◎楽園をなぞる庭・後編

 この屋敷の書斎というのは、いわば書斎という個人的なものからは逸脱していた。ここに来るまでのラゲイラの屋敷もそうだったが、書斎というより図書館という方が近いものだ。

 ここに来る前にジャッキールが滞在していたラゲイラの別邸にも、書斎があったのだが、そこの書斎もたいそうなものであったが、こちらの方が本の数がぐっと多い。

 いくつもの本棚が並び、そこには読み切れないほどの数の本が並んでいる。ラゲイラ卿がここにいる間に勉強しろといったのも、ここにそれだけの資料があるからでもあっただろう。

 しかし、噂ではザファルバーンは、乱れた時代が長くつづいていたので、書物などは戦乱の際に焼けてしまったり、散逸してしまったりしているときいていた。それをここまで集めて保管していられるのは、やはりそれはラゲイラの実力があってのことなのだろう。

「ここまでの蔵書、さすがはラゲイラ卿だな」

 思わず感嘆を漏らし、そんなことを独り言ちると、ふいに声が飛んできた。

「当たり前だ。御前様は立派な方だ。これぐらいあたりまえだ」

 どきっとして後ずさった拍子に本棚に腰をぶつけた。それが傷に直接響いてジャッキールは思わずうずくまる。

「何してるんだ?お客人」

 ジャッキールが痛みに耐えているあいだに、いつの間にかその人物は彼の目の前まで歩いてきていた。

 顔を上げてみると、どうも目の前にいるのは少年だ。背はそれほど高くない。まだ十五、六歳くらいだろうか。

(そういえば、あのラザロとかいう老人が、書斎に小間使いの小僧をどうの、と言っていたな) 

 その”小間使いの小僧”が彼のことなのだろう。

「い、いや、まだ怪我をしていてな……。ちょっとしたことで響くことがあるのだ」

 どうも格好の悪いところを見られた。思わず言い訳めいたことを言いながら体を起こす。

 少年はじっと彼を見ていた。どうも見覚えのある目だ。冷たい、なんというか、感情がない。思わず視線がぶつかってしまうのは仕方がないとして、ジャッキールの方が思わずたじろいでしまう。

(これは……、この感じは、もしやあの男の孫だろうか……)

 ジャッキールは、先ほどの老使用人ラザロを思い出していた。何となく面影が似通っている。

(しかし、孫までこんな視線を向けてくるのか?)

 どうも、こういう感じの人間は苦手だ。いや、そもそもジャッキールは人付き合いが苦手なのだが、特にこの雰囲気は苦手なのだ。

 そんなことを思っていると、ずいと少年が手にしていたものを差し出してきた。

「な、なんだ?」

「お客人に菓子を届けに来た」

 少年はぶっきらぼうに皿を押し付ける。

「菓子?」

 こくりと少年は頷く。

「部屋にいるはずなのにいないので、それならここにいるだろうと言われたから」

「あ、ああ、そ、そうか。それはすまないな」

 少年はあくまでぶしつけだ。そう礼を述べつつも、少年の態度にやや困惑してしまう。とりあえずジャッキールは菓子を受け取った。

(こんな小僧にも、俺みたいな面で甘いものが好きだとか思われているのだろうか)

 それはそれで恥ずかしい。

「客人は本が好きなのか? けがをしているのに、部屋にいないから」

「あ、ああ、いや、まあ、それは……」

 思わずぎくりとしたがジャッキールは、どうにか話を逸らす。

「いやその、こんな戦乱の中で、ここまで資料を保管しておられるのは、さすがはラゲイラ卿だと思ってな。俺は今まで旅をしてきたが、行く先々の図書館でも、ここまで本があるのはそうなかった。まったくもって凄いものだと感心していた」

「御前様は、あちらこちらから取り寄せて保存しているんだって言っていた」

 ラゲイラを褒めたからなのか、少年の態度が少し和らいだ気がする。

「燃えてしまうのはとても惜しいことなんだといって、あちらこちらの街から買い上げたんだとか」

「流石だな。こういうことは、力も資金もないとできないことだ」

「御前様は凄い人だし、立派な人なんだ」

 そういうと少年はこくりと頷いた。

 そうだな、と同意した後、一瞬書斎が静まり返る。少年はじっとこちらを見ており、立ち去る気配もないが、話を続ける気配もない。

「あ、そ、そうか。俺としたことが届けてもらったのに、駄賃も渡さなかったな」

 慌ててジャッキールが、とりあえず菓子でも……と渡そうとしたが、少年は首を振った。

「別に駄賃の催促をしたわけではないし、菓子もいらない」

「あ、いやしかし……」

 と、ジャッキールはやや困惑気味に彼を見やる。

「そ、それでは、何かまだ用か? 菓子なら受け取ったし、もうよいのだぞ」

「俺はお客人の用事をきくように言われている」

 少年はまっすぐにジャッキールを見上げる。

「い、いや、俺はもう今から読書がしたいのだが」

「それではここで待っている」

(待つ?)

 もしや、苦手な感じのこの視線を浴びながら読書しろというのか。

「い、いや、俺はその、しばらく用はないと思うのだが……。下がってもらっていてもよいのだぞ?」

 やんわりと遠ざけようとするジャッキールだが、少年は首を振る。

「それでは、用ができるとすぐに対応しなければならないから、客人に何か用ができるまで、ここで待つ」

(こんなところで待たなくていい!)

 出かけた言葉を飲み込みつつ、ジャッキールは、そうか、とつぶやく。

「で、ではだ。俺は菓子を食いながら読書したいのだが。よかったら、この菓子に合う飲み物でも持ってきてはくれないか?」

「飲み物だな?」

 頼まれるのを待っていたのか、少年が素直にうなずく。

「何がいい?」

「い、いや、まあ、茶でも珈琲でも手近にあるものでよいが、温かいもので頼む」

「わかった!」

 少年は、そういうと早足で扉に向かっていった。

(とりあえずはこれで時間は稼げるが、戻ってこられたらそれはそれで厄介だな)

 少年をだますのはちょっと気が引けたが、あの調子でずっと見られると読書にならない。ジャッキールは、素早く本を適当に、二、三冊見繕い、そっとそれを持ち出して書斎の部屋から静かに出た。

(やれやれ。どうも使用人のたくさんいる環境にはなれんな)

 そろそろと向かったのはラゲイラと最初に話していた庭の一角だ。

 外に長居するのは疲れるが、この際贅沢を言っている場合ではない。机と椅子の置かれたこの場所なら、植木のおかげで直射日光はあまり浴びないし、負担もまずまず少なさそうだ。

 そして、庭には使用人の気配がない。

 とりあえず菓子と本を机の上に置いて、椅子に腰を下ろしてため息をついた。

(しかし、少し不思議な場所だな、ここは。ラゲイラ卿の別荘で、これほどの規模だというのに、使用人の数が少ない。護衛の兵士もほとんどいない)

 小鳥の声が遠くから聞こえる。ひらひらと蝶が目の前を飛び回り、かすかに風が吹く。

(穏やかだな)

 その光景は、どこか現実離れしている。いや、庭だけでなく、屋敷全体が、どこか現実ではないような気がする。整然と沢山の本が並べられて、陽光が静かに挿し込む美しい書斎も。

 この屋敷は、あまりにも穏やかで美しい。まるで、この世のものではないようだ。

(俺は、本当はあの戦いで死んでいるのではないだろうか)

 ジャッキールは珍しくそんなことを考えた。

 そよ風が庭を渡り、庭木がざあっと音を立てる。

「まさか! 馬鹿馬鹿しい」

 我に返ったジャッキールは不安を打ち捨てるように吐き捨てて、本を手に取った。一冊目は詩集のようで、少しだけ読んだことがあるものだ。ページを開いてほぼ無意識に菓子に手を伸ばす。

「おきゃくじんは、甘いものがすきなの?」

 その瞬間、思わぬ至近距離から声が聞こえた。ぎくりとして思わず椅子ごとひっくりかえりそうになったがどうにかこらえ、ジャッキールはそちらを見た。

いつの間にか、ジャッキールのすぐそばに、五歳ぐらいの子供が立っている。男の子らしいが、可愛い少年だ。

(なんなんだ、ここの住人は。そろいもそろって気配がない)

「い、いつからそこに……」

 焦りながら尋ねるが、彼はきょとんと小首をかしげる。

「おれ、兄ちゃんとずっと一緒にいたよ?」

「兄だと?」

「うん、マクシムスっていうんだよ、兄ちゃん」

 もしや、例の目つきのちょっと悪い少年か。そういえば、あの老使用人が「小僧を二人」「小間使いに」と言っていた。なるほど、最初から二人いたのだ。

「おきゃくじんが、どっか行っちゃうから、おれが追いかけてきた」

「そ、そうか」

 ジャッキールは苦笑する。

「兄はお前より随分上なのだな」

 弟の方は幼いこともあってか、ちょっと雰囲気が違う。表情豊かというわけではないが、苦手な彼らとは違い、まだしも親しみやすい空気を身にまとっている。

「えっとね、にいちゃんは本当のにいちゃんじゃないんだ。おれ、ごぜんさまに拾われたばかりだから」

「あ、ああ、そうか、いらぬことを聞いてしまった」

 ラゲイラは戦乱で孤児になった貴族の子弟を引き取っているときいた。わからないが、この子もそのようなものなのだろう。

「俺ばかりというのも気が引ける。お前も一緒に食べないか? とても美味いぞ」  

 さしあたって焼き菓子を差し出してみるが、彼は菓子に興味を示さずにジャッキールの方を大きな目でじいっとみあげる。

「おきゃくじんは、遠い別の国のひとだよね?」

「お前達からするとそういうことになるな」

「文字が読めるの」

「まあな、勉強をしたからだ」

 ジャッキールは、何故そんなことを尋ねたのかといぶかしむ。弟の方は大きな目をきらめかせた。

「おれも文字読み書きできるようになりたいな。実はにいちゃんは読めるんだよ。こうしさまに教えてもらったんだって?」

「こうし?」

「ごぜんさまの」

「ああ、”公子様”か?」

 ジャッキールは軽く眉根を寄せる。

「うん。あの本のいっぱいあるお部屋は、ごぜんさまがこうしさまのために作ったんだよ。あれはこうしさまのご本なの」

(ラゲイラ卿にご子息がいるとは聞いていないのだが……)

 と思いつつも、ジャッキールはとりあえず話を合わせる。

「そうか。公子様は、とても勉強熱心な方なのだな」

「うん、ごぜんさまもとってもりっぱな人だよ」

「そうだろうな。俺も両親がいなかったから、ラゲイラ卿のような立派な父君がいる方は羨ましいぞ」

 ジャッキールは笑顔を浮かべつつ、本を置いた。。

「そうだ。手習い程度でよければ、俺が読み書きぐらいなら教えられるぞ」

「でも、にいちゃんから、おきゃくじんの用があればすぐきくようにって」

「では、俺の用はお前に文字を教えることにすればよい。いや、じっと待たれても困るからな」

「ほんとう?」

 少年ははそういうと、ぱあっと笑顔になる。ジャッキールは良い解決策ができたとばかりに安堵していた。




 *


 庭から、遠い過去の声が聞こえてくるようだ。

 鳥のさえずり、そよ風が木々を揺らし、ざわめく音。そして、子供の声に重なる四行詩を読み上げる声。

 それは過去にその庭に流れた音声にすぎず、今だあの頃と変わっていないこの屋敷が思い起こさせるだけの声色だったはずだった。

 本来は。

 



「あっ、お前、だめじゃないか」

 兄の方、マクシムスという少年が庭の彼らを見つけたのは、それでもジャッキールの予想よりかなり速かった。

 ジャッキールはちょうど弟に文字を教えている最中であったが、椅子に座ると机に手が届かない彼は、結局ジャッキールが膝を貸す形になっている。

 ただですらジャッキールに出し抜かれていたマクシムスは、やや不機嫌だったが、ようやく見つけ出したと思ったら、弟の方が客人にすっかり懐いて、お菓子までもらっているのをみて、余計に不機嫌になってしまったらしい。小言めいたことを言う。

「お客人に甘えては失礼だろう!」

「ま、まあ待て。別に良いのだ。俺が、その、暇をしていたので、この子が付き合ってくれたのだ」

 そういうと、弟が声をあげた。

「にいちゃんも、こうしさまにここで文字を教えてもらったんでしょ? だったらおれもそうしたいもん」

「まあ、よいではないか。飲み物も持ってきてくれたのだろう。すまなかったな」

 むっとして何か反論しそうな彼に、慌ててジャッキールは声をかける。

「そうだ。お前も一緒に本でも読むのはどうだろう。俺は、隣で黙って待たれると気を遣う」

 ジャッキールがそう持ちかけると、兄はしばらく彼をにらむように見る。その視線はやはり苦手なものだ。老使用人のラザロもそうだ。値踏みするように、というのは言い過ぎだが、何故か、じっくりと彼を見る。自分の後ろに何か見えているのかと思うほどに。

 苦手な視線で黙っていられるので、じわじわ冷や汗をかきはじめていたところ、マクシムス少年はおもむろに指をさし、口を開いた

「それじゃ、それを読んでほしい」

「これか?」

 彼が指をさしたのは、机の上に積んであった本の一つだ。それはこの地域の英雄の冒険物語のようなもので、とりあえず手元にあって面白そうなので選んできたのだった。

「俺は、文字は教えてもらったけれど、難しい本は読めない。この本、昔公子様に読んでもらったけど、途中で終わってて結末を知らないんだ」

「そうか」

 ぺらりとページをめくってみる。やや古風な文体だが、これぐらいなら自分でも読めそうだ。ジャッキールはちょっとほっとしつつ、

「では、これを読んでみよう。ただ、そこに立たれては困るので、お前も座ってくれないか」

 そういわれてマクシムスはしばらく考えていたが、ジャッキールが本気で困っている様子なのを見てようやく椅子に座った。

「さて、少し文字の勉強は中断するが、お前もよいかな?」

 弟に聞いてみると、彼はうんと頷き、興味深そうに本をのぞき込む。

 ジャッキールはページを開くと、その一文めを読み上げた。




 それは平穏で平凡な光景だった。どこにでもある光景だ。

 何も感傷的になることはない。

 ただ、過去に流れていた音が、戻ってきただけのことだ。それだけのこと。

「御前様」

 不意に声をかけられて、窓の外を眺めていたラゲイラは我に返った。

「ラザロ、何の用です?」

 振り向かなくても、声の主のことはわかっていた。もう彼とはずいぶん古い付き合いだ。答えない彼に、ラゲイラはかすかに彼の方を向いた。

 老使用人ラザロはしばらく黙っていたが、相変わらず表情は変わらない。

「御前様も懐かしく思われたのではないですか?」

「何をです?」

 ラザロはすぐには答えずに、ふとため息をついた。

「あの方の声、お坊ちゃんによく似ている」

 彼は表情を変えないまま、そっと窓の外をのぞきやる。

「それに、お坊ちゃんのお好きだった菓子が好きだと……。ああして声を聴いていると、まるでお坊ちゃんが、姿を変えて、記憶をなくして帰ってきたかのように思うのです」

 彼は首を振り、ラゲイラ卿を見上げる。

「御前様も、そう思われませんか?」

 ラゲイラは少し間をおいて、ため息をついた。

「いくらお前でも、少し僭越ではありませんか?」

「それは申し訳ございません」

 彼は全く顔色を変えずに頭を下げる。ラゲイラは彼に視線を向けず、窓の外を一瞥した。

「私は、……ただ傷ついた傭兵を拾っただけです。それだけなのです。……ただ、あの方の、声や年ごろがあの子と似ていただけのことだ」

 彼はまるで独り言のようにつぶやく。



 ……ああ、父上。ちょうど、子等に本を読んであげていたのです。


 あの日、庭で使用人の子供たちを集めて、彼は微笑んでいた。

 彼は、ラゲイラ自身にはさほど似ておらず、若くして亡くなった妻に似た容貌をしていて、親子というと周囲が驚くほどだった。

 ザファルバーンは、そのころは内乱の時代だった。名門貴族のラゲイラですら、王都でどうにか自分達を守るために画策するのが精いっぱいだった。

 仕事の忙しいラゲイラは、別邸に避難させた息子と当然ともにいる機会が少なかった。

 代わりに文学少年だった彼の為に、ラゲイラはあちらこちらから書籍を買い集めた。彼なりに息子のことは愛していた。そのつもりだ。

 彼は優しい性格をしていた。戦乱で孤児になった貴族の子弟をラゲイラは積極的に引き取っていたが、彼らの面倒も積極的に見ていた。使用人の子供たちにも、分け隔てなく可愛がり、面倒を見ていた。

 よく庭で物語を読み聞かせてやっていたり、読み書きを教えてやっていたのだという。

 

 戦乱もこの別邸にまでは及ばなかった。彼は穏やかな少年時代を過ごしていた。しかし、やがて彼も子供でなくなり、自分が守られた世界で生きていることに気づいていった。

 彼が、ある時長くしていた髪を切り落とし、国難を救うのだと言い出した時、それは始まっていた。彼は武官を目指し始めていた。

 ラゲイラはそれには反対だった。しかし、いよいよ王都の情勢は、のっぴきならない状態となり、ラゲイラは自分の立場と領地を守るのに精いっぱいだった。到底、彼に割く時間など割り当てられなかった。

 けれど、どこかで安心していた。あの優しい性格で世間知らずの彼に、武人が務まるわけがない。どこかでそう思っていた。

 しかし、実際はそうはならなかった。彼は愛していた書を捨てて剣を握ったのだ。彼は家出するようにこの屋敷を抜け出し、王都で仕官した。

 そして、彼が仕え、心酔したのは、王国でも危険視されていた急進派で、のちの宰相、ハビアス=カースディヤールだった。ハビアスはそのころすでに、のちに王となるセジェシスを見出していた。彼に仕官してからさほどの時を待たず、セジェシスは王となった。

 ラゲイラと彼は、政敵に近い間柄ではあったが、今ほど対立しているわけではなかった。ラゲイラ自身もセジェシスに魅入られた一人であり、彼が王朝を開くにあたってラゲイラも裏工作に参加していたのだから。

 しかし、ハビアスは国を大きくするための外征にも熱心で、また敵対する者には容赦なく制裁を加えていた。それらの政策でラゲイラとハビアスは激しく対立する立場ではあった。

 しばらく、ラゲイラと彼は連絡を取り合わなかった。出奔した放蕩息子、とラゲイラはラザロに愚痴ることもあった。

 しかし、その後、一度だけ彼はここに戻ってきたことがあった。

 彼は、すっかり様変わりしていた。穏やかな文学少年だった彼は、立派な武官そのものとなってラゲイラの前に現れた。

 彼は言った。国を救えるのは、ハビアス=カースディヤール様だけであると。

「父上も長年ハビアス様とは対立していらっしゃるようだが、今は一度私怨を捨てて協力してほしい」

 別にハビアスに私怨などなかった。ただ、彼の急進的な部分に、ラゲイラは危険さを覚えて距離をとっていただけのことだ。あの男は、確かに優秀だが、ことを強引に運びすぎる。だからこそ、距離を置いている。 

 そんなこともわからない彼に、ラゲイラは失望し、そしてハビアスに利用されているだけだと諭したつもりだった。が――

「父上には何故わからないのか!あなたは醜い日和見主義者だ!」

 彼はそう激しく彼を罵った。

「お前こそ、何故わからないのです。いたずらにことを進めて犠牲になるのは民草ですよ!」

「父上はそう言っていつも逃げているだけではないか! 自分だけよければどうだっていいのだろう!」

 物静かなラゲイラも、とうとう黙っていられなかった。ラゲイラは机を叩いて激高した。

「出ていきなさい! お前の顔など見たくもない!」

「それはこちらもだ! もう貴方とは父でも子でもない!! もう二度と会うことはないでしょう。父上、さらば!」

 そういって、彼は出て行ってしまった。ラゲイラは彼を追わなかった。

 そして、彼と会ったのはそれが最後になった。

 彼はハビアスより内乱平定を命じられて、激戦区に赴いていた。砦に立てこもっていた彼は砦と運命を共にしたという。救援をずっと上層部に求めていたが、救援は来なかったのだという。

 救援は来なかったが、その後すぐに乱は平定された。砦を攻め落とすのに熱心になっていた敵のスキを突いて、後ろ側から攻め落としたのだと聞いている。

 激しく焼けおちた砦からは、骨どころか、遺品の一つも帰ってこなかった。墓には砦の土を採取させて埋めた。

 その後、宮殿でラゲイラはハビアスと出会ったことがあった。

 ハビアス=カースディヤールは、昔から一見優男風に見える男だった。彼自身も名門貴族出身であり、洗練された雰囲気を持っていたが、しかし、相変わらず鋭い眼光を持った危険な香りのする男でもあった。

「ああ、そういえば、あの男はお前の倅だったのか、お気の毒だった」

 開口一番、ハビアスはぬけぬけとそんなことを言った。

「助けられれば良かったのだが、どうしても無理だったのでな」

「彼は、囮だったのではないですか? 彼は貴方のことをどこまでも信じていましたのに」

 ラゲイラが率直に尋ねると、ハビアスはくすりと老練に笑う。

「そういわれれば否定はできない。だが、あの男は実に立派だったよ。きっちりと任務を果たして、それで死んでいったのだから。彼には感謝している」

「貴方にとって、彼はただの捨て駒だったのですね」

「はは、ジェイブ=ラゲイラ、お前がそのようなことをいうのかね?」

 ハビアスは冷徹に笑った。そして彼の肩に手を置いた。ぞっとするほど、その手は冷たく感じられた。

「お前とて、駒は使うだろう? 私の場合、――たまたまそれがお前の倅だったというだけだよ」

 まあ、と彼は付け加えた。

「けれど、私も内心安堵はしているのだよ。お前の倅はお前と違って、あまりにもまっすぐすぎた。やがて、私の本性を知れば、きっと私に歯向かっただろう。だから、私を信じたままで国のために死んでくれたのは、国の為にも良かったよ」

 その瞳は氷のように冷たい。

「貴方は……」

 ラゲイラの声は珍しく震えていた。

「まさかそれで、わざと彼を囮に選んで……」

「仕方がない。私は陛下の新しい国を、素晴らしく強いものに作り上げなければならないのだ。彼は、不安要素でもあった。だが、わかっているだろう? ジェイブ」

 ハビアスは冷たく言った。

「お前はまだ陛下にとっても、私にとっても必要だ。しかし、私怨に身を焦がして私を恨むようなら、どうなるか……」

 ふっと彼は笑った。

「まあ、お前にはずいぶんと気の毒だった」

 さっと肩から手を離し、ハビアスはそう突き放すように告げ、そして去っていった。

 あの時、彼は目の前のすべてがガラガラと崩れていくように感じていた。

 言いようのない、今まで感じたことのない怒りに身を焦がした。それが怒りという感情であるかどうかすら、彼にはわからなかったほどだった。

 ――それなら、私も壊してやる!

 地獄の業火に焼かれるような感覚を覚える彼の心の奥底で、そんな叫びが響いた。

 ――お前がそうしてまで作り上げたものなら、私が壊してやる! お前が私から奪ったように、私もお前から奪ってやる!!

 そのときから、彼は人の心を捨てた。どんな汚い手でも使ったし、そのために危険に身をさらしもした。

そうして、ラゲイラはひそやかに自ら強大な軍事力を手に入れた。

 今もハビアスに反撃する機会を狙いながら、ザファルバーンに仕えていた。セジェシス王には魅せられていた彼は、あくまでハビアスを失脚させるための方策を、ひそやかに練りながら暮らしていた。

 しかし、今ではそれは、”彼に虐げられた旧王朝の貴族たちの為”、ということになっている。

 年月が当初の目的を薄れさせてくれていた。周囲も、彼がハビアスに対して敵対する根幹の感情に、気づいてもいなかった。

 それでよい。私情を捨てたといいながら、本当は個人的な復讐心の為に行動していることを、やがて忘れてしまえばそれでよい。


 *


「御前様は、では何故、あの方をここに連れてきたのですか?」

 ラザロの声が、ラゲイラを再び現実に引き戻した。

「このお屋敷は、お坊ちゃんのためのお屋敷だった。いつでもお坊ちゃんが帰ってきてもいいように、あの頃のまま残してある。そんなお屋敷です」

 ラゲイラはふっと自嘲的に笑った。

「さて、何故でしょう。……私にも、わかりませんよ、そんなこと」

 彼を拾ったのは、本当にただの気まぐれだ。

 戦場の悲惨さにやや感傷的な気分になっていたせいか、息子と年ごろの似た彼が倒れているのを見て助けるように言ったのは、慈悲というより気まぐれなものだった。彼が高名な傭兵だということも後からきいて、それなら回復すれば利用価値もあるだろうとも思った。

 それだけのはずだった。

 目を覚ました彼を見舞ったとき、彼がザファルバーン古語の勉強のため、四行詩を朗読しているのを聞くまでは。たどたどしく、丁寧に単語を読むその声が、彼に過去の捨て去った感情を思い出させるまでは――。

 ふと窓の外から笑い声が上がった。

 驚いてみると、珍しくジャッキールが声をあげて笑っていた。あの男も子供の前ではこうして笑うのか。

「御前様」

「少し、一人にしていただけませんか?」

 ラゲイラがそういうと、古いなじみの使用人は静かにうなずき、だまって去っていった。

 ラゲイラは静かに外を眺めながら、ため息をついた。

 昔、読んでいた同じ本を、彼が同じ声でなぞっていく。

「姿かたちが似ているわけでもないのに、ラザロの言う通りだ。声も嗜好も仕草もよく似ている……」

 ラゲイラは苦笑した。

「ただ利用するつもりで連れてきたというのに、彼といるとまるでお前が生き返ってきたかのように感じるのだよ」

 目を伏せながらラゲイラはつぶやいた。

「ただ、それだけのことなのに……」

 窓の外では、どこかで聞いたような声色が流れる。

 それはかすかに異国のなまりをふくみ、けれど、かつてと同じ文節をなぞるのだ。

「……かくて英雄は荒れた野を抜け、獅子の谷に差し掛かった。行く手をふさぐ怪物どもに、彼は剣を握って立ち向かう――」

 声だけが幸せだった過去をつづる。

 だからこそ、ラゲイラは目をそらし、窓の外を見るのをやめた。



 何故なら、それは見てはいけない、失われた楽園の光景なのだから。

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