第2話(2/2)「いつでも前向き小川ちゃん。」

 ワタシの家は、どこにでもあるような割と普通の家庭ではあるけど、飾らないで、直球ど真ん中ストレートに表現してしまえば……『お金持ち』だ。


 だからと言って札束で扇いだり、お札のお風呂に飛び込んだり、ピカピカのアクセサリージャラジャラ付けて高笑いとか、そういったこととは無縁である。


 最初にも言った通り、お金がたくさんあるだけで、ワタシの家は『割と』普通の家庭だ。


 お父さんはサラリーマンで、仕事終わりのビールを毎日美味しそうに飲んでいるし、お母さんはタイムセールに飛びつくオオカミで、食事の席ではその武勇伝がよく語られる。話によるとライバルなんかもいるらしい。


 お金持ちではあるけど、そのお金を大切に、地道に切り崩して日々を過ごしているわけだ。ネタバレしてしまえば、競馬で大当たりした賞金でお金持ちになっただけだから、裕福な家庭というわけではない、というわけ。


 そして、割と、を強調していることからわかる通り、普通ではない部分が我が家にはある。


 それは、お父さんがいわゆる不幸体質であり、娘であるワタシがしっかりとそれを受け継いでしまっている、ということ。

 なんだったら、不幸の威力は増しているくらいだと思う。それでも毎日を楽しく生きていけるのは、ひとえに両親のサポートあってのおかげだから、とっても感謝してる。


しずくー! 朝よー起きてきなさーい!』


 というお母さんの呼び声で目が覚めた。


 身をゆっくりと起こして、ぽあぽあする感覚をしばし堪能。また眠気がやってきて負けそうになった絶妙なタイミングで再びお母さんの声が一階から響いてくる。


『雫ー? 起きてるー?』


「……ん~、おきた~」


 お母さんに聞こえるようにそこそこな声を出して返事。ワタシの声は聞こえたみたいで、それっきり呼び声はなくなった。


「やっぱり今日も全滅か……」


 ワタシの周りに置いてあるものを見て呟く。


 そこにはいろんな種類の目覚まし時計が数個。よくあるベルの時計にデジタル時計に腕時計。とにかく豊富に取り揃えてある。


 一つ目は完全に沈黙。たぶん電池切れかな? 二つ目は一見動いているように見えて同じところを行ったり来たり。針が進んでないから、歯車がどこかおかしくなっているみたい。三つ目のデジタル時計は原因不明のエラー表示。たいようフレアとかそういうのかな?? 四つ目は時間が狂ってて朝なのにお昼になってるし、五つ目に関してはそもそも設定するの忘れてた。


 最後の要、スマホのアラームも、


「断線してる……?」


 充電できていないことに気が付かなくてそのまま寝ちゃって、寝てる間にバッテリー切れ。根元辺りの首の座りが悪いから、たぶん断線で合ってると思う。そんな雑に扱ってるつもりはないんだけどな。

 これも何十本目かわからないから、すっかり慣れっこだけど。


 ワタシはコードを持って引っこ抜いてスマホを学生カバンに突っ込んでから、制服に着替えた。


 一階に降りると、お母さんが朝食の準備をしてくれていた。いつものメニューで、シュガートーストと甘くないココア。この匂いを嗅ぐと、朝がやってきたんだなっていつも思う。


「おはよ~お母さん」


「おはよう。今朝もダメだった?」


「うん~。お母さんが起こしてくれなかったら寝坊してるところだよ~。ありがとね~!」


「どういたしまして。あんたはホントお父さんの子だね」


「あはは……」


 お父さんは朝早くからお仕事か、半休とやらでお昼頃まで寝ているかのどっちか。今朝は朝早くから仕事に行ったみたいだけど、『お父さんの子』っていうのは、お父さんもワタシと同じ状況だったってこと。


 血は争えないってやつかな。


 苦笑いを浮かべながら、朝食の席に着く。

 トーストのパン屑がなるべく溢れないように気を使いながら食べていると、お母さんが唐突にこんなことを聞いてきた。


「雫、学校は楽しい?」


「……ん。楽しいよ~!」


 ココアで流し込んでから、素直に答えた。


 中学の頃は不幸こんなだからあんまりな学校生活だったけど、いまは学校に行くのが楽しくて仕方がない。


 だって――


「好きな人でもできた?」


「え!? なんでわかったの~!?」


「そりゃあ母親ですもの。見てればわかるわ」


 何を驚くことがあるのか、とでも言いたげな、済まし切った表情だった。


 母親という生き物はエスパーである可能性をここに提示したい。昔から隠し事のことごとくを見抜かれて、いつからかお母さんには隠すこと自体を諦めたくらいだもん。


 だから、ここでも正直に喋る。


「王子様なんだ。ワタシの王子様」


「へぇ?」


 興味津々に耳を傾けるお母さん。こういう話を身内にするのはちょっと恥ずかしいけれど、お母さんなら茶化さずに聞いてくれる。


「ワタシのこと、いつも守ってくれるの」


「ふーん、優しいんだ?」


「ううん、全然優しくない。普通にぶつし、お説教するし、イジワルだもん」


「でも好きなんでしょう?」


「うん」


 ぶつけど痛くないし、おっきい手は頼もしい。お説教は耳が痛いけど、低い声が心地いい。イジワルだけど、ワタシに構ってくれるのがたまらなく嬉しい。


「……お母さんの子ね」


「そうだよ。なに言ってるの~?」


 微笑みながらお母さんは当たり前のことを呟いた。これでワタシがお母さんの娘じゃなかったら本当の母親は誰なのさ? って昼ドラみたいな展開になっちゃう。


 昼ドラ観たことないからわかんないけど。


 テレビにはいつも確認してる早朝の占い番組が放送されている。今日の運勢は見事1位。きっといいことがあるに違いない。


 時間の表示は6時を過ぎたところ。


「もう行かないと~」


「そうね。無駄だと思うけど、気を付けて行ってらっしゃい」


 トーストの残りを口に詰め込んでからココアも飲み切って、玄関に向かう。


「お母さんは今日も特売せんそう?」


「ええ。晩御飯せんりひんをお楽しみに!」


 片目をつぶって送り出してくれるお母さん。


「わかった、行ってきま~す!」


 ワタシは学校に向かって駆け出した。


 早く会いたいな、ワタシの王子様。


 そう思うだけで、体が羽根のように軽くなったみたい!


「雫ー! カバン忘れてるわよー!」


「あっ……」


 背後からかけられるお母さんのよく通る大声。


 ……この忘れっぽいのは、どっちに似たんだろうか……?




 ――――




 手のかかる最愛の娘を送り出して。


「あら? ああもうあの人ったら、名刺ケース忘れてるじゃない! 取引先で恥かいちゃうじゃないの――って、あの子も体操服忘れてる! 学校で着替えられないじゃないの! どうせ着替えることになるのに!」


 両方とも届けるとして、まずは主な収入源である夫の名刺ケースを最優先に届けて、それから学校へ。


 となるとタイムセールに間に合わないかもしれないと頭を悩ませる。


「いや、行ける! 母を舐めるんじゃないわよー!」


 タイムセールの大波に揉まれて鍛えられた精神力は伊達じゃない。


 このあと、『母は強し』という言葉を見事体現してみせるのだった。




 ――――




 朝6時ごろと言えば、たぶん早起きな人の平均起床時間かなって思う。そんな早い時間に、ワタシは家を出た。


 理由はもちろん、学校までの移動に時間がかかってしまうから。


 普通にまっすぐ行ければ30分とかからずにたどり着けるはずの道のりを、ワタシが歩くとなぜか2時間くらいかかっちゃうのだ。それを見越して、いつもこれくらいに家を出るわけ。


 坂道を超えて、住宅街を抜けて、橋を渡って、少し歩けば学校ゴール。なのでまずは坂道を超えるところから。


 ――にゃーん。


「……ねこ?」


 坂道を歩いていると、か細い子猫の鳴き声が急に聞こえてきた。首を傾げつつも辺りをうかがってみると、階段状になった塀の上に黒い子猫がプルプルと震えて丸まっていた。


 これはこれは……なんて可愛い子猫でしょう!


「でもワタシは知っている! 黒猫は不幸の象徴であることを~!」


 ズビシッと指差しながらワタシはドヤ顔を決め込んだ。


 黒猫が目の前を横切ると不幸なことが起こるとかなんとか、そういう話は有名だよね。でもこの場合はワタシが横切る立場だから関係ないし、それどころか、


「むしろワタシのほうが不幸レベル高いから! 逆にそっちが不幸な目に遭わないように気を付けることだね~! ハァ~ッハッハ~!」


 早朝、ひとりで子猫相手に得意げに高笑いするJKがいた。ワタシだった。


「って、こんなことしてるから時間かかっちゃうんだった。はんせいはんせい」


 てへぺろ。


 ……これもひとりでやるには虚しいので先を急ごう。誰もいない早朝でよかった。


 子猫ちゃんの目の前を通り過ぎて、学校への道のりを進む。


 ――にゃーん。


「…………」


 背後から聞こえてくるもの悲しい鳴き声。いや、もはや泣き声。


 つい振り返ってしまうと、ウルウルとしたまんまるなお目めがワタシのことを見ている。めっちゃ見ている。見つめられている。


〝え、行っちゃうの……? 塀から降りられないか弱い子猫を置いて行っちゃうの……?〟


 あの子猫、ワタシの脳内に直接……?!


 っていうのは冗談で、もちろんワタシの想像が生み出した子猫の気持ちに他ならないけど、あの瞳はそう語っているとしか思えないほどに哀愁が漂っていた。


 ――にゃぁん。


 そこに助けを乞うような鳴き声を出されてしまっては、ワタシの中に眠る良心が黙ってはいなかった。


 そのときだ。神のいたずらとでも言うべきタイミングで強風が吹き荒れ、塀の淵で身を乗り出すようにしていた子猫の背中を押したのは。


 結果は言わずもがな、子猫はバランスを崩し、2メートル近い高さから真っ逆さまに転落する。


「とお~!」


 ワタシは迷わず腕を伸ばして飛び込んだ。ヘッドスライディングというやつ。


 地面はアスファルトで、人間でも落ち方が悪ければ大怪我をする高さ。大人の猫ならまだしも、子猫だとどうなるかわからない。


「ぐえ」


 お腹から落ちて潰れたカエルのような声が出てしまった。


 限界まで伸ばしたワタシの手は子猫まで届かず、小さな体は地面に叩きつけ――


「……まぢか」


 られなかった。


 空中で素早く身をひねり、すちゃっと見事にワタシの目の前で着地してみせたのだ。

 心なしか、こちらを見る目が哀れんでいるような。どころか鼻で笑われているような気さえした。


 子猫でも、猫は猫。

 高さ的に登るのは難しくとも、降りられない高さではなかったみたい。


「ならよかった」


 ワタシは逃げるように去って行く黒い子猫の尻尾を見つめて、安堵の吐息が漏れた。


 立ち上がって、汚れを両手で叩いて落としていると、ふと思う。


 何か足りないような。


「あ! か、カバン~!」


 ヘッドスライディングを決めたとき、勢い余って放り投げてしまったらしい。しかもファスナーを閉め忘れてて、中身が盛大にぶちまけられている。おまけにここは坂なので、物によっては遠くまで滑り落ちてしまっていた。


 早速やらかしてしまった。家を出て数分でコレだ。


「うわ~ん、教科書グショグショ~……」


 昨日降った雨がまだ乾ききってなくて、湿った植え込みに教科書が滑り込んでしまった。頭を突っ込んで手繰り寄せるも、濡れてふにゃふにゃ、土でどろどろ。こんな教科書開いて授業受けたら先生に怒られちゃうかも。


 中央最前列だから、真っ先に気づかれちゃうだろうし……。


「いや待って? 植木に教科書借りれるじゃん!」


 そうすれば授業中でも物理的な距離が縮まるのでは?! 果てには心の距離まで急接近してしまうのでは?!


「ぐふふふふ……」


 そうと決まればこんな不幸、なんてことない。怪我の功名とかなんとか言うやつだ。


「あ、これも忘れてた。あぶないあぶない」


 カバンのサイドポケットの中にはモバイルバッテリーが入っている。これは飛び出さなかったみたい。死んでいるスマホを接続して、充電開始。バッテリーはお母さんがいつも用意してくれているから、持ってくるのを忘れることはない。


 今みたいに充電自体を忘れていたり、カバンを忘れたらアウトだけど。ワタシならやりかねないし。


「思ったより時間かかっちゃった」


 こともあろうに筆箱の中身までぶちまけられ、シャーペンやら消しゴムやら、細々としたものまで回収する羽目に。シャー芯とか消しゴムとか、すぐ折れちゃうからってたくさん予備を用意しておいたのが間違いだった……。


「でもまだ時間的には余裕あるし、だいじょぶでしょ~」


 通学路はまだ序盤。充分に取り返せる余地はある。


 散らばった持ち物を(たぶん)全て拾い集め、ワタシは改めて坂を登り始めた。


 物が転がり落ちたせいでさっきより下からのスタート。


「いい運動になるね~! スタイルの維持には大切だよね!」


 早寝早起きと適度な運動は健康にもいいし、三文もトクをするらしい。


 三文って言うのが何を指しているのかはサッパリだけど、『トク』に過剰に反応してしまうのは、きっと両親の影響。

 『得』ならお買い得大好きなお母さんだし、『徳』なら少しでも徳を積んでおきたいお父さん。


 あるいは両方だからこそ、過剰に反応してしまうのかも?


 なんてことを考えながら歩いていたら坂道はクリア。続いて住宅街を抜けるわけだけど、分かれ道で立ち止まる。


「途中で何があるかわからないし、近道使っておいたほうがいいよね」


 ちょっとでも時間は稼いでおくに越したことはない。さっきみたいな不幸な出来事が起こるとわかっているのなら、時間の短縮は積極的にしたほうがいい。じゃないとホントに遅刻しちゃうかもだし。


「よし、ならこっちだ~」


 少し遠回りだけどわかりやすい道より、次の目的地である橋を一直線に目指す最短ルートを選択。


 ちょっと入り組んでるけど、何度も迷子になったおかげで道は把握してる。


 放課後、何回もさまよった甲斐があると言うものだ。その度にお母さんが迎えに来てくれたのには申し訳ないけど。

 今こそその経験を生かすとき!


「――で、見事迷子になりましたとさ。てへべろ☆」


 …………。


 やっちゃったやっちゃったやっちゃった?! ど~しよう?!

 ちゃんと橋のある方角を意識しながら歩いたはずなのに、何度も行き止まりに当たって引き返したせいでよくわかんなくなっちゃったよ~!


 最初は見覚えのある景色が続いてたから安心してたのに~! 行きと帰りでこんなにも景色が違って見えるなんて知らなかった!


「はっ?! 地図発見! 助かった~!」


 周辺の地図が描かれた看板が立っているのを見つけて駆け寄るも、ワタシは大きく首を傾げてしまった。


「えっと、現在地がここで……北ってどっちだ??」


 住宅街なだけあってブロックが積み重なったような地図に目がチカチカとしてくる。

 赤い矢印が北なのはわかるんだけど。


「う~ん……サッパリだ!」


 早々に諦めた。地図って全然優しくないよね。見方がこれっぽっちもわからないや。これでわかる人の思考回路がわからない。

 ここはお母さんに連絡を……いや、さすがにそれはマズイよね。放課後ならまだしもまだ朝は始まったばかり。いきなりお母さんに迷惑をかけるわけには……。


「んあ~! ど~すれば!」


 ――にゃ~ん。


 ん、この声は。


 頭を抱えて唸っていたら聞こえてきた覚えのある声にハッとして、塀の上を見てみると、間違いなくさっきの黒い子猫がこちらを見下ろしていた。


「さっきの猫!? おまえ、またワタシのことを笑いにきたのか~?!」


 つい身構えてしまうワタシ。また風でも吹いて落っこちても今度は助けないからね!


 とか言いつつ、いつでも飛び込めるように準備をしてしまうのはあの可愛すぎる魅力がそうさせているに違いない。罪な猫だよ。


 けど今回は降りようとはしない。それどころか歩き去ってしまう。

 かと思いきや立ち止まって、こちらを振り返る。


「まさかこれは、ついて来いってやつでは~!?」


 漫画とか小説とか映画とかにあるやつ。


 よくよく思い返してみればそんなシーン見たことないけど、そんな感じなのあったよね!

 それに道がわからないなら視点をあげて、上から見てみれば道がわかるかも! もしかしたら橋だって見えるかもしれないし!


「そうと決まれば……とりゃ~!」


 勢いをつけて塀をよじ登る。これで猫と同じ立場だ。


 さすがにもう人が起き始める時間のはずだけど、辺りは不思議と静まり返っていて、これなら見つかって怒られるようなことはなさそう。


 なんだか冒険してるみたいで、ちょっとドキドキしてきた。男の子の気持ちが、今なら少しわかるかも。


「あっ、なるほど~。これはこれは、雰囲気あるね~……」


 俗に言う『幽霊屋敷』が塀の向こう側にあった。どおりで人の気配がないわけだ。


 壁の塗装はハゲて板の地肌がむき出しになり、びっしりと苔がむしている。窓ガラスにはヒビが入り、ところどころ割れているところもある。ガラスの縁に壁の塗料が染みるように移っているところを見ると、かなり年季の入った家みたい。埃か何かでガラスは白く濁っていて、中はよく見えなかった。


「そっちだね~?」


 塀の上を我が物顔で歩く子猫の尻尾を追いかけるように曲がる。平均台を渡るような感覚で幽霊屋敷を右手に、足を滑らせて落ちないように気を付けながら追いかける。


「ワタシを出口まで導いておくリェエ!?」


 塀から右足がずり落ちて、危うく落っこちるところだったけど、幽霊屋敷の壁がすぐ近くだったので両手をついてセーフ。


「――ふぇ?」


 平衡感覚がおかしくなって、変な声が出た。

 手をついたはずの壁がすり抜けて、ワタシの体は支えを失いそのまま倒れていく。


 違う、すり抜けたんじゃない。壁が抜けたんだ!


 ボロすぎる壁がワタシの体重を支えきれなくて、脆いところから引きちぎれるように穴が開いて、そこに落っこちる。


 いや、落っこちた。


 そう理解した頃には、埃臭い幽霊屋敷の中で仰向けに転がっていた。


「……ワタシの体重くらい支えてよ~失礼ね~!」


 大きな穴の空いてしまった壁に向かってグチるも、右から左。相手は穴の空いた壁なんだから当然なんだけど。


 身を起こして辺りを見てみる。


 電気がないから少し薄暗いけど、日当たりは良好で先は見える。ワタシのせいか、かなり埃が舞い上がってキラキラしていた。家具などはほとんど置いてなくて、生活感のカケラもない。でもそのせいか、なんだか広く感じられた。

 ここまでボロボロでなければ優良物件だったことだろう。


 出口を探して歩くと、


「のわ~! クモの巣?!」


 顔に糸がくっつくくすぐったい感覚に驚く。


「どわ~! 底が抜けた?!」


 足が膝上まで床に埋まる経験は貴重だ。


「うひ~! なんかよくわかんない虫?!」


 あんなに脚がメッチャわちゃわちゃしてるの初めて見た。


「どは~! おばけ~?!」


 曇った鏡に映った自分だった。


「あふ~! ポルターガイスなんとか?!」


 猫が立てた物音だった。


「って……なんだキミだったのか~」


 さっきまで追いかけていた黒い子猫が玄関のようなところでお行儀よく座って毛づくろいしていた。


 というか、あった。出口。


「まさか『ここだよ』って教えてくれたの?」


 ――にゃあん。


「ふふ。そっかそっか、ありがと~」


 たぶん『そうだよ。ホント手間がかかるんだから』って言った気がした。後半は余計なお世話。


 そっと手を伸ばしてみると、逃げないで指先の匂いを嗅いできた。大丈夫そうと判断したワタシはそっと子猫の頭を撫でてやる。


 首輪も付いてないしたぶん野良猫だと思うけど、その割にはキレイというか、健康的というか。野良猫ってもっとげっそりとしたイメージだったけど、この子はそうじゃなかった。

 よっぽど親猫がしっかりしてるのか、誰かがどこかでエサでも与えているのか。


「どっちにしろ、感謝の気持ちを忘れちゃダメだよ~?」


 目を細めて気持ち良さそうにしている子猫を見ていると不思議と和んだ。


「いやいや、和んでる場合じゃなかった! 学校!!」


 忘れそうになっていたけど今は登校中。時間に余裕を持って家を出たのに、これじゃあ遅刻しちゃう。


 錆びついたドアノブを回すと、ジャリジャリと砂を噛むような感覚はあったけど開いた。鍵はかかってなかったみたい。

 そこから外に出てみると――、


「あれ、ここって……」


 なんとなく見覚えのある道に出た。

 というか、橋のすぐ近くだ。川の音がかすかに聞こえる。


「そっか、散々迷ったけど近付いてはいたんだ」


 そしてなかなか橋にたどり着けないことに焦れた子猫が私を案内してくれた、とか。

 猫が道案内してくれるって本当にあったんだ~! なんだかロマンチック!


 植木に話したら聞いてくれるかな? 信じてくれるかな?

 信じてくれなくてもいい話題にはなるかな。聞いてくれなくても一方的に話しちゃうけどね!


「時間的には……まだ間に合う。一時はどうなるかと思ったけど、ここまで来ればあと少し」


 カバンから復活したスマホを取り出して時間を確認。


 かすかに聞こえてくる水の音を頼りに歩いていたら、目指していた赤い鉄橋が見えてきた。ここからは他の人の姿も目立ってくる。ワタシと同じ制服を着た学生が何人も学校に向かって歩いていた。


 迷子になると、誰でもいいから人の姿を見るとなんだか安心しちゃうよね。


「油断禁物ってことで、ちょっと早歩き~」


 歩く速度を気持ち早めて、赤い鉄橋を渡る。すると聞こえてきた。


 ――にゃー。


 …………。

 いや、ワタシは何も聞こえなかったいいね?


 ――にゃぉん。


 …………

 心の中で嘆息した。まったく、しょうがない猫ちゃんだね。


「今度はどこから現れるんだい? って、うそでしょぉ!?」


 人目もはばからず橋の手すりから身を乗り出して、ワタシは思わず叫んでいた。


 子猫は、箱に入って、川を流れていた。

 もう一度言ってもいい。箱に入って川を流れていた。


 ついさっきまでワタシを案内してくれてたのに。最後に見たのは幽霊屋敷だったけど、ほんのちょっとの間に一体なにがあったの猫ちゃん!?


 急いで引き返して、河川敷を駆け下り、カバンを投げ捨ててワタシは迷わずに川に入った。


 水は冷たいし、革靴に水が入ってきて靴下はぐっしょり。それどころか想像以上に深い川で腰まで浸かってしまった。

 でもそれくらい中央部まで行かないと流れていく猫ちゃんを助けることはできない。


 流れを読んで川下に立ち、左右にズレても受け止められるように両腕を広く構える。


「そのまま……そのまま……」


 強く強く念じながら、願いながら、何事もないことだけを考えて待つ。こんなところで不幸を発動するわけにはいかない。

 ちょっと運が悪いくらいならいくらでも受けて立つ。


 でも命がかかるような場面での不運はいただけない。神様に全面戦争ふっかけてもいい。


 だからお願い。どうかそのままこっちに流れてきて……!


「きた……!」


 ワタシのお願いを聞き届けてくれたのか、箱はバッチリと腕の中に入るかのように流れてきてくれた。そのまま抱きかかえて、足を滑らせないように川岸へ。


「まったくも~! 君はどうしてこうもワタシの手を煩わせてくれちゃうかな~!」


 登校時間の短い間に何度も何度もワタシの前に現れて、困らせたり助けてくれたり、なんなのさ。


「よし、キミのことは植木ャットと名付けよう」


 いろいろと植木と重なる部分があると思うから。


「さあ、もう面倒なことを起こさないでくれたまえよ~。ワタシはこれから学校なんだから」


 ――にゃあ~。


 大きくあくびをするように返事をする子猫。了承してくれたのか、それとも『余計なお世話だよ』みたいなことを言われたのか。あるいは『お前に言われたくないよ』とかかな。


 それはわからないけれど、きっと悪いようなことではないはずだ。


 ワタシはカバンを回収して、学校へ。


「それにしてもぐっしょりと濡れちゃったな~。でも体操服があるから――」


 そしてここで思い出す。そう、言わずもがな体操服を家に忘れてきた。


 ここまできて家に引き返すなんて選択肢はないし、このまま学校に行くしかないか……。


 道行く人の視線が刺さるけど、そんなの全然気にならない。……だってもうちょっとでワタシの王子様――植木に会えるんだもん!


 橋を渡って少し歩けばすぐ学校に着く。


 抑えきれない逸る気持ちに身を任せながら、上履きに履き替えて自分の教室へ向かい――、


 ワタシは教室の扉を勢いよく開けた。


「おっはよ~!」


 今日も楽しい学校生活が始まる!

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