第1話(2/2)「気づかない伊藤ちゃん。」

 放課後になって、雨が降ってきた。


 タイミングが悪い。


 雨自体は嫌いじゃない。雨音が弾ける音は、聞いていて気持ちがいいから。窓とか、屋根とか、地面とか。特にトタンの屋根の音がお気に入り。降り始め特有の雨の匂いも、割と好き。


 バタバタと騒がしくて賑やかな音に身を浸すと、私もなんだか楽しい気分になってくるから。


 それに、いつもより大きな声を出して練習しても大丈夫なのも、好きな理由の一つ。


 でも、今日の雨はちょっと嫌い。


 合唱部と吹奏楽部の練習場所がかぶるから、音楽室は交代で使うことになっている。今日は吹奏楽部が音楽室を使う日で、合唱部は外。屋上とか、渡り廊下とか、なるべく人の少ないところでいつも練習してるんだけど、雨が降っちゃって中止。空き教室はことごとく別の部活に占拠されるから、大人しく家に帰って自主練でもしたほうが有意義。


 ということで、音楽準備室にある楽譜だけ借りて、家で練習しようと思って職員室から鍵を借りたところで、花田先生に話しかけられた。

 とてもおしゃべりが大好きな先生で、一部の生徒の間では「おしゃべり花田」という名で呼ばれているみたい。愛嬌があって私はいいと思う。生徒のみんなも多分、悪い意味では言ってないんじゃないかな。


 長い長いお話に相槌を打っていると、花田先生の携帯電話に着信があって、それで中断された。画面を見たときの嬉しそうな顔を見る限り、家族の誰かだろうとは思う。ずっと、いわゆるノロケ話だったから。


 幸せそうで何よりなんじゃないかな。


 私は電話口に向かって喋る花田先生に軽く会釈をしてから職員室を出て、予定通り音楽準備室から楽譜をカバンに詰め込んで、鍵を返して、後は帰るだけ。

 ちょっと欲張ってカバンが重くなっちゃったから大変だけど、どうせ雨の日はバスで帰ることにしてるし、そこまで辛くはないと思う。


 私は雨女だから、天気予報に関係なくカバンの中には折り畳み傘が入ってる。これがあれば、どんなときでも安心。バス停まで頑張れば、家はすぐだし。


 肩にかけたカバンの紐が重さでジワジワと痛みを与えてきているので、速やかに帰ろう。


 そんなことを思いながら昇降口に向かうと、見覚えのある後ろ姿が、雨の降る暗い空の手前で立ち尽くしていた。


 同じクラスの阿部あべいつきくんだ。


 誰とでも分け隔てなく接する、気配りもできて優しい、好感の持てる男子の一人。確か、テニス部だったかな。外で発声練習とかしてるときにテニスコートで見かけた気がする。


 話したことは、なくはない。落としたプリントを拾ったときにちょっと挨拶を交わしたくらいでそれっきり。私みたいな地味な女子のことなんて、阿部くんは覚えてないと思うけど。


「玄関に置きっぱなしだ……」


 何か忘れ物でもしたみたいで、しょんぼりと肩を落としている。


 そんな後ろ姿を横目で見ながら、私は上履きから靴に履き替える。


「すぐには止みそうもないな。帰れないこともないけど……」


 なるほど、察するに阿部くんは傘を忘れたみたい。さっさと傘を差さないで立ち尽くしている時点で、なんとなくわかってはいたけれど。


 いつものクセで足音を消して歩き、阿部くんの隣に立つ。


「傘、忘れたの?」


 わかりきっていることを聞いてしまった。ただ横を通り過ぎて、しれっと傘を差して帰るのに気が引けただけ。

 そのまま帰っちゃうのが普通なんだろうけど、あまりにもしょんぼりしてるものだから、つい。


 私みたいな地味な女子が、出しゃばったことをしてしまった。気にしないでくれるといいんだけど。


「伊藤さん。帰ってなかったんだ?」


 案の定驚いたような表情を見せたけど、それも一瞬。返事が返ってくる頃にはいつもの阿部くんに戻っていた。


 私の名前、覚えててくれたんだ。


 傘を忘れたのかという質問には答えてもらえなかったうえに、質問で返されてしまった。

 雨音で私の声がよく聞こえなかったのかもしれないし、別に気にしてないけど。


「うん。花田先生につかまっちゃって」


 職員室での光景を思い浮かべながら私は正直に答えた。相手が女子だったら「マジで? あいつチョーめんどいよねー」とか返答に困ること言うだろうけど、阿部くんならそんな心配はいらないと思ったから。


 そして実際、その通りだった。


「おしゃべり花田か。それは災難だったね」


 頬を掻きながら苦笑いを浮かべる阿部くん。私を気遣うような口調は、なんと言うか、こそばゆい。


「私は嫌いじゃないけど」


 他人の不幸は蜜の味、とかふざけた言葉を聞いたことがあるけど、ならば他人の幸福はさしずめ天上の蜜の味だ。私はそういうのを妬むこともひがむこともしない。


 だって、そもそも私には縁遠い話だから。


「どうせまたノロケ話だったんじゃないの?」


「まあ」


 授業中にも聞いた話をまた聞かされるのは、少しだけ退屈だったかもしれない。

 花田先生のせいで、とは言わないけれど、バスの時間もあるし、そろそろ帰らなきゃ。


「これ」


 取り出していたピンクの折り畳み傘を阿部くんに渡して、「それじゃ」と私は雨が降る空の下を歩き始める。

 肌にあたる雨の感触が気持ちいい。


「いやいやいやいや!」


 少し歩くと、制服を後ろから掴まれた。


 あ。ホック外れた。


 そのまま後ろ歩きに戻されて、元の立ち位置に。

 雨の湿気で少し蒸れてたから、ブラはしばらくこのままでもいいかな。


 でもなんで私のこと引き止めたんだろう? いきなり傘渡されたから?


「傘はありがたいけど、それで伊藤さんが濡れちゃ意味ないよ」


「私は気にしないけど」


 どうせ誰も見ないし。


「俺が気にするから!」


 そうか、阿部くんは見てたか。


「だからこれは返すよ。気持ちだけ受け取っとく。ありがとな」


「…………」


 あれ、こういうときってなんて言えばいいんだっけ。おかしいな、言ったことある言葉のはずなんだけどな。どうしてだろう。言葉にならなかったのは。


「じゃあ、また明日」


 ピンクの折り畳み傘はやんわりと返されて、阿部くんは上着を頭からかぶった。どうやら走って帰るつもりらしい。


 阿部くんは今にも駆け出しそうだった。


「それっ! ――ってあらぁ?!」


 だから私は、上着の裾を掴んだ。


「ちょっと伊藤さん?! なに考えてるの?!」


 上着だけが私の手の中に残り、少し走って行ってしまった阿部くんは雨に打たれないように慌てて戻ってくる。


 なに考えてるの、と言われても、


「阿部くんが濡れるし」


 くらいのことしか考えてなかった。


 そのまま帰ったらきっと風邪を引く。今日はやけに湿度が高いから、たくさん汗もかく。阿部くんの家がどこなのかはしらないけど、体調を崩しやすい天候なのは変わらない。


 だったらもう、


「二人で使えばいいよね」


 これが、現実的な解決法だと思う。


 二人で傘を使えば阿部くんが濡れないから私の主張が通る。そして私が濡れないから阿部くんの主張が通る。

 お互いの意見が叶うのは、この方法だけ。


「…………は?」


 きょとんとした顔で、たった一文字。息が漏れるような声だった。よく聞こえなかったのかな。そういえば今日はほとんど声出してなかったから喉の調子がまだ上がってないのかもしれない。


「だから、二人で傘を使えば問題ないよね」


 阿部くんにもちゃんと聞こえるように言い直した。


「大ありでしょ!!」


 即答されてしまった。

 なにか問題あったかな。


「あ、そっか。私なんかと噂にでもなったら嫌だもんね」


 男女が一緒に帰っているところを誰かに見られたら、付き合っているんじゃないかって誤解されるとか、そういう話はよく聞く。私は気にならないけど、それは私だからであって、阿部くんは別だった。


 そこまで頭が回らなかった。阿部くんには悪いことをしちゃったかな。


「い……ぃやじゃ……ないけど……」


「え? なに?」


 ちょうど強めの風が耳元をかすめて行って、よく聞こえなかった。


「いや?! なんでもないから!」


 ブンブンと両手を振る阿部くん。なんでもないならいいんだけど。


「伊藤さんこそいいの? そういうの気にしないの?」


「いや全然」


 所詮は噂。人の噂も七十五日って言うし、それが事実でない限りは必ずいずれ下火になる。気にしたりするほうが火に油を注ぐことになりかねないから、知らぬ存ぜぬが一番効果的なの。


「あ、そっすか……」


 なんだか落ち込んだように項垂れる阿部くん。声もなんだか落ち込み気味。


 合唱部だからだろうか、声のニュアンスからその人の気持ちを読み取る能力は他人よりは優れてると思う。

 阿部くんは多分、疲れてる。運動部だし、雨も降ってるし。運動部は文化部より大変なんだろう。私には、その大変さを推し量ることはできない。


 どうしよう。もう切り上げて帰れたらいいんだけど、このままにしておくわけにも――


 阿部くんは、顔を上げた。


「なら、お邪魔させてもらおうカナ」


 あ、声が裏返った。


「大丈夫? 風邪?」


「ぁ、ああ、大丈夫。ちょっとたんが絡んだだけだから」


 両手をブンブン降って必死に否定。それだけ元気があれば、阿部くんの言うとおり大丈夫なんだろう。


「そう。ちょっとこれ持ってて」


 了承も貰えたし、早く帰って練習したいし、準備しなくっちゃ。さすがにブラをこのままにしておくわけにもいかないし。


 楽譜の詰まった重いカバンと、持ちっぱなしだった上着を阿部くんに持ってもらう。

 スカートからシャツを出して、両腕を背中側に回す。服が邪魔でなかなかホックが引っかからない。


「い、伊藤さん? なにしてんの?」


 阿部くんの視線がキョロキョロし始めて、声も少し上ずっている。どうしたんだろう?


「さっき阿部くんが背中掴んだときにブラのホック外れちゃって」


「ハァ?!?! え、えぇ?! なんかゴメン!!!」


 すごい勢いで謝られてしまった。阿部くんが謝るようなことしたっけ? それとも私が謝られるようなことをしたのかな?


「別に平気。湿気で蒸れてたからちょっと助かったくらい」


 外れた瞬間はスゥッとした。ちょっと息苦しかったし、サイズ合ってないのかも。


「へ、ヘェ、ナラヨカッタ」


 よしついた。……やっぱり少し苦しいかも。私の胸が大きくなることはあり得ないから、ブラが縮んだのかな。お母さんに頼んで新しいの買ってもらおう。


「お待たせ。荷物ありがとう」


 持ってもらっていた荷物を返してもらおうと手を差し出すと、阿部くんは荷物を遠ざけてしまった。


「持つよ、これくらい」


「え、でも……」


 楽譜がたくさん入ってるから重いのに。


「いいから。傘に入れてくれるお礼ってことで」


「……わかった」


 やっぱり優しい。それに当たり前だけど男子なんだな。軽々と持ってるし。

 阿部くんは両手が塞がっているので、折り畳み傘だけを抜き取って、パッと開く。


「どうぞ」


「し、失礼しまーす」


 暖簾をくぐるように頭を下げて傘の下に入ってくる阿部くん。身長が私より高いから、傘も高く構えないとか。

 楽譜も目線の高さで持ち続けるから、そこまで辛くはない。


 傘を開いてみてわかったけど、ちょっと狭いかもしれない。男子は肩幅が広いということをすっかり忘れていた。

 でもギリギリ収まってるかな。このまま行ければ大丈夫そう。


「…………」


「…………」


 二人で歩いている間、静かな時間が続く。


 雨が塀を叩く音。靴が水たまりを弾く音。体を揺らす街路樹の葉擦はずれ。

 雨音に耳を澄ませながら歩く道は、自然が奏でる大合唱を聞いているようで、とても心地がいい。

 傘の布にぶつかる音もよく聞きたくて意識を傘に持ってきて、ようやく気付いた。


「あ、肩濡れちゃってる。ゴメン気付かなくて」


 いつからだったのか全然わからなかった。結構ぐっしょり濡れているところを見ると、かなり早い段階から雨に当たっていたみたい。

 もっと早く言ってくれればよかったのに。


「お、おおう! これくらい、全然、平気だから! もーまんたい!」


 強がるように言う阿部くん。変な気を使わせてしまったのだろうか。そんな必要全くないのに。


「でも風邪引いちゃうかもしれないし、もっと寄って」


 言ってもなぜか寄ってこないので、このままじゃ余計に阿部くんが濡れちゃう。

 だから私が近寄ると、


「ホント、これくらい平気だから!」


 余計意固地になってしまった。


 でもちょうどバス停に着いたので立ち止まる。歩きながらだと濡れちゃうけど、立ち止まっちゃえば濡れにくくなるよね。


「なんかゴメンね。嫌な思いさせちゃって」


「……え? な、なんで?」


「だって阿部くん、ずっと困った顔してる。阿部くん優しいから。嫌なことは嫌って言っていいんだよ」


 ずっと我慢させちゃったのかもしれない。私なんかに気を使わなくてもいいのに、阿部くんの優しさに甘えちゃっていたのかな。なんか申し訳ない。


「嫌じゃない!」


「え」


 突然の否定に、私はドキッとした。キュッと萎縮した体から小さく声が出てしまう。


 多分、今の私は変な顔をしてるに違いない。


「嫌じゃ、ない、から。むしろ伊藤のほうが優しいだろ」


 阿部くんは腕で自分の顔を隠しながら言った。


 私が、優しい?


「私なんか、別に優しくないよ」


「……その『私なんか』っての、やめたほうがいいよ。さっきからちょいちょい言ってるけど、伊藤さんはもっと自分に自信を持っていいと思う」


 私なんかに自信なんて……あ。本当だ、言われて初めて気が付いたけど「私なんか」って結構言ってた。


「傘に入れてくれた。風邪引くって心配してくれた。いつも机を直してくれてる。花の世話も、カメの世話も、全部伊藤さんがやってくれてるって、俺は知ってるよ。優しくないわけがない。伊藤さんのそういうとこ――俺は好きだよ」


 まさかそんなことまで知ってくれてるなんて、全然知らなかった。

 さっき、「どういたしまして」って言葉が出てこなかった理由が、少しだけわかった気がした。


 多分私は、心からの「ありがとう」を言われたことがなかったんだ。ずっと形式上のお礼ばかりだったから、それに則って機械的に返事をするだけだった。

 でも阿部くんの言葉には、心からの感謝の気持ちがこもっていた。

 私が思っているより、私のことを知ってくれていたから。


 だったら私も、感謝の気持ちはしっかりと伝えなきゃ、フェアじゃない。


「ありがとう。やっぱり阿部くんは優しいね」


「え?」


「慰めてくれたんだよね。私のこと」


 自信の無さはあらゆるところに悪い形で現れる。喉の調子が悪いのも、私なんか、ってネガティヴなことをつい言ってしまうのも、自信が無いから。

 逆に言えば、自信さえあれば喉の調子だってよくなる。


 きっとテニスでも同じことが言えるんだ。自信の無さがプレーに悪影響を及ぼす。そうとわかっているから、私のことを元気づけようとしてくれたんだ。


「――。そ、そうそう! だから、伊藤さんは――」


「あ。バスきた」


 阿部くんが何かを言いかけたとき、バスがやってきてしまった。話の続きが気になるけど、そこまでバスは待ってくれない。乗客の迷惑にもなっちゃうし、続きはまた、明日にでも。


「荷物ありがとう」


「あ、おう」


 手を差し出すと、今度は素直に渡してくれた。当然だけど。


 空気の抜けるけたたましい音を響かせてバスは止まり、ドアが開く。


 このままだと阿部くんはまた濡れちゃうから、ピンクの折り畳み傘を押し付けた。


「また明日」


 小さく呟いてから乗り込み、奥の席へ。

 ゆっくりと動き出すバス。


 なんだろう。さっきよりも胸が苦しい気がする。


 もしかして、私――、









 胸、大きくなったのかな?

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