久瀬巡の日常
浴槽に湯を張った。
とにかく落ち着いて、状況を把握しようと思った。
たいして広くもない浴槽の縁に手をかけ、ゆっくりと腰を下ろして肩の上まで湯に潜らせる。
「おぉ~~」
オヤジみたいな声が出た。
最後に風呂に入ったのはもう何万年も昔のことのような気がする。膚に沁み入る湯の熱さはまさに感動的で、立ち上る湯気のカルキ臭すらどこか愛おしい。ささやかな水圧に身を委ねれば、澄ましバターのようにゆるんだ意識が一呼吸ごとに体外へ溶け出していくようだ。
浴槽のへりに頭をあずけ、蒸気にぼやける浴室の天井を半睡半醒の心地で見上げていると不意に、腹の奥でごろりと動くものがあった。
だしぬけに、腹を貫いた剣の感覚が蘇った。
「ひゃっ」
思わず小さな悲鳴をあげて、鳩尾の辺りを抱え込む。柔らかい皮膚と薄い筋肉の向こう側で、活動を始めた胃袋がクゥクゥと鳴き声をあげていた。
安堵のため息を漏らし、再び肩まで湯に浸かる。
今のでようやく目が覚めた。
湯船から引き上げた髪の毛を後頭部にまとめ上げ、邪魔な前髪をかき分ける。ヘアバンドを忘れたことに気づくが、いまさらである。
「よしっ!」
気合の掛け声と共に両手で頬を叩いた。
緩みきっていた思考の糸が、急速に巻き上げられていく。
管理官として選ばれる者は大抵、世界そのものを滅ぼしかねないほどの能力を有している。畢竟して世界は時限爆弾を抱えたようなもので、遅い早いの差はあれど、いつか必ず爆発して滅びることになる。いきおい爆弾そのものである管理官(候補)が無事でいられるわけもなく、十中八九が世界と運命を共にする。そして、それらの破滅の中から〈
――というのが、多くの管理官のあいだで半ば冗談として、そして半ば真実として語られている異界管理官論のひとつだ。しかし研究部あたりの者に言わせれば、それはまったくの理路を欠いた、語るに易い俗説的なリクツでしかない。
なぜなら実際、それに当てはまらない事例が報告されているのだから。
例えば
試しに胸を揉んでみる。
自慢というほどでもないが、なかなかいい量感だと思う。肋骨の硬さを確かめながら脇腹へと手を滑らせていき、骨盤から鼠径部をなぞり下腹部を包む。針で突付けばぷちんと弾けそうなほどに柔らかく、なんだか頼りない感じがする。そのまま股ぐらに手をやり、毛を摘んで引っ張ってみたり肉の感覚を確めたりしたあと、太股を揉みながら脚の先までたどっていく。最後に力こぶを作り、二の腕の肉をひとつまみする。
思いのほか贅肉が多い。
「ちょっとは鍛えておけよな」と心の中で文句を言うが「メンテナンスはしてるんだ」と反論する自分の声に負けて、結局「まあいいか」と自分で納得する。
ともあれ、この身体こそが『本来の久瀬巡』であるのは間違いない。
極めて稀なことであるが、異界管理官の中にはその出自世界に『本来の自分』を残したまま管理官となった者がいる。その場合、残された方は何が起こったのかを知ることもなく、その世界の中でいままで通りの活動を続けることになる。
昨日までのこの身体がまさにそうであったように。
とどのつまり、〈異界管理官〉というのは選ばれたり再生されたり救われたりして成るのではない『作られた』ものであり、そこに本来の自分との連続性は無い――というのが研究部の見解である。
単純に言ってしまえば、コピーなのだ。
とはいえ大抵の管理官は任務さえこなせればそれでよく、自分は何者なのかなんてことに関心を寄せることもないし、そもそもオリジナルが失われている時点で問題ですらないのだが、巡のような例外はその辺りが多少複雑になる。
「ああもう、頭がぐるぐるする」
苛立たしげに呟いて、巡はバシャバシャと顔を洗った。
この世界で暮らしていた自分と、管理官としての自分がごちゃまぜになっている。
自分に与えられた任務は
どうしても『この世界の自分』に引きずらてしまう。
こうして考えている自分はこの身体を間借りしているだけなので、仕方ないといえば仕方ないことなのだが、はやいところ自分に慣れておかなければ、任務と野菜室の整理に支障が出る。
「自分の任務を思い出せ、久瀬巡管理官」
額に浮かんだ汗を洗い流す。
「ひとつひとつ、何をすべきか考えろ」
巡は自分に言い聞かせる。
「私は異界管理官だ」
大きく呼吸し気を落ち着かせる。
「迷うな。愚直であれ」
刺された腹の気持ち悪さを思い出す。
それを振り出しにして、ここに至るまでの道のりを一歩ずつ辿っていく。
そうして巡が管理官としての己を取り戻す頃には、湯はすっかり冷め切っていた。
風呂から上がると、ちょうど叔父が起きてきたところだった。
「おはよう」
「おあお――っかぁー」
サルのように歯を剥きだして欠伸をした叔父は、ひょろりと長い腕を何かの体操のようにぶんぶん振り回してリビングを横切り、台所のほうにあるテーブルに着いた。
巡は叔父と二人で暮らしている。
叔父は名を『
部屋に戻って制服に着替えた。
本音を言えば今すぐにでも捜査に取り掛かりたいのだが、いくら自分のこととはいえ、昨日まで何も知らずに生きてきた人間の生活を滅茶苦茶にした挙句「任務が終ればサヨウナラ」というのも後生が悪いので、とりあえずはこの世界での日常を保ちつつ、捜査を進めることにする。
台所に戻ると七生はまだテーブルに肘枕でぼんやりしている。
「ほらほらさっさと支度する。遅刻するよ」
と巡は急かすが、
「ゴハンは?」
――あ、
「うわっ、ごめん。ご飯炊くの忘れてた」
昨日は疲れたので炊飯器をセットするのも面倒くさく、朝起きてからやればいいと思いシャワーを浴びてそのまま寝たのだった。
「ええとええと、どうしよう」
とりあえず台所に入って何かを作ろうと考えるが、料理なんてのはそれこそ何億年も昔のことのように思う。ここはもう自分の記憶と腕を信じるしか無い。
「はいおまたせ」
スクランブルエッグにした。テキトーにちぎったレタスを添えて、戸棚にあった間食用のクロワッサンとインスタントのコーヒーを一緒に出す。
一仕事終えた巡は七生の向かいに座った。七生がそもそとクロワッサンを頬張る様子を眺めていると、
「巡は食べないの」
「え? 私?」
キュウ、と図ったように腹が鳴った。先程から調子がおかしいと思ってはいたが、なるほど腹が減っていたのかと巡は合点する。異界管理官は食事を必要としない。ゆえに食欲というものを本質的に欠いており、管理官としての生活に慣れきっていた巡は今の今まで、それが空腹であると気づいていなかったのだ。
「ああそっか、この私はモノを食べないとダメなのか」
寝ぼけてるのかこいつ、というような七生の視線も気にすること無く、巡は台所に戻って自分のためにスクランブルエッグを作り始めた。
慣れない日常をこなすのも楽ではない。もうだいぶ良くなってきてはいるものの、まだ記憶と気分の整理がつかない。
それでなくとも平日の朝である。のんびりと「やることリスト」を考えている暇などあるはずもなく、あれよあれよというまに時間は消費され、七生を送り出す時刻になる。
「いってらっしゃい」
靴を履いて立ち上がった七生は巡を振り返り、
「いってきます」
と言ったものの、不思議そうな顔で巡を見下ろしたまま動かない。
「――うん? なにか変?」と巡は自分の姿を確認する。
「いや、なんか……」七生は言いよどんで、「いつもと雰囲気が違うというか」
「そう? 私は多分変わってないと思うけど。……まあ、少し疲れてるってのはあるかもね。肉体的も精神的にも」
七生は狼狽えて、
「調子が悪かったら学校休んでいいんだからな」
「大丈夫よ」
「ならいいけど……」
しかしまだ七生は玄関に突っ立ったまま、巡をじっと見つめている。
「なんなのよ」
「いつもの」
いつもの? と巡は記憶をまさぐる。いつもの自分は何をしてるのだったか。
「――ああ」思い出した。「はい」
巡は両の腕を広げて七生を招き入れた。朝に家を出るときにはハグをするのが二人の習わしだった。実を言えば、巡自身はハグなど一度もしたことがなければ、七生と一緒に過ごしたことすらないのだが、妙に抱き心地のいい頭の形と鼻に慣れた頭皮の匂いで、これがこの世界における久瀬巡の日常であることを実感する。
「学校の課題がめんどくさいだけだよ」巡は腕の中に語りかける。「でもちゃんと終わらせるから大丈夫」
「ならいいけど」と七生は巡から離れ、「じゃあ、いってきます」玄関の扉を開けた。
「いってらっしゃあい」
笑顔で手を振って送り出した巡は、重いため息をどっと吐き出した。
「さぁーて、私もお仕事頑張らなきゃなあー」
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