虚無の王:3

 少女がその場でひらりと舞うと、頭上に生成された空間の裂け目から一振りの〈杖〉が出てきた。杖――というよりは銀の糸を疎らに編み込んだ紡錘形の棒のようになっていて、一見して芸術を目的としたオブジェのようでもある。

 少女は杖を手にし、石突で床を打つ。すると杖が眩い光に包まれ、その内側から黄金の枝葉を茂らせるヤドリギが生成された。

「あの石の暴走を止めるわよ」

「しかし、どうすれば? もはや魔石に流れる力を止めることなど我には不可能だ」

 少女は魔王に向かって微笑む。


「だから、私たちがやってきたのよ」


 高く掲げられた杖の、ヤドリギの枝を纏めていた銀糸が解ける。

 ばらばらになった枝が弾き出されるように空中に飛び散り、そのひとつずつが発する輝きが聖堂を金色に染め上げていく。

「――美しい」

 目の前の光景に魔王は感嘆の息を漏らす。

「私は異世界との癒着を切り離し、綻びを繕うわ。テトは石の暴走を止めて再度封印!」

「えー」と猫耳は面倒くさそうな声を上げて「封印なんかしないでぶっ壊しちゃえばいいよー。大体さ、こんなものがあるから召喚術が使えちゃうようになったんじゃない」

「世界の要石としても機能してるんだから、壊しちゃったらこの世界が崩壊しちゃうでしょ。まったくもう、すーぐ腕力でどうにかしようとするんだから。また監督官殿に怒られるよ?」

 むう。と猫耳は腕組みして、

「こういうごちゃごちゃした作業は好きじゃないよー」

「あなたののほうがよっぽどごちゃごちゃしてるじゃない」

「あれとこれとは別モノなの」

 口を尖らせた猫耳が腕を振ると、その足元から淡く光る透明な足場が現れた。それを渡って魔石の前にやってきた猫耳は、禍々しい光を放つ石をじろりと睨んで、

「だって、美しくないんだもん」

 胸の前に掲げた両の手を光が包み、輝く〈籠手〉に変化した。白金でできた龍の鱗で編んだような籠手を、猫耳は魔石に突き入れる。

 そんな人智を超えた光景を唖然として眺めていた魔王はようやく我に返って、

「我は何をすればよいのだ」

 少女は杖を縦横無尽に振り回し、宙に浮いた無数の枝を操っている。飛び回る枝は伸びやかな金色の軌跡を引いて、それはまさに壮大な編み物をしているようだった。

「停止の術式と魔力場の静止をお願い! こんなに雑音があったらテト一人じゃ厳しいから」

「心得た」

 魔王はありったけの魔力を振り絞り、荒れ狂う力場に対抗する。

「ほら、姫様と勇者くんも! ぼけっとしてないで手伝って!」

  少女は二人に呼びかける。

  だが――


「姫様! しっかりしてください! 気を確かに!」

 その場に膝を折りうずくまっている姫に、勇者が懸命の呼びかけを続けている。

「――私たちが魔王に与するなどありえない……人族こそがこの中つ国を治めるべきなのだ……私たちの行いは正しい……私たちこそが正義……ありえない……神族の血を引く私こそが……なんなのだあの小娘は……なぜ神は私に力をお貸しくださらない……魔王が世界の崩壊を救うなど認められない……私はここまで戦ってきたのに私こそが正義であったのに……私が……私は……」

「姫様! 姫様!」

 うわ言のような姫の呟きは、徐々に狂気の気配を深めていく。

「私は――私は神の末裔なのだ。私こそが、この世界を統べるのだ。私こそが魔族を滅ぼし勇者を従え、この中つ国の頂点に立つ者なのだ。全ての民は私の栄光の前にひれ伏さねばならぬのだ。あんなわけのわからぬ小娘が私の邪魔をするなどありえない。神の子である私を差し置いてあんな醜い畜生にも劣る魔王を助けるなど許されるはずがない私こそが正義なのにこの世界を救うのは私なのにこの世界は私のモノなのに――」

「ひ、ひめ――さま?」


「私のモノにならないのなら、こんな世界いらない」


 再び立ち上がった姫の表情は、まさに魔王と呼ばれるべき禍々しき色に塗れていた。

 一瞬の空白だった。

 抱きつくようにして勇者の懐に潜り込んだ姫は、その腰に下がる長剣を一息に鞘から抜き出し、返す刃で勇者を袈裟に斬りつけた。

「お前ももう必要ない」

 崩れ落ちる勇者に一瞥もくれず、猫耳の作った光の階段を電撃的に駆け上がっていく。

「テト!」

 異変に気づいた少女が警戒を叫ぶ。それは瞬きをするほどの時間の出来事だったが、しかし幾多の戦場を駆け抜けてきた姫にとって、手中の白刃を振るうには十分すぎる間合いだった。

「わ、わわわっ!」

 慌てて魔石から手を引っこ抜いた猫耳は首筋を狙う刃を拳で受けた。

 甲高い音を響かせて刀身が砕ける――が、姫は尚も踏み込みを緩めない。その視線は猫耳にではなく、元より据えられていた。

 翻した柄頭には、限界まで力を注ぎ込まれた魔石が埋め込まれていた。

「しまった! もう一つあったんだ! テト! そいつを止め――」


 衝突した二つの魔石は互いの膨大な魔力に溺れ、粉々に砕け散った。


 一瞬の差で猫耳の拳が姫を捉え、その体を吹き飛ばした。

 床にたたきつけられた姫は悪魔的な笑みに顔を歪め、耳障りな高笑いをあげる。

「アハハハッ! アハッ、アーッハアハアハッ、アハー!」

「うわあああっ! なにしてんのよ、ばかー! あほー!」

 少女は愕然として頭を抱える。あまりにも唐突な出来事に、気の利いた罵りも出ない様子である。

 おろおろと狼狽える魔王は、頭を抱えてしゃがみ込む少女の背中に、遠慮がちな声をかける。

「あ、あのぅ……魔石が壊れちゃったんだけど……我はどうすれば」

「ごめんなさい」

「はい?」

「この世界は崩壊します」

「えっ――。でもでも、それを止めるために貴公らはやってきたのであろう?」

 少女は背を向けたまま立ち上がる。

「……はい。ですが失敗しましたゴメンナサイスイマセンでした残り短い世界ですが精一杯エンジョイしてくださいねグッドラックアスタラビスタベイビー」

 杖を一振りすると、辺りに展開していた枝が再び杖へと戻り纏められる。

「もう! じゅんのせいだからね! ちゃんと見張っておいてよ!」

 非難の声を上げた猫耳に少女が食いつく。

「だって、まさかこんなトチ狂ったことやらかすなんて思わないじゃない! それにテトだって私よりも気づくの遅かった!」「アハハハッ」「僕は作業に集中してたんだよ!」「そんなの私だって同じよ! こっちはもっと神経使う仕事してたんだから!」「あのーすいません」「そもそも巡が石を全部取り上げておかないから!」「じゃあ剣を抑えてた時に言ってくれればいいじゃない!」「あのー」「こんなことになるとは思わなかったんだよ!」「ほら、あなたも一緒じゃない」「アハーッ!」「でも巡が姫の因果律を操作してなかったからこんなことに」「世界を修復してるときにそんな細々したことやってらんないわよ!」「あのぅ、お二人共もっと冷静にですね」「アハーッハッハハッ!」


「うるさいわ!」

「うるさいよ!」


 ぴしゃり、と打ち据えられたように聖堂が静まり返る。

「……ごめんなさい。私がもっとしっかりしていれば」

 と少女は低頭して魔王に謝る。

「あ、うん。僕も判断遅かったしねえ」

 申し訳無さそうに耳をペタンと伏せる猫耳。

「アハ、アハハ……」

 姫はぐったりと床に横たわって動かない。

 魔王はもはや小動物のような表情で、潤んだ瞳を二人に向ける。

「ほ、本当に、もうこの世界はダメなのか?」

「まあその……うん」と少女は言葉を濁して、「ほら、そこ見て」


 指を差したその先、魔石が浮かんでいた辺りの空間にが浮かんでいた。それは見る間に幅を広げ、まるでひび割れた卵の殻がぼろぼろと剥がれおちるように、領域を広げていく。


 その向こうにあるのはまさしく〈無〉だった。

 どこまでも黒く冷たい底なしの虚が、粉々になった世界を飲み込んでいく。周囲を見渡せば、同じようなひび割れがそこかしこに出現しており。それは音もなくゆっくりと、しかし着実に空間そのものを裁断していく。

「こうなってしまうと、もう私たちの力じゃどうしようもない。他の管理官をいくら集めても、崩壊が確定してしまった世界を修復するのは無理なのよ」

 その言葉を受けた魔王はしかし、激高するでもなく悲嘆にくれるでもなく、淡々とした表情で頷いた。

「そうか、終わるか」

 大きな肩の荷が降りたような、ささやかな宝物を亡くしたような、寂しさの中にひと匙ぶんの清々しさを溶かしたような顔だった。

「ごめんね」と猫耳が言う。

「ハハハ」と魔王は乾いた声で笑った。「そもそも我はこうなることを望んでおったのだ。勇者も姫もざまあないわ。神の末裔を滅ぼし、人族を滅ぼし、世界をも滅ぼした魔王として、まったく誇らしいぞ」

「そうね、あなたはこの世の終わりまで語り継がれる、まさに伝説の魔王だわ」と少女。

「我が宿願は果たされた!」

 魔王は自身の気持ちに区切りをつけるように、ハッキリとした口調で言った。

「――で、貴公らはどうするのだ」

 少女は杖を空中の穴に放り込んで、

「この世界の崩壊は止められなかったけど、癒着した他の世界への波及を食い止めなきゃならないわ。大忙しよ。……まあ、ヘマこいた私たちが悪いんだけど」

「そうか、また別の世界に行くのか。達者でな」

「あなたもね」と魔王の指を握る少女。

「ばいばい、魔王さん」と手を振る猫耳。

 そう言って肩を並べた二人の頭上の空間が、渦を巻くように捻れた。その中心にぽっかりとあいた穴の向こうは、今まさにこの世界を飲み込まんとする〈無〉と似ていた。

「ああ、待ってくれ」

 魔王は慌てて二人を引き止め、

「貴公らの名を聞いておらなんだ」

「僕はテト。『テト・グロウラー・シャプトゥス』だよ」と神々しい猫耳が言った。

「私は『久瀬くせじゅん』よ」と神々しい少女が言った。「――あなたは?」

 魔王はしばらく逡巡して、答えた。

「我は『虚無ナダ』。世界を終わらせた最期の魔王だ」

 巡とテトは静かに頷いた。

 空中の渦は二人を覆い隠すように呑み込むと、次の瞬間には跡形もなく消えていた。


 二人を見送った魔王は傷だらけの身体を引きずり、床に倒れる勇者の傍らに向かった。

 勇者は既に多くの血を失っており、隙間風のような呼吸をかろうじて続けている。

「これで終わりとは、つまらんのう……。せめて貴様との決着だけは、この手でつけたかった……」

 魔王がそう呟くと、勇者はゆっくりと目を閉じて、穏やかに微笑み頷いた。

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