣である。小さな子供に「おねーちゃんなにしてるの」と訊かれれば「探しもの占いをしてるのよ」と大真面目に答えて、枝の行方に目を凝らす。

 気づけば夕暮れ時だった。

 いつの間にか後をついてきていた子供たちも遂には飽き、『変なおねーちゃん』を真似て振り回していた木の枝を放り投げてどこかに駆けて行った。

 もうずいぶん歩きまわった。枝は大きく円を描くように倒れ、その範囲は縄を引き絞るように徐々に狭まってきたのだが、それでもまだ、テトの気配はその尻尾すら見せない。円の中にいることは間違いないとは思うが、これが地面を突き抜けて地球の反対側を指していないとも限らない。

 そうなったらお手上げである。銀糸の杖を片手に数多の世界の空を飛びまわってきたというのに、この世界ではどこに行くにもお財布の中身と相談しなければならないのだ。


 ほとほと疲れ果てた。

 体が重い。身体と意識のズレが、まだ尾を引いている。管理官としては不老であっても、この世界の自分は止まらない時間の中で溺れ続けているのだ。

 そしてこの身体には、実に三年の重みがまとわりついていた。

 たかが三年。

 されど三年。

 それは永遠を過ごすうちに忘失していた、時間というものの重みだった。

 少し足を休ませようと思い、ちょうど行き当たった公園のベンチに腰を下ろす。

 脳みそまでが呆けきったような面持ちで、彩度を失っていく空を見上げていると、頭の中の思考がぽろりと口の端からこぼれた。

「このままこの世界で暮らすってのもありかもね」

「任務はどうするの?」

「こんなぷよぷよの身体で、ダイエット以外に何が出来るってのよ」

「巡はまだマシじゃないか。僕なんかこれだよ」

 ようやく気付いた。

「――テト!」

 飛び上がらんばかりに驚いて、巡は周囲に視線を走らせる。

 夏の夕暮れに沈んでいく公園に、人の影はない。

「ここだよう」

 足元。

「やっと会えたね」


 猫だった。


 白と灰がまばらに混ざった銀色の長毛。体格からしてそれなりに歳を経ているようだが、その顔つきは若々しく精悍。夕月を呑んだかのような金色の瞳が、あたりに漂う昼間の余熱の中でひときわ涼しい光を放っている。

「きゃ~~~~~~~~~~~~~」

 相好を崩した巡は小さな悲鳴をあげた。

 テトはベンチに飛び上がって、巡の隣に腰を下ろす。

「なんだよう、莫迦みたいな顔しちゃって」

「前から猫っぽいと思ってたけど、やっぱり猫が似合うわねあなた」にへらっ、と頬を緩ませてテトの頭を撫でる。「それにしてもまあ、ずいぶん可愛い姿になっちゃって」

「ンムム」テトは鬱陶しそうな顔で巡の愛撫を受ける。「確かに本来の僕の姿に似てるけど、こんなにちっちゃくなかったよ」

「いいじゃんいいじゃん。もうずっとこのままの姿でいようよ。そのほうが可愛いって」

「やだよう!」

 テトは、無遠慮に首筋を撫で回す巡の手を叩いて退けた。

「もう! ほんと苦労したんだからね! 一緒に来たはずの巡はどっかに行っちゃうし、僕はこんなちっぽけな動物の身体で、探そうにも能力は千万分の一も使えないしで、大変だったよ。いっそ身投げでもして一人で帰っちゃおうかって思ってた」

「まあまあ落ち着いてよ。私だってあなたを探してたし、こうして会えたんだから良かったじゃない。結果良ければ全て良しってことで、ね? 私なんかもう百人力の気分よ」

「無能が二人になったところで何も変わらないと思うけど」

「やけに悲観的ね」

「ねえ巡、この世界ってなんか変だよ」

 テトは耳をぺったり伏せ、外聞が悪いとてもいうように声を潜めて、

「世界の設計図である形而上構造けいじじょうこうぞうが、読み取れないほどに薄い。普通なら世界を保つだけの力はないはずなのに、崩壊の予兆すら無い――それどころか世界の編み目がガチガチに硬くて不透明で、僕の〈完全観測スペクタトル〉でもまるで歯がたたない」

 パタパタと、銀色の尻尾が神経質なリズムで木製のベンチに踊る。

「これは〈高位虚事象創発定理群こういきょじしょうぞうはつていりぐん〉の決定なんかじゃなく、だろうね。巡がそんな変な身体からだになったのも、そのせいなんでしょ?」

「変な身体ってなによ。失礼な猫ね」

 巡は口をへの字に曲げる。

「気にすることはないさ。僕のこのザマに比べたら、よくそこまで似た身体を作れたもんだよ。でもやっぱり、ちょっとだぼだぼしてないその身体?」

「だぼだぼで悪かったわね! でもこれが本来の私の身体なんだからしょうがないじゃない!」

「――え」

 とテトは目を丸くする。

「それってつまり……」

「そういうこと。――まさか気づいてなかったの?」

 巡はテトの両頬を軽くつかみ、ふにゃふにゃと揉みしだく。


「私の世界にようこそ」

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