第二十三幕 教壇の魔王
『魔学上級』の最初の講義は、上級学校本館の東側、教員室にほど近い小講義室で行われた。
講義が開始する随分前から、学生たちは講義室に全員揃っており、皆いずれも魔王の登壇を待っていた。
小講義室に入ったピルゼンは、その足で講義室の一番奥に向かい、室内が見渡せる後ろの席に一人で腰掛け、周囲の様子を伺った。
ピルゼンにとって……いやこのエレヴェンス・ギルト王立上級学校に在籍する一部の学生と教師たちにとって、その日は特別な日であると言えた。
空は一部曇ってはいたが雨も雪も降らなかった。じきに快晴になる気配を漂わせていた。
小講義室で一際目を引いたのは、前列に座る二人の少女、特にそのうちの一人『氷の姫』レゼル・アーク・シャルトリューズだった。男子学生はもれなく彼女を見ていたが、彼女は我関せずといった風に、隣に座る女子学生カリラ・サウンドと談笑していた。
本当であれば、魔学教諭のマノン・ダイアもこの講義を聴講する予定であったが、残念ながらそれは叶わなかった。魔王の作成した選抜試験の成績が芳しくなかったからだ。
魔王は、聴講希望者は例え学長であろうと、学生と同じ試験を受けろと言ってきた。
『魔学上級』は魔学の教諭全員を始め、他科目の教授たちからも聴講の申し込みがあったが、試験に合格しその資格を得たのは人文学教授であるピルゼンだけだった。
というのも、魔王の作成した問題は『魔学上級』の選抜試験と謳っているくせに、魔学だけでなく、この王立学校で学ぶあらゆる学問から出題されていたからだ。それも、知識があれば答えられるような設問は皆無であったため、受験者の四割は、完全な白紙の状態で試験を終える事となった。
特に魔学と幾何学については相当な難問が出題された。魔学に関してはこんな具合だった。
問七
王国歴357年に生じたエルフ族との戦歴に於いて、エルフ族が使用した魔術は火属性の反応光を有していたにも関わらず、王国南西部に七日続く豪雨をもたらしたと記録されている。これが事実として、火属性魔術を用いて豪雨を発生させる手法を論じよ。
確かに設問は、魔学中級の教科書に記載されている内容からの出題に違いなかったが、その設問に何かしらの意見を書く事が出来たのは、あくまで『魔術とは何か、火とは何か』といった事を独自に熟考し続けていた一部の者だけであり、火属性魔術による豪雨発生の手法など教科書には書かれていないし、そんな事が出来る魔術師は王国には一人もいないのだった。
幾何学の設問は輪を掛けて酷かった。
王都北東部にある、鳥獣族たちが住まう古代の遺跡『リーヴィアの塔』の、地下壁面に残されたある図形が添付され、幾何学中級までに習う理論と法則を用いて、かの塔の建築時に用いられた構造力学を解説せよというものだった。
試験中、ピルゼンは吹き出しそうになった。件の図面は学者の中で永遠の謎とされており、そもそもその図形が『リーヴィアの塔』の建築に用いられた理論の一部である事すら、疑問視されていたものだったからだ。王国で一番高い建物である、かの塔を再現出来るなら、それは失われた古代技術の復活を意味し、今の王国の建築技術の革新に直結した。
幾何学の教諭たちは、この設問はただの嫌がらせだと断じ、解こうとすらしなかった。
学生時代を含め四十年以上、本学に在籍しているピルゼンをして、その試験は、自分がこれまで学んできた全てを洗いざらい吐き出させられるような内容であり、もし仮に、この試験に高得点を出せる学生がいたら、自分の権限で学位をやってもいいとさえ思った。
そして今、その試験である程度の得点を叩き出した学生たちが三十名、この小講義室に集まっているのである。その彼らに魔王が何を教授するのか……ある種恐ろしくも思った。
魔王は定時にやってきた。水色の鐘が鳴っていた。
しん、と静まり返る講義室の中で、魔王の靴が石床を鳴らす音だけがやけに響いた。
魔王は黒板を撫で、石灰チョークの長さが十分なことを確認したあと、教壇に立ち、三十名の生徒全員をじっくり眺め、いつもの、少しざらついた低い声でこう切り出した。
「過ぎた知識は他人の人生を狂わせうる。そして、口から出た言葉を取り消す魔術は存在しない。それが理解出来る者のみ、聴講を認める。理解出来ない者がいれば、この部屋を出ろ」
永遠にも思える沈黙のあと、魔王は言葉を続けた。
「講義を始める」
✳︎✳︎✳︎
「……以上、講義は終わりだ。レポートは次回の講義の時回収する。枚数は規定内、小さい字は認めん。俺は無駄に引き伸ばされた文章が大っ嫌いだ」
それだけを言うと、魔王はつかつかと壇上から降り、そのまま講義室を出て行った。
後には、唖然としたままの、三十名の学生と、一名の教授が残されていた。
魔王が開け放した扉の向こうで、青の鐘の音が鳴っていた。
「…………」
ピルゼンを含む受講生は全員、しばらく何も言えずほうけていたが、ある瞬間を境に、学生の一人が猛然とノートに羽ペンで何かを書き付け始め、後は皆、雪崩のようにそれに続いた。
水色の鐘から青の鐘までの間に、魔王が発言した内容をひとつも漏らすまいという確固たる意思が感じられる音だった。黒板には、火属性魔術で天候を操作するすべと、中級幾何学の公式のみで解説された『リーヴィアの塔』の建築にかかる力学理論が、整然と書かれていた。
学生の一人が、突如立ち上がって意味不明な言葉を叫んだ。
皆似たような気持ちだったので、誰もそれを咎めなかった。
それが、のちに『魔王学』と呼ばれる、伝説的な講義の第一幕の顛末である。
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