◎瑠璃の瞳と蜘蛛の夢
その日は、珍しく一人で外出が許されていて、彼女は市場に来ていた。
市場はにぎわっている。
男も女も老いも若きも、とにかくいろんな人がいる。
彼女は、珍しく心が弾んでいた。
一種の妓女である彼女は、外出を厳しく制限されている。
まだ妓楼の近隣で区域の中ならともあれ、花街を越えて外出となるとなかなか難しいのが通例だ。
彼女はどちらかというと真面目だったし、それに乙女と呼ばれる特殊な立場であったから、逃亡する気などもなかったのだが、それでも魔が差すという可能性は考慮されるべきだろう。
(こんなに自由でよいのかしら)
比較的真面目な彼女は、その辺をちょっと気にしてしまう。
思えば、幼い頃、彼女は高山から売られてきた。それから、選ばれてここから遠く離れた神殿で修行を積み、それからこの王都の妓楼に"派遣"されてきたのだ。
それなもので、近所の市場だというのに、彼女は珍しく少し浮かれていた。冷静沈着で感情表現の苦手な彼女だが、彼女にも年相応に浮かれるということはある。
といっても、彼女の表情はやはり乏しいので、周りのもの達からはさして変わりないいつもの彼女だったかもしれない。
今日外出が珍しく許されたのは、特別なお使いがあったからだった。
その時の彼女は、いわば見習い期間だった。正確には引き継ぎの期間なのである。
旧い”乙女”が落籍されようとするときは、新しい”乙女”が神殿から派遣される。派遣と言えば聞こえはいいが、結局のところ、奴隷と大して変わらない。他の妓女と同じで、年季が明けるまでは結局働かないとならないのだが……。
乙女は特殊なので、いつ年季が明けるかにはやや個人差がある。一応何年まで、というのは妓楼によって決まりがあるらしいが、神託や占いといったものと深くかかわりがある彼女たちは、そうしたもので早く身請けされることもままあるのだった。
彼女の前任者の”おねえさん”も、そういったことで早くにお役御免となることが決まったようだった。
彼女のおねえさんは知的で優しい人だった。確かな知識を持っていて、度胸が据わっているが、気の強さを前面に感じさせるようなことはなく、彼女を優しく教育してくれる。
姐御肌である上に優れた師匠であり、彼女はおねえさんを尊敬していた。
一方、おねえさんの方からも、彼女は信頼を得ていて妹分としてかわいがってもらっていた。
そんな中でも、彼女はおねえさんから薬の調合については特に一目置かれていた。
乙女には様々な仕事がある。
神殿で様々な教育を施されている乙女は、一種の知識階層でもあり、古くから医療ともかかわりがある。差し当って薬の扱い方には詳しいのだが、特に彼女は薬の調合を得意としていた。
ちょうど、その時、都で流行り病の兆候があり、おねえさんはそれを危惧していた。流行り病には効く薬が決まっていたが、楼閣にはそうした蓄えがなく、今後、もしかしたら薬の原料が手に入りづらくなるかもしれない。
おねえさんがそれを楼主に相談したところ、それでは薬を作っておくと良いだろう。蓄えがあれば不安はすくない。ということで薬草を調達することになったのだ。
そこで薬に詳しいおねえさんと彼女、そして、店の男衆が一緒に出掛けることになっていたのだが、当日、急に来客があった。どうも遠方からきた大切なお客様だとかなんとかで、おねえさんも男衆も忙しくててんてこまいになった。
彼女も準備やらなんやらで忙しくはあったのだが、準備ができてしまうと見習いの彼女には差し当たって仕事がなくなってしまった。
「時間があるのなら、相手にも伝えてあることだし、品物を引き取っておいで」
楼主もおねえさんも、そんなことをいうものだから、彼女は結局一人で出かけることになったのだ。しかし、信用されているのは嬉しいことだが、なんとなくそわそわしてしまう。
(一人で外出なんて、いつぶりかしらね)
しかも街の中を。
小さいころにも街に一人でおつかいにいったことはないでもないのだが、それでもほんの数回。山のふもとの小さな町、村といってもいいかもしれない、そんなところの市場に行ったことがあるぐらい。
ほとんど山の中で、家畜の世話をしたりして過ごしていた。
(こんな風な外出、もしかして初めてなんじゃないかしら)
そう考えると、柄にもなく気持ちが浮ついてしまう。彼女は用心深い正確でもあったので、慌てて自分を律した。
(だめだめ。こんな風に考えていると、妙な事件に巻き込まれてしまうかも。油断はいけないわ)
寄り道したい気持ちを抑えつつ、彼女は指定されていた薬屋にまっすぐにむかった。
薬草独特の香りに満ちた薬屋。
まだ乾燥しきっていない薬草の束を受け取って、籠にいれて両腕で抱える。ちょっと癖のある香りがなんとなく心地よかった。
「お嬢さん一人で来たのかい?」
店番をしている老人がそうたずねてきた。
「ええ。おねえさまや他の方と来るつもりだったのですが、急な来客があったので……」
「そうかね。今日は大通りに人が多いから、気を付けて帰るんだよ」
老人は優しくそう告げた。
「人が多い? 何かあるのですか?」
「今日は、今の王様の一番上の王子様が出征する日なのさ」
「一番上の王子様? 東征王子といわれる方でしょうか」
「ああ。そうだよ。ご本人かどうかはわからないとは言われるけれど、あの方が出征されるときにはパレードが行われるんだ。今日はその日だから、沿道は見物客が多くなるんだよ。スリ等も多いから、気を付けておかえり」
「はい。ありがとうございます」
礼を言って外に出る。
理由を聞いてから周りを見渡すと、確かに大通りの方に皆が向かっているようだった。
なるほど、どこか街が浮ついている気がしていたのは、彼女の気持ちのせいだけれではないらしい。
出征の時の行軍は、一種の見世物的な側面もあった。建国間もない王家の軍事力を誇示する一方、彼らの魅力を全面的に伝えるものでもあったのだ。
特に今の王様と件の王子は良く出征を行う。彼女もそれを聞いたことがあった。
(騒ぎにならないうちに帰らなきゃ。そうだ、みんなやおねえさまにお土産を買おう)
近くの店でちょっとしたお菓子をお土産として買い、彼女はまっすぐ帰ることにした。
街はすでにざわついている。そう考えると老人が忠告したのももっともだった。
見習いとはいえ、乙女に選抜されるほどの美貌を備えており、花街から出てきたのであろうと予想がつく綺麗な衣服の彼女は目立つ。ひとごみのなかで要らぬ揉め事に巻き込まれるのは、よろしくない。
しかし。
そうはいっても。
(東征の王子様。年齢は私より少し上くらい。将軍をされているんだったわね。えっと、お名前は、確かとても変わった異国のお名前だったかしらね。シャル……なんとかって)
彼女にだって興味はある。
(確か、青い孔雀の意匠の旗を掲げてて、青い鎧兜を身に着けているのだったかしら……。だからあだ名が
そんなことをぽつぽつと思い出していく。
青い甲冑をまとった少年の将軍。
一体どんなものかしら。
乙女の彼女は、外の世界をあまり知らずに育っている。その分、読み物を通じて英雄の物語などには詳しいし、今の情勢も良く知っていた。
正直、興味はある。
うーん、と彼女は、両手に薬草の籠とお土産を抱えながら悩む。
揉め事に巻き込まれて妙な事件に巻き込まれると大変だ。おねえさまにも信じてくれた楼主にも迷惑がかかる。けれど、出征のパレードなどそうそうみられるものではない。
楼閣の窓からは大通りはみえないのだし、東征の王子様だってそう何度も出征するわけではない。
(見たい)
彼女の中で、だんだんその気持ちがふくれあがってきた。
(つまり、ひとごみに巻き込まれれずに覗いてしまえばいいのだわ)
彼女はそう考え、ちょっとだけ悩むと、来た道を引き返した。
要するに表の大通りを王子様は通るのだ。大通りの沿道に紛れるのは危険。それなら、沿道に出ずに見ればいいのだ。
確か、この道の向こう側に一角だけ大通りと隣り合わせている場所がある。狭い路地から入った空き家の塀のそば。あまり人通りはないのだが、そこから覗ければいいのではないだろうか。
彼女は駆け足にその道まで戻る。大通りとは塀で隔てられているのだが、ふるい塀はくずれかかっていた。
彼女は荷物をそこに置くと、近くにあった木箱をひきずってきてそれを足場にして飛び乗った。塀に手をかけてのぼって両手をかける。袖が白く汚れる。
(これ、服がかなり汚れちゃいそう)
まあ、洗濯はどうせ自分でやるのだし、なんとかしよう。
彼女は意外とそのあたりはおおざっぱである。
しかし、服を汚した甲斐はあった。
彼女の目論見どおり、すでに兵士たちが道を行くのが見える。しかも、角なので意外と距離が近い。そして、周りには人もいない。特等席だ。
翻っているのは、予想通りの青い旗。青くそめた孔雀の羽をあしらっている。
今の王が出征するときに使われるのは、赤い旗であるので、話に聞いた通り、息子の王子様の方だということだろう。
「わあ、すごいなあ」
無口で無感情な彼女にしてはごくごくめずらしいことに、そんな声が漏れた。
まるで絵物語でみたように、整然と並んだ戦士たちが大通りを行く。
(すごく綺麗。かっこいい)
幾人か、おそらく将軍なのだろう。
ひときわ上等な甲冑をまとった馬に乗った男が、兵士たちに守られるようにして進んでいく。なかなか端正な顔をした男で、無表情で厳しい表情だが清廉な気配が好ましい。
兵士たちの抜いた刃物が、太陽の光に反射して一層夢物語のような錯覚を起こさせる。
(すごいわね。よかった。見に来られて)
彼女は幾分か満足した。
もともと、淡白なところのある彼女なので、先ほどの将軍らしい男を見たあたりでいくらか気持ちがおさまってきた。あまり遅くなるといけないので帰ろうか。
王子様というその少年も見てみたくはあったけれども。
そう考えて、木箱から降りようと思った時。彼女の目の前でひときわ大きな青い旗が翻った。
一瞬で沿道の空気が変わり、その人物が皆の注目を集めている。
おりしも急に風が吹き、その彼のマントを揺らし、甲冑に引っ掛けたらしい。小手を付けた手がマントをひるがえすと、花模様の刺繍のついた青いマントがひらめいた。
彼女は、どきりとした。
掲げられた青い旗の真ん中に、白馬にのった男が静かに進んでいた。陪臣を後ろにして進む男は、男というにはまだ幼い気配もあったが、背も高く妙に大人びている。痩せてはいたが、甲冑を着ていることもあってか、貧弱な感じはなかった。
(このひと、東征の王子様? これが、
彼女は目を瞬かせて、その青い甲冑の男に見入る。
彼は仮面をつけているようで、そのあどけなさの残る顔立ちはそれ以上はうかがい知れない。兜の下で沿道の誰にも目を向けず、まっすぐに顔を上げている姿は、意外と威厳があった。
彼が王子様なのか、影武者なのかは彼女にはわからないが、少なからず彼は”絵物語の英雄”のような人物だった。
彼女はぼんやりとその様子をみていた。
ふいにその視線を感じたわけでもないだろうが、青兜の将軍がちらりと彼女のほうに目を向けた。角を曲がるとき、つまり彼女との距離がもっとも近くなるその一瞬にだ。
「あ」
彼女らしくもなく慌ててしまって、彼女は思わず足を滑らせそうになった。
どうにか塀につかまって事なきを得たところで、青兜の将軍は彼女の目の前から去っていく。
その背後の、刺繍のついた青いマントが日の光にまぶしかった。
「びっくりしちゃった……」
彼女はぽつんとつぶやきながら、そっと頬に手をやった。
「……本当に、絵物語の王子様みたい……」
ふうとため息をついて、彼女はその姿を見送った。やがて彼が見えなくなると、彼女は両手に再び薬草をかかえて歩き出した。
なんとなくまだ夢でも見ているような気持だった。
(私みたいなものでも、王子様と目があうことがあるのね)
けれど、それは一瞬の奇跡的なことなのだった。
彼女は結局乙女で、妓楼に縛り付けられた存在なのだ。今後きっと、彼に出会うこともないのだろう。
住む世界が違うのである。彼女はそのあたりはとても現実的に考える娘だった。
(けれど)
ふと、先ほどのことを思い出す。
兜と仮面の奥、一瞬だけこちらを見た彼の瞳。ほんの少しの魔性を秘めて、まるで引き込まれそうな光を放っていた。
(なんだか、あの王子様、
「
楼閣に帰ると、おねえさんは来客が帰ったとのことで休憩しているところだった。
「一人でいかせてごめんなさい。怖いことはなかった?」
「はい」
おねえさんは聡明で冷静な女性だったが、彼女ほど無表情なわけでもない。
あなたはもうちょっと愛想笑いを練習しなければね。そんな風に笑って注意してくれる優しいひとだ。
「これ、皆様にお土産を……」
「あら、お小遣いで買ってきてくれたの? あたしにそんな気を遣わなくていいのよ」
おねえさんは彼女の頭を少し撫でたが、なんとなく普段と様子が違うのに気づいたのか首を傾げた。
「瑠璃、お前どうしたの? いつもと違うわね」
「あ、いえ。……ちょっと、やんごとない方をおみかけしたものですから」
彼女がそういうと、流石におねえさんは知っていたらしい。
「もしかして、東征の王子様かしら。今日ご出立というお話だったものね」
「ご存じですか?」
「ええ。まだ王子様がお子様だったころ、神殿でお見かけしたことがあるわ」
「まるで絵物語のようでした」
「そう。でもまだ彼ボウヤでしょ。お前とあまり年が変わらないはずだけど」
「いえ、そんなことなかったです。一瞬だけ、目があって……。まだお若いのに、随分と大人びていて……」
どこかしらぼんやりしてしまう彼女に、おねえさんは笑いかける。
「あらあら。当てられてるわねえ。まあ、行軍の時は着飾るものだし、ちょっとは男前に見えるかしら」
「い、いえ、私、そういうのではないのです。雲の上の方だとわかっていますから、そんな……」
慌てて弁明する彼女に、おねえさんはにこりとする。
「お前がそういう現実的な娘だってわかっているさ。本当、お前には珍しいね。けれど、本を読むのが好きだから、本当は夢見がちなところもあるんだし、当てられると大変そうねえ」
そういいながら、おねえさんはふとにやりとした。
「けれど、瑠璃は乙女の中でも、ちょっと不思議な子だから」
きょとんとすると彼女はつづける。
「もしかしたら、もしかするってこともあるかもしれないし。……私は占いが得意だし、うちの女神さまは気まぐれだからねえ」
ぶつぶつと何か独り言を言う。
「どういうことですか?」
「さて、どういうことかしらねえ」
そう尋ねてみると、おねえさんは笑って直接答えない。
「まあいいわ。せっかくだもの。お茶をいれて、お前のお土産を食べましょうか」
「はい」
彼女は気持ちを切り替えて、早速、お茶を沸かす準備にかかる。
そんな彼女をみやりながら、”おねえさん”は笑っていた。
「そういうことなら、どこに出しても恥ずかしくないようにちゃんとしないとね。忙しくなりそう」
おねえさんの言葉の意味は、その時の彼女にはわからなかった。
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