〇忘れじの白き日々


 絵筆をおくと、昼間の穏やかな風が窓から入ってきた。

 一瞬、それで俺は我に返ってふと動きを止めた。その風が吹き込んでくると、何故か妙に懐かしいような気持にさせられて、ざわざわしてしまう。

 むやみやたらに心を揺さぶられ、別に思い出したくもない記憶を探られるかのようなのだ。

 

 俺は、この穏やかな昼の風がどうにも好きになれないのだった。

 

 真昼の過ごしづらい灼熱の気配なら、いらだたしく思いながら過ごせるというのに、まるで眠気すら誘いそうなこの心地よさだけはどうにもいただけない。

 そう、心地よいのは間違いないのだ。

 だとしたら、俺が何故この空気を嫌いなのかと、疑問に思うものもいるだろう。

 それはもっともなことだ。俺にとっても、この風自体は心地よく涼やかで、快適なものなのだから。

 新緑の鮮やかな緑の色を映しながら吹き込んでくる風は、誰にとってもよいものに違いない。

 俺にとっても、餓鬼のころはそうだった。

 ただ単に、その風は心地よい真昼の風だ。

 

 そのころの俺は、中庭ぐらいしか出ることを許されなかった。さして高くもなかったが、王位継承位をもっているものの宿命だった。しかしそれでも、そういう時は外に出て庭にあつらえた休憩所で昼寝することぐらいは許されたものだった。

 侍女につれられて、中庭で遊んで少し疲れたころにそこで休む。

 中庭に咲き乱れる花々と、春や初夏の香りの中で眠りに落ちる。その心地よさは悪夢など見るはずもないほどだ。

 その時に顔を撫でるその風こそ、幸せの香りで満ちている。


 時は流れて、既にすべてが変わってしまって、あの頃の俺はもういないというのに、風は同じ香りをしているのだった。

 だから、窓から風が入ってくると、俺は窓の外にその光景を見てしまう。

 しかし、そんなものはとっくの昔に失われたものなのだ。そんなささやかな幸せは、今の俺には無縁のものだ。

 まだ穢れてもいない白き日々の思い出は、窓の外の、手も触れもできぬところで静かに存在するだけのものだった。


 

「ギル様」


 俺が絵筆をおいたことで、かたりと音がしたのだろう。

 ふと彼女が声をかけてくる。俺がモデルを頼んでいた彼女は、とても美しい女で、指示通り窓の外に向けていたはずの切れ長の目が俺の方を見ていた。

 窓から入る新緑の植物の色を映した光は、白い服をきた彼女もその色に染める。緑の光をうっすら浴びて何となく現実味がない。彼女自体が、まるで窓の外に広がる景色のようで、手に触れづらく、それゆえに綺麗だ。

「ああ、すまないな。疲れたか?」

「いいえ」

 彼女はかすかに首を振って微笑んだ。

「良い風が吹いているなと思ったのよ」

 そう声をかけられて、俺は思わず苦笑する。

「ああ、そうだな」

「お昼寝でもすると心地よいのでしょうね。とても穏やかな気持ちにさせるわ」

 そんなことを言う彼女は、どこかしらかつての白いあの頃の気配をまとっている。



 俺にとって、もはや忘れたいだけの白い日々。覚えていても手に入らないからこそ、苦しいものなのだから。

 けれど、俺がこの娘を描くのは、俺がきっとあの頃の気配をどこかで求めているからかもしれない。久しぶりにむやみに穏やかな気持ちにさせられる。

「そうだなあ、少し休憩しよう。何か飲み物でも飲むか」

 彼女はふと微笑んで、ゆるやかに立ち上る。彼女が立ち上ると、窓の光がそばの花瓶にうつって、白い薔薇の花にかすかに薄い緑の色を付ける。


(俺の時間は、本当はあの頃から止まっているのかもしれない)

 

 そんなことを考えてしまうと、少しだけいらだたしく、そして穏やかな気持ちになるのだ。だからこそ。そんな自分をまざまざと見せつけられるからこそ、俺はその風が嫌いなのだ。


 結局、俺は塗りつぶさずに大切にしまい込んでいる。

 忘れようにも忘れられぬ、二度と戻らぬ白き日々を。

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