◎楽園をなぞる庭・前編
その屋敷は都の喧騒から離れた場所にあった。
屋敷の外で続く政争や反乱から隔離され、まるで別世界のようで、さわやかな緑に囲まれ、ゆったりとした風が吹いている。
案内された部屋は、客間にしてはこじんまりとしていたが、調度品が一通り揃っていた。この豪邸の中にあっては比較的質素であるが、彼としてもその方が楽だ。
綺麗に掃除されているが、ずっと使われていなかったような、そんな印象を受ける。
「お荷物はお話をしている間に、お部屋に運び込ませていただきました」
案内人の老人がそう慇懃に声をかけてくる。
ジャッキールは行儀が悪いとは思いながらも、物珍し気に屋敷のあちらこちらに目を向けながら、部屋まで案内された。案内人の老人はラザロと名乗り、ラゲイラの古くからの使用人だという。
「何か気になることでもございますか?」
部屋に入っても思わず周囲を見回していたジャッキールは、そう案内人に尋ねられ、どきりとした。
「い、いや、失礼。なんでもない」
そう答えると、案内人の老人は表情を変えずに頷いた。
「そう焦らなくても、こちらの棟のお部屋はすべて貴方のご自由にお使いになれます。後で隅々まで御覧なさればよろしいのです」
ラザロは愛想もなくただ告げる。
「書斎も庭もご自由にお立ち入りください。どのように使ってくださっても結構です。ご遠慮は必要ありません」
言っている内容は親切そのものだが、そういいつつも、彼はあまり表情が変わらず、愛想がなくて冷たい。
「それはありがとうございます」
できる限り丁寧に答えつつも、実のところ、ジャッキールはこのあまり人間味のない使用人が苦手だ。
普段は高慢にみられがちなジャッキールも、ひとのことを言えた義理ではないのだが、なんとなく取りつく島がないような感じなのだ。人付き合いの苦手なジャッキールだが、好意的に接してくれるジェイブ=ラゲイラの屋敷のものなので、どうにか良好な関係を築きたいという気持ちはある。そんなわけで、これまで雑談をふってみようかと何度か試みたが、つれない返事で終わってしまっていて、すっかり苦手意識が先行していた。
そんなもので、すでに余計な話をするのは諦めてはいたのだが、それでも必要な話をしなければならない。
「ラゲイラ卿には過分のご計らいをうけ、恐縮している。貴方からも重々お礼申し上げていただきたい」
と礼を述べたところで、いきなり視線を向けられてジャッキールは内心戸惑った。
しかも、なぜか少しの無言。正直居づらい。
「御前様(ごぜんさま)には常にお考えがあるのです」
彼は静かにそう言って視線を外した。
「御前様はそういうお方ですから。貴方様が過度に恩を感じる必要はございませんよ」
「は、はぁ……」
思わずそんな返答をしてしまう。
実際、あまりな言い方ではあるのだ。お前を利用するからこそ主人はお前を厚遇するのだ。だから、気にせずに甘えておけ、ということなのだろう。
ジャッキールとて、ラゲイラ卿の人となりは以前から噂できいてはいた。権謀術数に通じ、ひとの恨みも散々買っていると。事実そうなのだろうなとは思うが、しかし、実際の彼は非常に紳士的ではあったのだ。
先ほども。
「捨てるべきは、人の心なのですよ。ジャッキール様」
ラゲイラ卿が王都から離れた領地に持つ別邸は、この世の騒乱とはかけ離れた楽園のように穏やかな場所だ。よく手入れされた庭園は、その気候の穏やかさもあってか花に囲まれながらも落ち着いた風情で美しい。おおよそ、ジャッキールのような戦場を渡り歩いてきた男にとっては、お目にかかることも稀な場所だった。
彼は庭園を眺めながら、どこか夢見心地な気分だった。
正直、何故自分がここにいるのか、戸惑いすらあった。
あのザファルバーンとリオルダーナの東方での戦争が終結した後、ジャッキールは、ザファルバーンの貴族の重鎮であるジェイブ=ラゲイラの保護を受けた。
リオルダーナの傭兵部隊の隊長を務めていたジャッキールは、リオルダーナ王子のアルヴィン=イルドゥーンに見出されて目をかけられていたが、それが彼を権力闘争に無理矢理引き込むことになり、その結果命を狙われることになった。刺客に襲われ瀕死の重傷を負った彼は、いつの間にかザファルバーン側の領地に逃げ込んで気を失っていたが、それを助けたのが通りがかりのジェイブ=ラゲイラというザファルバーンの大貴族の一人だった。
ラゲイラ卿のことは、ジャッキールも事前に知っていた。
実のところ、仕えてみないかという引き合いがあったこともある。気乗りせずに断ったが、そのときのうわさによると、結構な曲者で野心高い男だという話だ。ただ、良い話もあり、それは”筋を通す”のだという。
ジャッキールのような傭兵たちの中で”筋を通す”といえば、金の話になるのだが、ともあれ、成功しようが失敗しようが、裏切らなければ金は出す。使い捨てに使われることの多い彼らに対しても、それなりに人間として扱ってはくれるのだという。
非情な男だという噂なのに、何故そんな矛盾した話を傭兵たちは信じているのだろうと、そのときのジャッキールはいぶかしく思っていた。
しかし、実際にラゲイラ本人に会ってみると、なんとなくその理由もわからなくもない気がした。
ジェイブ=ラゲイラは、自分のような男にも物腰柔らかく接する、好感の持てる人物だった。
――貴方を使える男だと思いましてね。
自分を何故助けたのか尋ねると、ラゲイラはそう答えた。自分が使えそうな人間だから助けた。恩を売っておくのも、一興だと思った。貴方のような人間は、恩義を感じると報いてしまうものでしょう?、と彼は冗談めかしていった。
ラゲイラの部下には、彼とは顔なじみの同業者もいたので、おそらく自分は評判を知っていたのだろう。ジャッキールは良くも悪くも、この近辺の同業者の中ではそれなりに名が知れている。要するに、利用価値があるからこそ助けてくれたというのだ。
そんな風に正直に言ってのけたことも、かえって好印象に思えていた。
どのみち、自分には行くあてもなかった。思ったよりも重傷を負っていて、ジャッキールも身動きがとれなくてこまっていたところだったこともある。
結局、ジャッキールは彼の好意に甘えることにした。
ラゲイラ卿は、ザファルバーンの古参貴族でも名門中の名門の出で、けして美男子ではないが、もって生まれた気品のあるふくよかな男といった風だった。細い目は常に微笑んでいるように見えるが、本当に笑っているのかどうかはよくわからない。そこが彼の怖いところではある。
ラゲイラはその貴族趣味にたがわぬ確かな深い教養のある男で、文学や芸術に理解があった。もともと武官崩れのジャッキールも、素養のある男ではあったので、一言でいうと彼らは気が合うところがあった。
ラゲイラは療養中退屈な彼のもとを時折見舞いに訪れることもあり、そのときにそうした雑談に応じてくれた。
当初は警戒もしていたが、徐々に知的で教養が深く、話し上手なラゲイラに対して、ジャッキールもある種の尊敬の念を抱き始めていた。来訪を受けるたびに、困ったことはないかと聞いてくれ、快適に過ごせるようにと気遣ってくれ、恐縮もしていた。
それは自分によくしてくれるのは自分に恩を売るためだと、十分すぎるほどわかっていた。
しかしリオルダーナの一件で痛い目を見たこともあってか、珍しくジャッキールは彼には心を開きかけていた。
そんなこともあってか、ラゲイラの方でも何かと彼には良くしてくれた。
ジャッキールがそのとき負っていた傷は深く、治りきるまでにはそれなりの時間がかかる。ラゲイラは彼が落ち着いて静養できるようにと、自分が移動する際に一緒にこの別荘地に彼を連れてきた。ラゲイラのもとには、彼とは顔なじみの同業者も多く、もとからやっかみを受けやすい体質の彼のことを考慮してくれたということもあるようだった。
その待遇はいささか過分にも思えたが、今のジャッキールにそれを断る理由も余裕もなかった。
そして、やってきたのが、この別世界のように穏やかな空気の漂う邸宅だった。
「貴方の荷物を運びこむまで、ご気分が良いのでしたら外でお話でもいたしませんか。貴方は苦手のようだが、たまには日光に当たるのもよいものなのですよ」
屋敷についてすぐ、彼はそう話しかけてきた。
お茶を用意させますので、と言われて、断る理由もなく、ジャッキールは庭園で彼と歓談することになった。
穏やかで美しい庭園で、彼と文学の話をするのは、なんとなく不思議で、ジャッキールも必要以上にふわふわしたぼんやりとした心持ちになったものだ。
――自分は何故ここにいるのだったか?
そんなことを考えている時に、ラゲイラに言われたのだった。
「捨てるべきは、人の心なのですよ、ジャッキール様」
「人の心、ですか?」
何の話からそんな話題になったのか、ぼんやりしていたジャッキールは、唐突にそういわれて、戸惑いがちに反芻した。ええ、とラゲイラは答えた。
「貴方はお優しい方ですから、その分、悩みも深いのでしょう。強くなるには、人の心など不要なものなのですよ」
優雅に茶をすすりながら、彼はそういう。
「貴方は素晴らしく強いはずなのに、どこかしら弱いところがある。それは、ご自分でもよくおわかりでしょう。それは補わなければならないのです。だからこそ、貴方はその為にもっと知識をつける必要がある。ここにいる間に学んでもよいのですよ。私も少しでしたらお付き合いさせていただきます」
はい、とジャッキールは素直に答える。
「それは願ってもないことで、とてもありがたいのです。が、ラゲイラ卿のお手を煩わせるのは、ご迷惑のようにも思い……」
そういうと、ラゲイラは柔らかく微笑んだ。
「気になさる必要はありませんよ。私もたまには仕事以外の話をしたいものです。それに、貴方のような若い人には教養はいずれ役に立つことですよ。貴方は異国の生まれですが、素養はそこいらの武官よりありますから、何かの時に不利になることもなくなります」
人付き合いの苦手なジャッキールだが、不思議とラゲイラ本人とは、自然に話ができた。
「貴方がいずれ要職に就くなら、役立つことですよ」
「しかし、私は一介の傭兵にすぎません」
とジャッキールは目を伏せた。
「私のような男はそんな器にありません。この間のことでよくわかりました」
「ふふふ、そんな事はありませんよ。でも、たしかに貴方には弱いところがある。それは克服しなければならないことです。だからこそ、貴方が捨てるのなら人の心なのです」
「人の心ですか?」
ジャッキールは茶を置いた。
「それでは、貴方も人の心を捨てているというのでしょうか?」
少し僭越かと思ったが恐る恐る尋ねてみる。しかし、ラゲイラは別に怒りもしなかった。
「ええ、もちろんです。私も、かつては弱い人間でした」
ふと、彼は笑ったが、それはすこし寂しげだった。
「だから貴方のお気持ちもわかりますよ」
「ラゲイラ卿は……、何故……」
といいかけて、彼はふと言葉を飲み込んだ。
「どうしたのです?」
「いえ、その……」
ジャッキールは言いかけたことを後悔したが、結局恐る恐る続けた。
「とても有り難いことで、私は大変貴方には感謝しているのですが……、しかし、少し不思議にも感じているのです」
ジャッキールは丁寧に言葉を選んでいった。
「貴方は、何故、私にここまで親身になっていただけるのか……」
それは、事実、とても不可解なことだった。
本当に、何故、この男は自分にこれほどまでも親切にしてくれるのだろう。
自分がそれなりに有名な傭兵だったので、利用するつもりで負傷しているところを助けた……それまではわかる。しかし、それにしても、あまりにも彼は親身に世話を焼いてくれていた。その理由が、どうしてもわからないのだ。
ラゲイラ卿にやとわれている、彼を知る口さがない傭兵たちはやっかみ交じりに、ラゲイラ卿は独り身だし、貴族の孤児を引き取っているらしいから、そういう趣味でもあるのでないか、などと彼に吹き込んだものだ。しかし、その手の話に詳しくない彼でも、普通そうであるなら相手は少年であるはずで、自分では年齢があわないのだ。第一、今まで観察していても、ラゲイラには、そのような趣味もそもそもなさそうだった。
彼とは、年の離れた友人のような会話をしていて、彼も自分もそういう穏やかな時間を楽しんではいたが。
それだけで――それだけでここまで親身になってくれるものなのか。ただの相手ではなく、曲者として名高い男が――。
「何か妙な事でも吹き込まれたのでしょう?」
とラゲイラはやんわり微笑む。
「まあ、不審がるのも、無理もありません。しかし、私の答えは単純です」
目を伏せてから、彼は当然のように告げた。一瞬、彼の雰囲気が冷たくなる。
「貴方が、利用価値のある男だからです」
その言葉は冷たいが、何故か寂しげでもあった。
「私が利用する為に、貴方の才能を伸ばし、今のうちに恩を着せておきたいのです」
ただそれだけのことですよ、とラゲイラは結んだ。
しかし、何となくその言葉には、唐突に妙なよそよそしさが漂っているのだった。
「お客人?」
ぼんやりとそんなことに思いをはせていると、例の老使用人(ラザロ)から声をかけられてジャッキールは我に返った。
「あ、ああ、な、なにか?」
「書斎に小間使いの小僧を二人おいております。御前様にきけば、貴方は読書家であるとか。お部屋に常駐させるのも落ち着かないでしょうから、書斎におきました。何かあれば、彼らに用向きをお伝えください」
「それは……」
常駐? ジャッキールは内心困っていた。冗談ではない、これ以上気を遣いたくない。しかし、気を遣ってくれているのは間違いないので、ジャッキールはひとまず礼を言うことにした。
「本当に、過分なお気遣い痛み入ります」
そう言った途端、じっとりと睨むようにして見上げてくる。この老人、やはりどうも彼は苦手だ。
しかし、彼は何も言わず、そのまま部屋を退出していく。何か気に障ったのかもしれないが、とりあえず帰ってくれるなら幸いだ。
一人になると、ジャッキールは安心してとりあえず椅子に座ってみて、なんとなく周囲を見回した。
質素な飾り気のない部屋。客室というには、あまりに殺風景だ。ラゲイラ卿が自身には質素なのだとしても、彼の性格を考えると客室までこんな風にはしない。だが、物置だった部屋でもなさそうだ。
いくつか置かれた家具は古くからあるようで、使い込まれた形跡もある。しかし、物はほとんど置かれておらず、それが違和感を感じさせる。
(前に誰か住んでいた部屋か?)
そんなふうに考えていたところで、
「お客人」
と再び声をかけられた。ジャッキールは内心飛び上がらんばかりに驚いたが、そこは彼らしく、冷静なフリをしながら振り返る。
例によって全く表情も変えないラザロが静かに佇んでいた。
(気配がなかった。……俺にも気配を読ませないなど、この男、何者だ?)
正直言うと、この老人、少し怖い。
「お客人は、焼き菓子がお好きでしょう?」
何を言うかと思えば、急に彼はそんなことを言った。
「や、焼き菓子?」
「はい。御前様とお話しているときに、お茶菓子によく手が伸びておりました」
と彼は少し頭を下げた。
「後で小間使いのものに届けさせます」
「そ、それはすまない。細やかなお気遣い、痛み入る」
見られていたのか、と彼は思わず恥ずかしくなったが、ラザロは彼の反応など気にも留めていない様子できびすをかえし、やがて去っていった。
(ああ、俺としたことが……。居候の癖に食い物にはいやしい奴だとでも思われたのだろうか)
この風体なのに甘い物に目がないなど指摘されるのは、さすがに恥ずかしい。
(しかし、どうもあの男、苦手だな……)
皮肉を言われた……というほどの悪意はなかった。だから、そういうわけでもないのかもしれないが、どうも一発一発の挙動言動が心に刺さる。
(いやしかし、部屋で待っていると、菓子を待っていたと思われても困る……。少し外出するか?)
さすがにまだ体力が回復していないので、外を散策するのは疲れる。とすれば、書斎が適当だろうか。
部屋に持ち込んで読む本を探すこともある。
ジャッキールは廊下にラザロがいないことを確認して、そっと書斎に出向いていった。
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