☆物憂げな春の日に
※本編より再録。
その日は、暖かな春風がゆるやかに吹いていた。
ああ、もう春になってしまったのだ。と、私は嘆息をついた。そう、もう春になってしまったのだ。いつの間にか、もうそれほど時が経ってしまった。
その時の流れの早さに、私は軽い絶望すら覚えていた。
その日、街は穏やかだった。ここしばらく、”小競り合い”があったもので、私自身も落ち着かなかったが、しばらくは、平穏が続きそうだ。といっても、その平穏は見せかけにすぎないだろうが。
しかし、珍しく私が外出して、バラズの屋敷を訪れたのは、その陽気と穏やかさに誘われてのことだった。春の到来に絶望しながら、私にもまだ春の到来を喜ぶ気持ちが残っていたということだろう。
バラズ殿は、年齢を理由に早々に宮仕えをやめてしまい、今は平穏な隠居暮らしをしている。彼は、
そして、もともと私の上司でもあった。人柄もよく、信頼のできる男でもあり、穏やかで思慮深い。困ったら相談においで、と優しくいわれてもいたし、今までも何度か相談にのってもらったことがあった。もちろん、将棋を指しながらであるが。
何よりも、彼とは話していて落ち着く。このところ、ずっととあることから気が滅入っていた私は、この物憂げな春に、幾分かの救いを求めて、彼の元を訪れたということだった。
その日も、私は、将棋を指南してもらうという口実のもと、彼の屋敷を訪れ、客間で盤をはさんで彼と差し向かいになっていた。きっと、彼は私がどんな気持ちで、この屋敷を訪れたか知るまい。私も、そのことを悟られないようにしているのだから。
「良い風だの、カッファ」
窓から入ってきた春風に、彼はそういってにっと笑った。
「ええ、まったく」
バラズは、白髪交じりの髭をちょいと人差し指でいじりながら、駒を弄んでいる。どちらかというと小柄な細い初老の彼を、見かけだけで侮ってはいけない。彼はそんな人のよさそうな微笑を浮かべながら、頭の中では先の先まで手を考えつくしている。
私とて、嗜み程度に勉強はしていたが、正面から彼に勝てるはずもなく、どちらかというと教えてもらうといったほうが近い。
「ほれ、そこが空いておる」
バラズが急に目を輝かせたと思うと、ふと指で盤を指し示し、そんなことを言う。
「ここにコイツを置くと、王手となる。まだまだ甘いな、カッファ。こういう場合はな……」
彼は講釈を一通り垂れては、にんまりと微笑む。
「ははは、カッファ、そんなことでは妓楼の女子にも勝てんぞ」
「ぎ、妓楼ですか?」
少しどきりとしたのは、私に後ろめたい気持ちがあったからだ。しかし、バラズは、そのことには触れずに明るく続けた。
「おお、勘違いされては困る。いい年をして遊びに行っているわけではないぞ」
バラズは、そう断りをいれた。
「あちらから乞われてな、週に一度ほど、将棋や書などを娘に教えているのだ。特に覚えがよいのが、ただの娼妓ではなくて、女神の加護をうけた乙女でな。少々愛想には欠けるが、器量もよいし、性格も素直な良い娘だ。わしがもう少し若かったら、くどきにかかるところだが、今はただの家庭教師といったところだ。しかし、いつの間にか自分の娘のように思えて、本当にかわいらしい娘だ」
乙女と呼ばれる娘達のことは、私も一応きいている。我が国でも強く信仰を集めている豊穣の女神は、彼女ら遊び女の神でもある。特にこの国の由緒正しい娼館は、その女神の神殿で教練を受けた美しい妓女を一人以上侍らせておくのが通例となっていた。彼女達は、女神の巫女として儀式の進行を仕切ることもあり、並ならぬ教養を身につけていた。彼女達は、通常の娼婦と違い、そこにいながら、厳密には春を売ることを生業とするわけではないらしい。
「その娘も、数日後の、春の祭りで巡礼にいってしまうというのだから、寂しいものだよ。あれに行ってしまうと、一ヶ月ほど彼女に会えない。年甲斐もなく、気が滅入ってしまうよ」
そういってバラズは、ふとため息をつき、そして、私の方をじっと見た。
「そういえば、おぬしも不景気な顔をしているな? 何か心配事でもあるのかな?」
「あ、い、いえ、別に」
バラズは、王の駒を弄びつつ、ふと、思いついたように眉根を寄せた。
「そういえば、おぬしがお世話をしているシャルル=ダ・フール殿下がご病気とか噂できいたぞ? 随分重いのかの?」
「あ、ああ、まあ、その」
私は、言葉を濁した。
「命に関わるものではございませんが、長い遠征のお疲れが出ましてな。鎧兜一式を神殿に奉納いたしまして、快癒を祈っているところです」
「それは気の毒な。随分激しい戦いであったと聞いている。早く回復されるとよいのだが」
「ええ」
私はため息をつきながら、殿下のことに思いを馳せた。
そう、本来は喜ぶべき春の到来を、こんなにも絶望的に思わせているのは、全て殿下のことがあるからだった。
今、この国は、非常に不安定な状態におかれていた。
先の王、セジェシス陛下の失踪されたことが、この国にとって大きな混乱を招く原因となっていたのだ。
陛下は、世間的には崩御されたとされているが、実際は失踪である。セジェシス陛下は、親征中にふらりといなくなってしまった。戦場でいなくなったのだから、死んだと考えるのが通常だが、私はあのお方の気質を良く知っているから、多分失踪で間違いないのだと考えている。
もともと、セジェシス陛下は、王になるにはあまりにも自由なお方だった。二十年近く宰相ハビアスにより玉座に縛り付けられていたあのお方が、自由を求めてはばたいてしまうのは、仕方のないことだったとすら思える。よく我慢したほうだ。
そもそも、一部隊の隊長を務めていた彼を見出したのは、あの宰相ハビアスだった。ハビアスは、前王朝に重臣として仕えていたが、その時の王朝は腐敗しきっていた。内乱もあちらこちらで起きていたし、王は酒色に溺れて政治を省みなかった。
だが、ハビアスは、あくまで権謀術数に優れた参謀であり、裏で糸を引くことしかできない男でもあった。自分が表舞台に立つ器にないことは、重々理解していたということのようだ。
そんなハビアスが、見出したのが、セジェシス陛下だった。ハビアスは、セジェシスの人柄に心酔し、そして、この男は使えると見たらしかった。そうして、ハビアス主導の下、陛下による王権の簒奪が行われた。
一応、その経緯は比較的平和的に行われた。その代わり、セジェシス陛下は、王族や時の豪族の娘達との結婚を余儀なくされたし、前王朝の王族達を外戚や養子として迎える必要もあった。
そうして、本来どこの出身なのかわからない、身寄りもいなかったセジェシス陛下には、たくさんの家族ができたということだった。
そんな彼が、突然、失踪した。しかも、まだ若かった為に、陛下は後継者の指名を行っていなかった。なにせ、陛下は正妻すら、決めていなかったのだ。
次期国王をどうするか、で、重臣たちは荒れに荒れ、王妃達は、自分こそが正室だと言い張った。
結局、ハビアスを中心に、陛下がいたころ、暫定的に振られた王位継承順位の通り、貞淑でセジェシス陛下がもっとも正室のように扱っていた王妃の息子で、陛下にとっては次男にあたるラハッド王子を国王とすることで内定した。
だが、ここで思わぬことに、ラハッド王子が暗殺されてしまったのだった。
ここにおいて、王位をめぐっての闘争は、泥沼の様相を呈していた。
そして、その闘争に私自身も巻き込まれることになった。
私が、セジェシス陛下の長子である、シャルル=ダ・フール王子の後見人を勤めていたからだ。
シャルル=ダ・フール殿下は、セジェシス陛下が、まだ王になる前に、サーラという女性との間に生まれた王子だった。サーラ様は、とても冷静で賢い女性だった。そして、切れ長の三白眼が印象的な美女でもあった。だが、彼女は、その聡明さゆえにハビアスから疎まれることになった。二人は、結局、彼によって引き裂かれた。
陛下は、サーラさまのことを深く愛していらっしゃったが、自分を王へとのし上げてくれるハビアスの言葉をむげにすることもできなかった。その後、サーラ様は身篭っていた子ともども行方不明になった。
陛下は国王になった後、ひっそりとサーラ様と子供の行方を捜させた。サーラ様は見つからなかったが、子供は、街の路地裏で物乞いをしているところを保護された。
それがシャルル=ダ・フール殿下。
もちろん、彼の出自を疑う声がなかったわけではない。疑っても当然だろう。殿下は、身分の証明になるものをほとんどもっていなかったし、第一、仮にも王子である彼が、街中で他人から恵みをうけて生き延びていたなど、褒められたことでもなかった。だが、この一件については、ほかならぬ父であるセジェシス陛下が認知されたので、仕方なくみなは引き下がった。しかし、そのような経緯と母の身分の低さゆえ、殿下は王位継承争いから外されていた。
理不尽なことではあるが、それで、彼の身は安泰となるはずだった。
しかし、仮にも彼は長子であり、陛下がサーラ様を愛していたことは、他の王妃にも伝わっていた。厳密には、陛下の最愛の女性は、ずっとサーラ様だった。そのことが周囲の王妃の嫉妬心を買ったのは、想像に難くない。
殿下は、あまり父王に似ていらっしゃらなかった。似ているのは、癖の強い髪の毛と背が高いことぐらいで、三白眼の目などはむしろ母のサーラ様に似ていた。しかし、人格は、お子様のうちで、もっとも父王に似ており、そのことは陛下自身も認めるほどだった。そして、セジェシス陛下は、常々、自分がいなくなった後は、あいつでないと治まらないだろう、と口癖のように周囲に漏らしていた。
それらが特に王妃の一人であるサッピア王妃の嫉妬心を買い、何度も暗殺されそうになったことと、母に似た外見がハビアスに疎まれたことがあり、結局のところ、殿下は幼少期の多くを私と共に外征地で過ごした。
殿下の窮状をひそやかに懸念した陛下は、殿下に師をつけられ、殿下に剣を覚えさせ、生き延びる方法を覚えさせた。
殿下自身も、元々たくましい子供ではあったので、その辺の対策を自分でするようになった。
たとえば、殿下は、宮殿にいるときから、仮面をつけているか、兜をかぶっていることが多かった。殿下は、幼いころから将軍の扱いだったので、兜をかぶることは許されていたが、仮面や布で顔をおおい隠すのは、本来なら許されないことではあった。
しかし、顔に醜い傷があるとか、毒を飲まされたせいで人に見せられない顔になったとか、いろんな噂が出回っていたこともあり、特例としてそれが許されるようにもっていったのは、殿下自身があちらこちらでそう吹聴したからである。
敵の多い王宮で生き延びる為に、殿下は、陽光の元に姿を晒さないという選択を取った。それは、市井で育った殿下が、宮殿を窮屈に考えている証拠でもあった。
ともあれ、殿下は王族として存在を示している時に、素顔をさらすことは殆どなかった。そのため、殿下の顔を知らないものも多くいる。
少年から青年へと育った殿下は、よき将軍でもあった。青い武具を身に纏い、前線で指揮をするときにですら、彼は名も身分も明かさなかったが、それでも、殿下は前線の将兵の精神的支柱になっていた。
国境を脅かしている隣国リオルダーナへの遠征で、殿下が果たした役割は大きく、殿下が将軍たちの絶大な支持を得たのもそこでのことだ。
しかし、セジェシス陛下が失踪したことにより、東の戦争は終結した。殿下も東征から解放された。そのことは、本来喜ぶべきことだったのだが――。
バラズと将棋をさしながら、私はそんなことを考えていた。バラズには、私が雑念をもってここに現れたことは、気づかれているだろう。
だが、それを指摘せずに、優しく私の相手をしてくれる彼には感謝している。
春の気配。ああ、もうそれほどに時間が経ってしまったのか。
あの優しく明るい殿下が、心を閉ざしてしまってから、いったい何ヶ月経ってしまったのだろう。
ああなるまでに、どうして私は何の手立ても打てなかったのだろうか。
殿下の様子がおかしくなったのは、東征も後半に入ってからだった。
遠征中に、戦場で矢で射抜かれたのが、原因のひとつではあった。
それは間違いない。
しかし、殿下は瀕死の重傷を負いながら奇跡的に回復し、東征を続けた。そのことで、士気が高まったのも事実である。その結果、リオルダーナの王を自決に追い込み、我が軍が優勢なまま戦争は終結した。
しかし、そのかげで殿下は、傷の痛みを誤魔化すために、殿下は鎮痛剤と酒に頼っていた。しかも、ひっそりと周囲にそのことがわからぬようにだ。
そして、そのことは、彼の持つ不安を増幅させてしまったように思う。
殿下は、セジェシス陛下とあまりにも性格が似ていた。殿下は、生まれながらにして、父君の影を背負う宿命を持っていた。傍で仕える私ですら、その父の影を彼に見てしまう。それがいけないのはわかっているのに。
そして、殿下自身も、激しくなる戦闘の中、自分が彼らの精神的な支えであることに気づき始めていた。みなの期待にこたえようとする気持ちが、殿下の中で少しずつ負担になっていった。
ああ見えて、殿下は非常に繊細なお方だ。他人に辛い気持ちを相談するようなことはせず、一人で抱え込みがちなことは、よくわかっていたはずだった。特に、私には隠そうとしているようですらあった。それも知っていたはずだったが、私は、殿下のことをよく知っているつもりだったというのに、殿下の巧妙な演技で、そのことに気づかなかった。
知らないうちに酒の量が増え、殿下は酒に溺れるようになった。酒や薬は、仲良くしていた少女に調達させていたようだ。自分の弱い部分をさらけ出したということは、殿下はその少女を信頼していたのだろう。
或いは、――恋をしてしまったのだろうとも思う。
しかし、その娘は、崩壊寸前でどうにか均衡を保っているような、危うい状態の殿下を受け入れることはできなかった。身近で接していた彼女には、殿下の隠された凶暴性が見えてしまったのだろうか。
殿下は、いつもどおり、彼女にそばにきて話をするように言ったそうだ。
殿下は、その時酔ってはいたが、彼女に対しては紳士的な態度を取っていたらしい。ただ、一人でいると寂しくなるから、傍に来て一緒に話をしてくれないかと、ただそう頼んだらしい。
それを、彼女は拒否してしまった。
曰く、お前様が怖ろしい。気持ちが悪い。傍にいるのが怖い。
そういって、娘は殿下の前から逃亡した。
殿下の壊れかけていた心は、それでぷっつりと引き裂かれてしまった。
その後、彼は暴君と化した。権力を振りかざし、暴力で周囲を支配し、気に入らないことがあると喚き散らした。
彼は、王子として、そして将軍としての自分の権力をあるいは甘く見ていた。自分がそうなっても誰かが止められるだろうと思っていたのだろう。
だが、誰も止めることができなかった。この東征中に殿下の立場は強くなっていた。それゆえに、誰も彼をとめることはできなかった。
あまりにも目に余る振る舞いに、私はあるとき殿下を殴ろうとした。
しかし、殿下は、にやりと笑っていった。
「カッファ、俺を殴るのか?」
「ええ、これ以上の傍若無人な振る舞いは許せません」
「へえ、それじゃあ、殴ってみろよ? 殴れるのか、カッファ」
いきなり何を言い出すのかと思った私に、彼はこう続けた。
「アンタの主君であるセジェシス王の息子のこの俺を?」
私は思わずはっとして、振り上げた手を止めた。その時、殿下が、あきらめたような、寂しげな表情をしたことを覚えている。
そのときの殿下の目は、今でも忘れられない。殿下の目は、かすかに潤んで、そして怒りに震えていた。
「できないんだろう? やっぱり、そうだよな!」
そういって、殿下は、突然感情を高ぶらせた。
「アンタは、いつだって俺の中にオヤジを見ている! アンタが仕えているのは、俺じゃなくてオヤジなんだ! オヤジの臣下のアンタに、俺は殴れないんだろう! 俺を息子同然に思っているなら、殴れるはずなんだからな!」
殿下はそういって、私の前から走り去った。今思えば、そのときの殿下は、泣いていたのかもしれない。私は、彼を追いかけることもできなかった。
私は、殿下が幼いころからお仕えしてきた。母親のいない殿下は、私の妻を母上と呼び、私を実の父のように慕ってくれた。私と妻の間に男児はおらず、時に殿下が自分の息子のように思えることもあった。
だが、その感情が罪であることも自覚している。私は、私が忠誠を誓ったセジェシス陛下のお子様を、あくまでお預かりしているだけなのだと。特に見つかる余地のない母とはちがい、父である陛下はご存命だ。だから、妻と違い、あくまで私は、殿下との関係に線を引いてしまっていた。
しかし、父と疎遠な殿下が、私に父親を求めているのも知っていた。ただ、私はそれに応じることができなかっただけだ。
それを思い知らされて、私は、殿下の所業を止めることすらできなくなってしまった。
その一件から、殿下も、私と距離を置くようになっていた。
そんな中、王都に戻ってきた私達を待っていたのは、ラハッド王子の毒殺事件だった。殿下は私の前では何も言わなかったが、実際は相当取り乱していたそうだ。
それっきり、殿下は、毒見をしてもらわなければ、食事がまともにできなくなった。
もともと、幾度となく毒を飲まされた事のある彼だ。いつそのような状態になっても、本当はおかしくなかったのだ。
殿下は宮殿にいるのを嫌い、安全な場所と、遊ぶ女が欲しいといい、楼閣を借り上げさせた。そして、そこにいついて宮殿に戻らなくなった。外には殿下は病気で伏せっていると伝えさせていた。
私は、そんな彼に何をしてやることもできなかった。ただ、安全な場所を金で買い、殿下が快適な生活をするように取り計らうことができただけだった。殿下に忠実な部下をつけ、そして、時折報告させることぐらいしかできない。
殿下は、私が妓楼にやってくることを好まなかった。彼の不興が怖ろしかったわけではないが、殿下は私や私の妻がやってくるなら死ぬと周囲に吹聴していた。もちろん、それが私の耳に入ることを知っていてだ。
その言葉には、ある程度信憑性があった。そのころの殿下は、精神的に不安定で、実際に何をしでかすかわからなかった。
最初は、少し遊ばせていればすぐにもとの優しい殿下に戻ってくれると思っていた。いい加減なところはあるが、優しく陽気な殿下に。少し気が立っているだけだ。
遠征中に、父王が失踪し、弟君が毒殺され、自分も継母から命を狙われている。正気でいられるほうがおかしい。気が晴れれば、きっと元に戻ってくれる。だから、少し羽目を外すぐらい、認めてやろうではないかと。
しかし、殿下の病は、私が思っているより根深いものだった。
ある時、殿下が暴れていると部下から報告を受けて、慌てて私は妓楼にかけつけた。
そもそも、殿下は、戦闘能力が高かったから、暴れだすと誰も手がつけられないのだ。部下には手向かいしないように伝えてはあるが、それでも、何かあるたびに殴られる彼らも大変だった。
既に部下たちは、遠巻きに殿下を眺めることにして、彼が落ち着くのを待っているようだった。その部屋には、殿下の罵声に怯えて泣き出すむすめたちもいた。
ただ、殿下は、娘達には暴力を振るうことは過去から今までないらしく、それだけは私にとっては救いだった。
部屋からはもう物音は聞こえなかった。気持ちがおさまっているのかもしれない。そう考えて、私が殿下の部屋に行こうとすると、一人の娘が私を止めた。それはその妓楼の乙女だった。
「だんな様が行くと、かえって殿様の気分を高揚させてしまうかもしれません。私が参りましょう。ご心配でしょうから、後ろからそっとお部屋を覗いておられるとよいでしょう」
なるほど、乙女になれるのは、素質のある娘だけだという。教養や作法を学ばせて、選ばれたものだけが、妓楼に戻されるのだと。その娘も随分と若かったが、しっかりとしていて度胸も据わっていた。
私はその娘の言うとおりにすることにした。
娘が、殿下の部屋に入った背後から、私はそっと部屋の中を覗きこんだ。
日光を意図的にほとんど入れていない、暗い部屋。
絨毯の上に、皿や料理、調度品の破片が散乱した中で、殿下はごろりと寝転んで煙草をふかしていた。
(これが、殿下か?)
私は目を疑った。それは、以前の殿下とは、まるで違っていたからだ。
殿下は、――派手な赤い服をだらしなく身につけ、はだけた胸に金銀の首飾りをきらめかせていた。
あまりきちんと食事をしていないのか、元から痩せていたのに、明らかに私が知っている彼よりもやつれていて、本当に病気でもしているのでないかと心配になるほどだった。仮面をつけていてはっきりとはわからないが、痩せて落ち窪んだようになった殿下の目だけが、ギラギラと輝いて、窓の外を睨みつけるように見つめている。
私は、愕然としていた。
殿下は、妓楼で好き放題遊んでいると聞いていた。娘達を呼んで派手に遊び、文字通りの酒池肉林の生活を送っていると聞いていた。けれど、これはどういうことだろう。殿下は、ちっとも幸せにも、楽しそうにも、見えなかったのだ。
周囲から怖がられ、自ら周りを遠ざけて、たった一人で暗い部屋に閉じこもっている。それが、今の殿下の姿なのだと、その時私は初めて知った。
「殿様。入りますよ」
そういって、娘は、殿下を恐れずに部屋に入った。
殿下は、彼女に気づいて、面倒そうにぼそりと言った。
「なんだ、お前か」
「なんだなんて酷いですわ。私を呼んでいただければ、いつでもお暇つぶしの歌でも歌ってあげましたのに」
そういって、娘はくすりと笑う。
「今日はご機嫌がよくないみたいですね」
ふっと殿下は、鼻で笑った。
「そうだろうよ」
殿下は、身を起こした。
「今日のお料理がお口に合わなかったのですか?」
そうきかれて、殿下は目を伏せた。
「……昔から、宮廷風の料理はニガテなんだよ」
殿下は、ぶっきらぼうにそういってため息をついた。
「あら、そうでしたの。今度から別のお料理にするように伝えておきますわ」
娘はそういって、しかし、少しためらってから優しくたずねた。
「お料理を見て、亡くなられた弟君さまのことを思い出されたの?」
ぴく、と殿下は、顔をあげた。ああ、そうか。ラハッド王子は、食事か酒に毒を盛られたと聞いている。豪華な宮廷で出されていた料理は、それを殿下に想起させてしまったのだろうか。
殿下は、娘を見上げたまま、苦く笑った。
「さあ、アイツが本当は何の毒で死んだのか、わからねえんだよ。でも、同じようなメシ食って、俺が死なねえのに、なんで同じようなメシでアイツが死んじまうんだろうな。そう考えたら、何かといらついた。……こんなこと言わせんなよ」
「そうですの。ごめんなさいね」
殿下は、ため息をついて娘から目を離した。
「お前は怖いもの知らずだな。俺に声をかけてくるなんて」
「ええ、よく言われますわ。空気を読まない女だってね」
娘はそういって微笑む。
「そうか。お前のそういうところは嫌いじゃない」
殿下のその言葉には、以前の優しい彼の片鱗がのぞいていた。
「……でも、今は、俺を一人にしておいてくれ。下がっていい」
娘は、何かいいたそうにしていたが、やがて残念そうな表情で部屋から出てきた。それでも、彼女はそっと私に微笑んで、もうお気持ちは落ち着かれたようです。ご心配いりません。と告げた。私は、彼女のあとについて、殿下に見つからないうちに部屋を後にした。
そっと振り返ると、殿下は、こちらに背を向けて、再び窓の外を睨みつけていた。
あんな暗く閉ざされた部屋で、殿下は、一体、毎日、何を考えて過ごしているのだろうか――。
いつのまにか、季節は、春になっていた。
殿下が閉じこもってしまってから、もう随分経っている。しかし、私も、殿下自身も、まだこの問題の解決方法がつかめずにいた。
それどころか、事態は悪化している。
とうとう、宰相ハビアスの耳に殿下の乱心のことが入ったのだ。
ハビアスは、私の師でもある。私が、文官としてここまで出世できたのも、師であるハビアスが私を評価してくれたからだ。だが、それは、彼が私の能力を純粋に評価したからでないことも、弟子として私は良く知っている。
彼は、頭のいい男であるが、それだけに自分よりも聡明なものを嫌う。ハビアスが私を重用したのは、私が嘘をつかないことを知っているからであり、さらに、私の能力が彼より劣っていることが明らかである為だ。
そんなハビアスが、自ら疎んじた母に似たシャルル=ダ・フール殿下に、常々複雑な思いを抱いているのを知っている。父王に良く似たあの性格に惹きつけられながら、勘が鋭く、自らの計略すら見破る可能性のある殿下に対して警戒を抱いている。それが証拠に、ハビアス自身は、殿下を自分から遠ざけようとしてきた。
そんな殿下の乱行をあの男が知った。
実は私は、既にハビアスからは、あまりに乱行がすぎるようなら、殿下を殺せと言い含められている。彼が本物の暴君となる前に殺さなければ、大変なことになるといわれている。
もちろん、私に、そんなことができるはずもない。しかし、私が動かなければ、いずれハビアスが刺客を放つに違いない。今の殿下なら、間違いなく殺されるだろう。
そんなことになるのだとしたら、いっそのこと、私の手で――。私の手で殿下を殺し、そして私も――。
「カッファ。いかんな」
不意にバラズに声をかけられて、私はドキリとした。
いつの間にか、盤の上ではバラズの王手が成立していた。バラズは、にこりとする。
「そんな、自分の首を絞めるような打ち方をしてはいかんな。誰の得にもならんよ」
「は、はい」
バラズは、将棋の話をしているのだろうか。それとも、いつの間にか、私の心を読み取られたのだろうか。好々爺然とした彼の表情からは、一向にわかりそうもない。
「まあ、お前も気苦労が多いのだろう。そうそう、わしが将棋を教えている乙女に影響されたわけではないが、星の女神の神殿にでも行ってきたらどうかな? お前は固い頭をしとるから、遊女を加護する女神と思っているかもしれないが、それだけの女神様ではないのだぞ。第一、お前ところのシャルル殿下の青の旗も、あの女神からとっているのだろうが」
「は、はあ、いえ、そういうわけでは」
バラズは、にこりとした。
「春は、彼女の季節だ。随分と世情が荒れているが、今年こそよい春になるといいのう」
バラズは、そういって窓の外を見た。
バラズの言うとおり、今年の春こそよい春になってくれないかと、私は願うばかりだった。
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