第二十五幕 泥炭とウィスキー



 二十歳の誕生日の夜、繁華街の隅の、名も知らぬバーで、この世で一番美味い酒を飲んだ。

 それがウィスキーである事だけは、当時のなけなしの知識でも辛うじて理解できた。


 その酒との出会いが、自分の人生を塗り替えたと言っても過言ではないと思っている。

 敗戦処理のようにひっそりと過ごそう思っていた人生に、希望の光が差した瞬間だった。

 ともかく、その後俺は、件の酒ともう一度出会うべく、それまで通っていた大学を辞め、転学先の大学で有機化学を専攻した。

 今となっては笑い話だが、当時の俺は、ウィスキーが大麦から作られている事すら知らなかった。度数が高く茶色い酒は、ラムもブランデーもみんなウィスキーだとばかり思っていた。


 転学先の大学には、結局、六年間も在籍する事となった。

 大麦が水を吸って発芽し、麦芽の酵素によって澱粉質が糖となり、糖が酵母の働きによって麦酒となり、麦酒が蒸溜の工程を経て度数の強い酒になり、その酒が樽の中で眠るにつれ、次第に琥珀色を帯びたウィスキーになってゆく……人類が世代交代を繰り返しながら、数千年を生きる中で習得したそのメカニズムを、俺は六年間、みっちり学ぶ事となった。


 本を開いてみると、ウィスキーは実に奥深い魅力を星の数ほど持っていた。

 瓶に眠る七〇〇ミリリットルの琥珀色の液体は、誰かの元で花開くとき何も語ることはない。だが、その奥には、途方もない程の時間と人の手を巡ってきた麦と水の物語があり、そこに思いを馳せるとき、ウィスキーは、ただの四〇度の麦の酒という言葉では括れぬ、秘密めいた何かが内包されている事に気付かされるのだった。



 剣と魔法の異世界に転生させられたのは、そんな大学生活も終わりを告げようとしている、院の二年の秋の頃だった。

 異世界にはウィスキーがなかった。それを知ったのは転生して二日目の事だった。

 俺は絶望した。自分の人生を根本からひっくり返される、理不尽な暴挙だと思った。

 

 唯一の救いは、転生先の自分の住処となった王都が、ウィスキーの原料である大麦を特産としていた事だった。気候も水質も、酒造りに理想的と呼べるような環境だった。

 俺はその異世界でウィスキーを再現するため、酵母の採取と培養を行った。そのかたわら、ピルゼン教授を介して蒸留釜の作成を依頼した。ピルゼン教授から依頼を受け取った鍛冶屋のベッグは、俺の想像以上の蒸溜釜……ポットスチルを作ってくれた。


 だが、俺が求めるウィスキーをこの世界で再現するには、少なくともあと一つ、必要なものがあった。果たして、この世界にそれがあるのか、また、あったとしても、俺がそれを手に出来るのは何年先か……途方もない旅路に思えていたが、驚くほどにあっけなく、その手掛かりは俺の手中に舞い込んだ。


✳︎✳︎✳︎


 ホビット庄への出発は翌日となった。

 本当は俺は、ベッグが持ち込んだ酒の原料を一刻も早く調査したかったので、すぐに出発しようと発奮したが、レゼルが当然に付いて来たがり、支度をするから出発は明日の早朝にしろと言いだしたのだ。レゼルの外出は、無論シャルトリューズ家の使用人達から猛反対され、屋敷内は大騒ぎとなった。最終的に、キレたレゼルの魔術によってグラン氏が氷漬けにされかける殺傷沙汰に発展し、半ば済し崩し的にレゼルの外出が認められた――そんな一連のドタバタで一日が費やされた。部屋に戻ると、カリラが俺と自分の分の荷造りをすっかり終えていた。


 翌朝、快晴。夜明け頃に研究室にやって来たカリラと王立学校を出て、王都南部の板金街に向かった。隣を歩くカリラはなんだか落ち込んでいた。


「どうしたんだ、カリラ」

「先生は、もっとこう、前もって外出を計画するとか、そういう風に動けないのでしょうか」

「……なんかあった?」

「秋の葡萄畑の時もそうでしたけれど、折角のお出かけなのに、私また、この地味なコートのままです。あと一日余裕があれば、もっと素敵な服を買いに行けたのにって……」


 カリラはそう答えて溜息をついた。

 俺は面食らった。彼女が、そんな思春期の女子のような事を考えているなど想像だにしていなかった。真面目で倹約家な気質とばかり思っていたが、やはり女の子というのはどの世界でもそうしたものを気にするものらしい。


「でも、そのコート、俺、好きだよ」

「……っ!」


 俺がそう言うと、左隣を歩くカリラはその身を強張らせた。

 フォローではなく本心だった。俺は言葉を続けた。

 

「いつか、俺が山で記憶を無くして、一緒に王都に帰った事、あったろ。あの時もそのコート着てただろ? だからかな、俺、カリラがそのコート着てるの見ると、なんか安心するんだよな」


 板金街に至る石畳はまだ朝露で濡れていた。カリラはしばらく無言で歩いていたが、


「……先生は、他の女の子にもそういう事言ってるんですか?」

「人をスケコマシみたいに言わないでくれよ……」


 顔を真っ赤にしたカリラのジト目から逃げ出すように、俺は明後日の方を見た。

 朝靄が次第に晴れ、青い空が見えてきた。遠くからパンの焼ける匂いが漂ってきた。


✳︎✳︎✳︎


「お早う! 二人とも!」


 レゼルは既に集合場所『ウーガダール鍛冶店』の看板下で待っていた。昨夜の荒れ具合が幻だったかと思う程の上機嫌だった。その隣に立つベッグは、何故がげんなりと項垂れていた。


「すまんベッグ、待たせたかな」


 俺がベッグにそう詫びると、


「いんや、あんた達は約束通りだ。お嬢が早く来すぎだだけだ」


 ベッグはそう言って溜息をついて、さっそくカリラとお喋りを始めたレゼルを見た。

 お嬢様は明らかにうきうきしていた。紺碧の瞳が輝いていた。


「なんか、あったか?」

「……今日の事が随分楽しみだったんだろうなあ。お嬢がここに、夜明け前に来ちまってよ。夜明けまで暇だからって勝手に作業場物色するわ、他の店のホビット共が覗きに来るわ、もうしっちゃかめっちゃかよ」

「す、すみません」

「……なんであんたが謝んだよ魔王」


 レゼルも滅多にない旅行で興奮していたらしい。お嬢様はこういう機会でもないと城壁の外に出られないからな。だがそれでベッグに迷惑を掛ける事になるとは想定外だった。



 間も無く、俺たちはベッグの先導で四ツ角の外へ歩き出した。前列は俺とベッグ、少し離れてカリラとレゼルがお喋りしながら付いてきた。彼女達の話題は尽きなかった。


「城壁の外は魔物の巣窟なんでしょ!? あたし、戦闘用の杖も持ってきたわ」

「レゼルちゃん、王都近辺は城壁の外でも魔物は居ないよ。多分、ホビット庄まで」

「えぇ、そんなの詰まんないじゃない」

「そんな事言われても……平和なのは良い事だよ」


 その時は、確かそんな会話を繰り広げていた。

 ベッグはベッグで、俺に違う話題を持ちかけた。


「そういえば、魔王。蒸溜釜の支払いがまだだ(なんて色気のない話題だと思った)。しめて銀貨六〇。今月中に頼むぜ」

「ああ、今払うよ」


 俺は鞄から財布を取り出し、中の金貨を一枚ベッグに手渡した。釣りは要らんと言うと、ベッグは口笛を吹き金貨を指先でころころと転がして、金貨に掘られたレゼルの横顔を眺めた。


「四年前、お嬢が金貨の肖像になった時だがな……その原板を彫った奴と俺は知り合いだった。やっこさん、言ってたよ。あの年頃の女の子どもから、よくもまあ笑顔を殺せるもんだなって。そして、それを金貨に彫って永遠に止めようなんざ、人間の貴族は気が狂ってるってよ」


 ベッグは金貨をポケットに仕舞い、後ろを歩くレゼルの、楽しそうに笑う様子を盗み見た。


「氷は溶けてた。今朝は良いもん見たぜ。魔王、あんた、あの子に相当信頼されてんだな」

「……うっせえ」


 ポットスチルが思った以上に上等に仕上がっていたからと、ベッグに多めに金を払ったのは失敗だった。もう何があってもこいつには銀貨でしか払わん。俺はそう決めた。


✳︎✳︎✳︎


 それから数分も歩いていると、視界の先に国営の共同厩舎が見えてきた。


「ホビット庄へは馬で行く。俺は一頭持ってるから、あんた達は貸馬を使ってくれ」

「別に馬なんて借りなくても、馬車ならウチで出すわよ」


 レゼルがベッグにそう提案したが、ベッグは首を横に振った。


「馬車はダメだお嬢。ホビット庄に行くには、エルフの森を抜ける事になる。馬車は入れん」

「馬車が入れないダンジョンなのか……ちょっと良いな。ところでベッグ、今更なんだが、ホビット庄に行くって事は、お前はホビットなのか?」

「うん? 記憶を失うとそういう知識も失くすもんなのか? いかにも俺はホビットだ。人間みたいに群れたり頭使ったりは不得手だがよ、力と寿命はお前たちの二倍はあるぜ」


 ベッグは得意げにそう言った。言っているうちに、俺達は厩舎の前に辿り着いた。


「おい、あんた達三人の中で、馬に乗れねえ奴はいるか?」


 俺は手を挙げた。手を挙げたのは俺だけだった。俺はなんとも恥ずかしい気持ちになった。


「魔王、あんたは俺の後ろに乗れ。お嬢と猫姫さんは、そこの貸馬からいい奴を選んでくれ」

「おい待てベッグ。さっきの、猫姫さんってのはなんだ。まさかカリラの事か?」


 俺は聞き慣れぬその呼び名を咎めた。確かにカリラは猫っ毛だったが、猫姫とは何事か。


「人間は鼻が効かねえって本当だったんだな。そこの黒髪のお嬢さんからは、都中の猫の匂いがするぜ」

「う、うそっ」


 その言葉にカリラは顔を真っ赤にして、自分の腕をくんくん嗅いだ。ベッグは笑った。


「あんたらの鼻じゃ分からねえって。猫姫さんもお嬢も、その辺の人間の女とは比べものにならねえほど身綺麗にしてるもん。ちゃあんと水浴びしてる証拠だ。自分の臭いを香水で誤魔化してる貴族街の女どもに、爪の垢飲ませてやりたいぜ」


 そんな事を言って、ベッグは厩舎の端に近づき「おいで、メイル」と呼びつけた。

 都中の猫の匂いとは一体――俺のその疑問は、厩舎の奥から出てきた異様に踏み潰された。


「な、なんだ、この生き物は」

「メイルっつうんだ。俺の愛馬よ。地元の湖に住んでた馬の中で、いっちゃんの美人さんだ」


 ベッグは自慢げにそう言ったが、メイルと呼ばれたそいつは、明らかに馬ではなかった。

 まずデカかった。ベッグと俺が乗ったとしても、まだその背には余裕があった。白い毛並みは鱗のように艶やかで、逞しい脚の筋肉は、ロダンも頬ずりするレベルの仕上がりだった。たてがみがある筈の部分は魚のひれのようなものが生えていて、水中でこそ本領を発揮しそうな雰囲気だった。メイルはベッグの言う通り美人で、気品のようなものさえ漂わせていたが、聞くと彼女の主食は海藻と水草という事だった。酒を賭けても良い。絶対に、馬ではなかった。


 厩舎から出てきたメイルは、愛おしそうにベッグに頬ずりしたあと、俺のもとへやってきた。正直、自分の数倍もある生き物に近寄られるのは恐ろしい事この上なかったが、彼女は穏やかに俺に身を寄せ、俺の手のひらを舐めただけだった。


「魔王、悪いがちょいと魔力を出してやってくれねえか。メイルは魔素が好物なんだ」


 俺はもはや、ベッグが何をもって彼女を馬と認識しているのかさっぱり分からなかった。


✳︎✳︎✳︎


「ベッグさん、ホビット庄って、どういうところなんですか」


 王都の西の関所を出て、西海岸に向かう道すがら、カリラはベッグにそう尋ねた。


「エルフの森の先にある、王国の西の海沿いの、さびれた漁村だ。森の中に『琥珀の湖』っう、エルフとホビットが共同管理してる湖があって、そこで真水を汲んできて暮らしてる」

「マミズ?」


 栗毛の馬に乗ったカリラが首を傾げた。思えば、彼女は王都を出た事が殆どなく、当然に海を見た事がない。海水という概念がそもそも知識の中に組み込まれていないのだった。


「カリラ、海の水は塩分を含むんだ。飲み水には使えないんだよ……ところでベッグ、お前さっき、琥珀の湖って言ったな。その湖の名前の由来を聞いてもいいか?」

「由来もなにも、その名の通りよ。琥珀みてえな色の水が湧いてんのよ。別に汚れてる訳じゃねえぜ。冷たくて柔らかくて美味い、いい水だ。こいつの故郷よ」


 ベッグはそう言って、メイルを撫でた。白い毛は滑り落ちそうなほどに艶やかだった。

 

 ベッグの実家があるホビット庄と、隣接するエルフの森は、王国政府から事実上独立した領域だという話だった。ホビットたちが暮らしている土地の殆どは湿原で、そこに生えるのは羊歯と灌木ばかりで、造林も耕作にも、人が住むにも適さない。まさしく不毛の地らしかった。


「エルフの森から木材は採れるだろ?」

「森は全面的にエルフが管理してる。他種族の木材の伐採は厳禁だ。エルフ法で裁かれる」

「それならホビットたちは、どうやって生計を立ててるのよ」

「西の海は魚介が豊富だ。生活は貧しいが食うには困らん。干した魚が交易品にもなるしな」

「食べ物があっても、木が伐れないなら薪が無いって事ですよね、冬を越せるんですか?」

「そこだよ、猫姫さん」


 それを聞いて欲しかったのだとばかりに、ベッグはカリラの方を見た。


「ホビット庄の泥は燃える。掘り出して三ヶ月も天日干しすりゃあ、上質な燃料になるのよ」

「泥が、燃える……?」


 カリラは想像だにつかぬであろう事象に首を傾げた。レゼルも同様だった。


「ねえカラン、泥が燃える事なんてあるの?」

「ああ。通常、植物が枯れたら微生物……目に見えないほど小さい生き物達によって土に分解される。だが、一部の寒冷地ではその微生物の働きが悪く、土に還るより前に、上から新たな植物の遺骸が堆積するんだ。それが何万年も続いて、地層全部が炭化した泥で覆われてしまったという訳さ。だから、その地層から取れる泥は燃える。それを『泥炭でいたん』という」

「な、なんまんねん……」

「誰が測れるってのよ、そんなの……」


 カリラとレゼルは、その説明のスケールのでかさに驚いているようだった。


「当たり前に使っていたが、あの泥はそういう仕組みだったのか……異界の知識、噂には聞いてたが凄えもんだな。なあ魔王、そんだけ詳しいって事は、もう当たりはついてるんだろ?」


 ベッグのその問いかけに、俺はうなずいた。ベッグは言葉を続けた。


「昨日あんた達に飲ませた麦の酒、あったろ。あの酒を作るときに、その泥炭を使ってる。泥炭を燃やして、その火で麦の芽を乾燥させてたのさ。あの酒の煙臭さはそれが理由よ。薪でやってもあの香りは付かねえ」


 ベッグのその言葉を聞いた瞬間、昨日飲んだ酒の味を思い出したのか、カリラとレゼルが顔をしかめた。


「昨日のお酒は酷かったわね。煙臭くって、強くって……まだ舌が焼けてる感じ。あれ、失敗作じゃないの?」

「おれは失敗作たぁ思ってねえぜ。なあ、魔王。昨日飲ませたおれの酒、どうだったよ?」

「ベッグの言う通りだ。あの酒はあれで正しい。あと幾つかの行程を加えれば、完璧だ」


 ベッグは俺の持って回った言い方に不満を覚えたようだった。


「なんだよ、その、幾つかの行程ってえのは。あの酒が完璧じゃないとでも言いたげだな」

「完璧じゃない。ベッグ、あの酒は、まだあと数段、美味くなるぞ」


 ベッグは「言うねえ」と楽しそうに返し、口笛を吹いた。



「ねえベッグ、貴方、どういう積もりであたし達をホビット庄に案内しようというの」

「別にお嬢と猫姫さんを招いた積もりはねえんだがよ。魔王は新しい酒が造りてえ。おれはそのための錬金釜を作った。なら、おれと魔王は仕事仲間だ。そんな奴が、俺が酒造りに使った素材に興味を示した。案内するにゃあそれで十分だろう」

「嘘。ホビット庄はここ百年、ヒト族が立ち入ってない筈よ。それを破るなんてよっぽどよ」

「別におれらがヒト族を排してた訳じゃあないぜ。海の食いもんが東のエレナ港で賄えてるから、人間どもが誰もホビット庄に興味を示さなかっただけよ。王国は豊かで、木材も十分な量採れてるから、燃える泥なんて持ち込んでも、誰も欲しがらねえしな」

「俺はこの数ヶ月、その燃える泥が欲しくて欲しくて堪らなかったがな」

「あんたは変わってるから例外だよ、魔王」


 前に座るベッグが、手綱を持ったまま俺の方をみてにやりと笑い、言葉を続けた。


「魔王、あんた、なんで酒を作る?」

「自分で飲むためだよ、決まってるだろう」

「道楽かよ。そりゃいい。貴族の発想だな。だがおれは違う。勿論酒は好きだが、それだけじゃあ生きていけねえ。食うために、金を稼がなきゃならねえ」


 ベッグは前に向き直った。見下ろす位置にある彼の頭が、遥か先の薄い月を見上げていた。


「おれは田舎が大っ嫌いだ。ホビット庄の奴らは、海仕事をして、泥炭を掘って乾かして……そうやって生きて、そうやって死ぬ。それが俺には耐えられなかった。だから俺は、旅人と交易して金を貯めて、人間の本を買って字を勉強した。王都に行って鍛冶屋になった。だがそれでも、俺を育ててくれたお袋は貧しいままだ」


 俺は後ろを振り返り、メイルの背に乗せられていたベッグの鞄を見た。ボロボロのその鞄の中には、ベッグが王都で買った麦や生活資材が入っていた。それが母親への土産なのだった。


「大麦の芽を泥炭で燻す方法、あれを閃いたとき、俺はこの国の酒の歴史を塗り替えられると思った。泥炭を燃やす文化は、おれの知る限りホビットだけだ。そして、泥炭を燃やす時出てくるあの独特の海の香りは、他の燃料じゃ絶対出せねえ。あの酒が飲まれるようになれば、泥炭は恰好の交易資材になる。お袋に楽させてやれるなら、俺は血でも吐いてみせるぜ」


 てらいのないベッグの言葉に、俺は自分の身体を流れる血がざわついたように感じた。

 それが、幼き日に母を助けられなかったカラン・マルクの血なのか……はたまた、両親を放り出し遥か異世界でのうのうと暮らしている自分自身の血なのか……俺には分からなかった。



 日が中天に差し掛かる頃、俺たちは湯を沸かして長めの休憩を取った。

 休憩後、俺たちはエルフが住まうという原生林に入った。混交林だった。


「お前ら、気を付けろ。エルフ共は特に人間には容赦ない。この森の小枝を一本でも踏み折ってみろ。あがないに骨を折られるぞ」

「ラノワールかよ……」


 俺は穏やかでないベッグの物言いに内心恐々としていたが、幸いにして弓を構えたエルフが出てくる事はなく、体感で三時間ほども進むと、原生林の終わりが見えてきた。木々のざわめきの中に潮騒が混じり始めた。


「お疲れさん。ホビット庄に着いたぜ」


 ベッグの言う通り、ホビット庄は海岸沿いにあった。

 森を抜けると、視界いっぱいに青い海が開けた。海岸までは、なだらかな下り斜面になっていて、そこで羊たちがのどかに草を食んでいた。海岸線に沿って、石で組まれた簡素な家がまばらに見えた。青い空を海鳥が悠々と泳ぎ、波の音は優しかった。


「へえ、素敵なところじゃない!」


 長旅の甲斐あったとばかりに、海岸線を見渡すレゼルの声は弾んでいた。

 俺にとっては、この異世界で初めての海だった。この世界でも、海は青色だった。

 ふと、カリラの事が気になって、俺は隣を見た。彼女にとって、それは生まれて初めての海のはずだった。


「…………」


 カリラは海を見ていた。

 口を閉ざして、果てしなく青く輝く水面を、縞模様を描く白い波を、潮の香を、波の音を、海鳥が鳴く声を、飽きもせずに眺めていた。

 ベッグが先に進んでも、レゼルが先に進んでも、俺が先に進んでも、カリラはずっと海を見ていた。


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