第四章 魔王と琥珀の夢
第二十二幕 時計の針先
「最後の最後に先輩を捕まえるのは、一体どんな女の子なんすかねぇ」
灰色の事務机の向かいに座る山崎に、突拍子もなくそう言われたのは、大学の、院の二年の初夏の夜、理学部D棟五階の端の、有機化学研究室で酒を飲んでいた時の事だった。
羊も帰る未明、研究室には俺と山崎しか居なかった。
「……いきなり何の話だ」
「先輩の大っ嫌いな、男と女の話っすよ」
山崎はそう言って笑い、手元のグラスに浮いた氷をからからと転がした。
グラスは昔から研究室に置いてあった、飲んだ事もない焼酎のロゴが入った安物だった。カルキが白い鱗のようにこびり付いているそのグラスに、生協で買ってきたかち割りの氷を入れ、近所のイカした酒屋で買ってきたウィスキーを入れて飲む……それが当時の、俺と山崎の夜の過ごし方だった。
その時のウィスキーの銘柄が何だったのか、はっきりとは覚えていない。
俺が日本を発つ前夜だったので、いつもより幾分、高い酒を飲んでいたと記憶している。
「おれ、先輩を射止めんのは、意外と外人の女の子じゃねえかなあって思うんすよね」
「外人の女の子? それ、俺が今回の旅先から、女連れて戻って来るかもって事か?」
「そうっす。先輩意外とモテるから、今回行く先で、現地の子に気に入られて、そのまま捕まっちまうんじゃねえかなぁって」
「馬鹿な。そんな無謀な真似しないし、例えどんなに言い寄られても、俺はずっと一人さ」
そう言って俺が手元の焼酎グラスを差し出すと、山崎はニヒルに笑って、グラスにウィスキーを注いだ。それはこの二年、俺と山崎の間で幾度となく交わされたやり取りだった。
「今だから言いますけど、おれ、最初、先輩の事、怖かったんすよ」
山崎のその告白に、俺は意表を突かれ眉を上げた。
「マジか。俺、お前を怖がらすような事したっけか?」
「いえ、いえ。ていうか先輩、おれらを怒った事なんか一度もなかったじゃないすか。指導も的確にしてくれるし、相談にも乗ってくれるし……おれら後輩みんな、先輩はめっちゃ優しい人だって思ってますよ」
「なら、尚更、なんで俺を怖いだなんて思ったんだよ」
「完璧だからっすよ」
「……完璧?」
俺は首を傾げていたと思う。完璧という二文字は、自分から最も程遠い形容に思えた。
「ありえないっすよ。成績良くて頭良くてリーダーシップ抜群で、教授からも学生からも好かれてて、研究内容は既に企業に目ぇ付けられてて、院二年の春先早々に超大手に就職決まって、卒論も殆ど書きあがってて、これから、大学最後の一年間丸々使って世界の蒸留所巡りの旅って……普通じゃないっす。先輩は、なんでそんなに、自分の目標に盲目的に、ストイックに生きれるんだろうって、おれじゃなくても思いますよ」
最初、それを冗談の一種と思って聞いていた俺は、言葉を紡ぐ山崎の真剣な表情に呆気に取られ、いつしか二の句が継げなくなっていた。
山崎とはこうして二年間、毎晩のように共に酒を飲んで馬鹿話を繰り広げてきたが、彼が俺の前でそんな表情を見せるのは初めてだった。
「でも、二年経って今になって、やっと見えて来たんすよ。先輩が普段他人に見せてる完璧な姿って、ホントは只の仮面で、ハリボテで、本当は、先輩も弱くて、人間臭くて、孤独な奴なんだって。でも、他の皆、誰もその仮面に気付かねえ。誰も、その孤独に手を伸ばさねえ」
「……買いかぶり過ぎだ。俺を褒めても酒しか出ないぞ」
「あざまっす」
にへら、と山崎が笑って、俺にグラスを差し出した。
俺はため息を一つ、机に置かれた瓶を取り、コルクを抜き、彼のグラスにとくとくとウィスキーを注いだ。蛍光灯で白々しく照らされた研究室に、俄かにスコッチ特有の、消毒液を思わせるヨード臭が広がった。山崎のグラスの氷はマグネットくらいのサイズにまで溶けていた。壁に掛かった無骨な時計の針の音が、他に音のない夜の部屋に、矢鱈と大きく響いていた。
「いつか、先輩のそういう弱さを、真正面から受け止めようとする人が……先輩と一緒に生きて行こうとする人が、現れると思うんすよ」
「……例えそんな人が現れたとしても、俺はずっと一人さ。そう決めてる」
そう答えると、山崎は酒を一口呷って、酒臭い息と共に言葉を継いだ。
「そりゃ無理っすよ。きっと先輩はその人の事を振り払えねぇ。先輩優しいもん。そんで、ちゃんと人並みに弱ぇもん。先輩の完璧な仮面は、その時、溶けちまう」
その時に限らず、山崎はそうして予言のような事を言っては、周囲の人を戸惑わせる事があった。四つも下のその後輩の、そうした性質にはすっかり慣れた積もりで居たが、その時は流石の俺も癇に障り、酒を飲む手を止め山崎を睨めつけた。
だが彼は訳知り顔に笑みを湛えて、俺の瞳を見返すだけだった。
「一人がしんどくなった時に、おれの今日の話、思い出してくださいよ」
そう言って、山崎はグラスを傾け、また一口酒を飲んだ。
その折、彼は左手に嵌めていた革ベルトの腕時計に目を留めた。
「うお、やっべ。先輩、もう、三時っすよ。出発、今日の便っしょ? こんな夜中まで研究室居て良いんすか?」
「いいや、そろそろ帰るよ。お前は?」
「おれはあと一杯だけ飲んで帰りますわ」
新しい氷を取りに冷凍庫に向かう山崎を見届け、俺は席を立った。そして隣の空席に置いていた鞄を取り、大きく伸びをしたあと、扉に歩いた。
「……ま、気をつけて行ってきてくださいよ。海外って、生水危ねえらしいから気ぃつけて。来年の卒業式前には戻ってくるんでしょ?」
「ああ」
「そん頃は先輩も就職、俺も
そんな言葉を聞き届けながら、俺は研究室の扉を開けた。薄暗い廊下には生緩い夏の空気が満ちていて、それはすぐさま腕にまとわりついてきた。俺は山崎のほうを振り返った。
「山崎、……二年間、ありがとな」
山崎は何も言わず、にかっと笑ってグラスを掲げた。
それを見届け、俺は後ろ手にドアを閉め、エレベーターに向かい歩き始めた。
……ふと、どこか遠くで、誰かが俺を呼んでいるように思った。
その夢は、そこで醒めた。
✳︎✳︎✳︎
「……ねえ、起きてよ。風邪ひくわよ」
肩を揺り起こされる感覚に、身体が次第に眠りから覚醒していった。
耳元に澄んだ声が聞こえた。良く聞きなれた、天界の民の声。
「んん……」
俺は寝ぼけ眼で周囲を見渡したが、状況が上手く把握出来なかった。
「……あれ、山崎は?」
「ヤマザキ?」
「……?」
俺は無意識的に声のする方を見上げた。その先にいたのは、先ほどまで話していたはずの山崎ではなく、金色の髪の美しい少女だった。こんな美人の知り合いは居なかった筈だ。
「もしかして、寝惚けてる?」
少女の首が傾げられるのをぼうっと見つめる事数秒、次第に働き始めた自分の頭が、現状を把握する。
純白のクロスが敷かれたテーブルの上に突っ伏して眠っていた自分、それを揺り起こしていた少女、D棟研究室の蛍光灯とは対極の、豪奢なランプと暖炉の炎に照らされた広い洋室。チリひとつ落ちてない真紅の絨毯。天蓋付きの清潔なベッド。窓の向こうの冬の夜更け。
そうだ。思い出した。
なぜ、ひと時でも忘れる事が出来たのだろうか。
ここは異世界で、俺は魔王で、彼女は……
「レゼル……」
シャトー・ディケムを思わせる高貴なる金色の髪の毛、ボーンチャイナよりも滑らかな白磁の肌。世界一の人形師が設えたのだとしか思えない並外れた美貌。
実は人間ではなく天界の民ですと言われれば普通に信じてしまいそうな、絶世の美少女。
魔王カランの、唯一の教え子。
そして俺の許嫁。
「あぁ、吃驚した……さっきの夢かぁ」
俺は両手で顔を拭った。
前世の夢を見たのは初めてだった。悪夢という訳でもなかったのに、鼓動は早まり、背中にじわりと汗がにじみ出た。まだ、日本の夏の夜の空気が腕にまとわりついているようだった。
「夢?」
「ああ。前世の夢だ。矢鱈とリアルでさ……一瞬マジで元の世界に戻ったのかと思ったよ」
「へえ、どんな夢だったの?」
興味深げにそう問うて、レゼルは俺の隣の席に腰掛けた。
彼女は先程まで着ていた黒いドレスから、白い絹のナイトガウンに着替えていた。シニヨンに纏められていた髪は解かれ、今は臙脂色のリボンで二つに結んでいるだけで、毛先は膝下に降りて遊んでいた。それでも尚、とても今日十六歳になったばかりとは思えぬ色気を醸していて、俺はまともに目を向ける事が出来なかった。
「この世界に来る半年前くらいの夢だ。大学……前世の最高学府で、後輩と酒を飲んでた」
レゼルはそんな俺の話に吹き出した。
「貴方、夢の中でもお酒を飲むのね」
目の前でくすくす笑うレゼルの姿を、俺はどこか狐につままれたような感覚でぼんやりと眺めていた。
本当に不思議な事があるものだと、改めて俺は思った。
D棟の研究室で山崎と最後の酒を飲んでから、まだ一年も経っていなかった。
なのに、いま目の前にいるこの少女は、そう遠くない将来、俺と結婚するのだと言う。
俺は目の前に置かれていた空のグラスに右手を差し出した。意識を集中すると直ぐに指先に透明の氷が生まれ、硬質な音を立ててグラスに落ちた。俺は続けさまに生み出した水でグラスを満たし、それを飲み干した。異世界で、こういう真似も出来るようになってしまった。
魔術で生み出された水は不純物の一切入ってない真水で、いつも期待そのものの味を舌に返してくれた。いつの間にか干上がっていた身体に、冷たい水が行き渡る感覚は何とも言えぬ心地良さだった。
そうして人心地ついて、俺は長く長く、苦しくなるまで息を吐き、心の中でこう呟いた。
――なあ山崎。流石のお前も、俺を捕まえる女の子が異世界人だとは思わなかったな。
ざまあみろ。
最後に一言、お前にそう言ってやりたかったな――
そうして、身体の中の空気の全てを入れ替えたあと、俺は隣に座るレゼルに向き直った。
「改めて、十六歳の誕生日おめでとう、レゼル」
「ええ。今日は来てくれてありがとう」
✳︎✳︎✳︎
その日は、年が明けてから二番目の家の日。
王都中央政令区内、貴族街の中心にある豪商シャルトリューズ家の屋敷にて、一人娘のレゼル・アーク・シャルトリューズの誕生日式典が行われた。
国中の名だたる王侯貴族がシャルトリューズ家に集まり、そうした来賓客全員に、俺の作った氷の葡萄酒が振る舞われた。彼らが酒を飲む姿を俺は恐々と眺めていたが、氷の葡萄酒は存外好評で、俺は胸を撫でおろした。
酒も食事もひと段落した頃、式場中央のステージにレゼルが登壇した。
金貨の肖像に描かれる国一番の美少女は、その日黒いドレスを纏い、ステージの上から、普段は決して見せぬよそ行き用の笑顔を振りまいていた。若い貴公子達は皆、顔を赤くして黙り込んでいた。しょうもない事だと自分で思うが、俺はちょっと誇らしい気持ちになっていた。
悪夢はそこから始まった。
壇上のレゼルは来賓への挨拶もそこそこに、先程振舞われた氷の葡萄酒がどの様な経緯で皆の手元に届いたか、その物語に尾ひれと背びれとお頭を付けて流麗に語ってみせたのだ。立て板に水を流すように、レゼルは、俺が初めて彼女にその葡萄酒を振る舞った時の思い出話をロマンティックに話して聞かせ、その間、延々俺を褒め倒したのである。
挙句レゼルは、壇上を降りるやすぐさま俺の隣にやってきて、ごく自然な仕草で腕を絡めてきた。それから式中、彼女は頑として俺の側を離れようとせず、俺は会場に居た貴族達の好奇と怨嗟の視線に二時間近く耐えねばならなかった。豪華な食事は喉を通らず、手洗いに行くと伝えた俺は、ほうほうの体で二階に充てがわれた自室に逃げ込み、今に至るという訳だった。
「もう式典も終わっちゃったわ。貴方がお手洗いから戻って来なかったから、心配したのよ」
「それは悪かったよ。でもこっちのストレスも限界だったんだ。レゼルの隣を歩くだけであの羨望と嫉妬の嵐……貴族の集まりは二度とゴメンだ……」
式典会場はまさしく針の筵だった。国にその名を轟かす『氷の姫』の人気を、俺はその肌でまざまざと実感させられたのだった。あと、俺の衣装も良くなかった。
「そもそもなんなんだ……この妙な扮装は」
「貴方、社交界ではほぼ初お目見えだったんだもの。いつもの地味なコート姿じゃ全然目立たないから、何か魔王っぽい格好させなくちゃって、メイド達が用意したの。似合ってるわよ」
「何処の世界でも、魔王の襟は立ってるんだな……」
俺は式典中自分が着させられていた、魔王っぽい格好を見下ろしてため息を吐いた。自分がファッションに無力だからと、衣装を全て屋敷のメイドさんにお任せしたのは失敗だった。
そうしていた時、ふと、俺は内側のポケットに仕舞っていた物の事を思い出し、それを取り出してレゼルに差し出した。
「そうだレゼル、はい、これ」
「……?」
それは携帯電話くらいのサイズの小箱だった。数日前、貴族街の洋装店で買い求めたもので、今日のために準備していたが、本日の主役であるレゼルと二人で会話する時間も無かったため渡せず仕舞いでいたものだった。レゼルはきょとんとした顔でそれを受け取った。
「……開けていいの?」
「勿論。どうぞ」
レゼルはその白く細い指で小箱の包みに手を掛けた。包装紙の蝋を剥がし、紙に皺が付かぬようゆっくりした挙措で包装を剥がしていった。そして、箱の中に、銀の刺繍の入った紺碧のリボンがあるのを認め、再び俺に問うてきた。
「綺麗……でも、なに、これ」
「なにって、プレゼントだよ、誕生日の」
「誕生日プレゼントなら、氷の葡萄酒と水晶のグラスを貰ったじゃない」
「俺もそう思ったんだがな。流石に今日、手ブラでこの家に来るのもどうかと思ってさ……まあ、気が咎めるならお祝いと思ってくれ。魔学上級講座の選抜試験、一位通過おめでとう」
俺はそう答えた。
王都の最高学府、エレヴェンス・ギルト王立上級学校にて、来週から『魔学上級』なる講義が開講される。俺はその講義に、教授として登壇する予定となっていた。
この講義は、本学に既にある人文学・神学・法学・医学に並ぶ五つ目の上級科目として位置付けられており、クラスの中で優秀な学生がいれば講義後も俺が指導し、一定以上の成果を残した学生には、学長と国王と俺の連名で学位が与えられる、そういう話も検討されていた。
「それにしても、魔学の学位なんてなんの役にも立たないもの、一体誰が欲しがるのかねえ」
「役に立つのは貴方とのコネクションでしょう。この王都で生きて行く上では、ね」
「じゃあ、お前が学生達に紛れて受講を申し込んだ理由は?」
俺がそう尋ねると、レゼルはさも楽しそうに笑って、こう返してきた。
「貴方が教壇でどんな話をするのか気になったからよ。楽しみにしてるわ。魔王さま」
俺はその講義を行うにあたり、本学側にひとつの条件を出していた。
試験による受講者の選抜である。俺自身が中級過程の教科書から試験問題を作成し、希望者全員にそれを解いて貰い、受講資格は一部の成績上位者のみ与える、そういう条件だった。
年が明けてまもなく、選抜試験は王立学校の大講義室で実施されたのだが、試験後、集まった答案を見て俺は驚いた。山と積み上がった答案紙の中には、なんと学生じゃない筈のレゼルのものが紛れており、しかも採点したところ、彼女は満点に近い数字を叩き出したのである。
幾何学の設問に至っては、俺は、前世でいうと東大・京大入試レベルのものを出した積もりだったのだが、受験者で唯一、彼女だけは正解して見せたのだった。
……ちなみにカリラは二位通過だった。採点していて俺は鼻高々だった。
「ところで、受講希望者、全部で何人だったの?」
「三百二十六人」
それを聞いたレゼルは、心底面白そうに「大人気じゃない」と笑った。
「それで? そのうち、貴方の講義を受講する栄誉を手にした学生は何名かしら」
「三十名だ」
「ふうん」
俺はその倍率に苦言を呈されるかと思ったが、レゼルの感想はその逆だった。
「魔王の叡智を授けるには、三十はちょっと多すぎる人数じゃないかしら」
「別に大それた内容を話す積もりはないよ」
「それなら、あんな厳格なテストで人を選り分けたりしないでしょう、貴方は」
レゼルのその物言いに、俺は内心舌を巻いた。彼女の指摘は的を得ていた。
レゼルは、いつの間にか机の上に置かれていた酒のコルクを抜き、二つのグラスに葡萄酒を注いだ。口開けの瓶からとくとくと注がれる葡萄酒は、グラスの底に溜まっていき、その一瞬に蜜のように甘やかな香りを、静かな部屋の中に咲かせた。
酒もグラスも、俺が寝る前には無かったので、どうやら彼女は俺と寝酒を楽しもうとして、この部屋を訪れたものと思う。
危険だから、こんな夜中におっさん一人の部屋に来るもんじゃありません……そんな言葉が喉元まで出かかったが、レゼルはこの世界では立派な成人で、貴族であれば結婚していても可笑しくない年齢で、そもそも俺とレゼルは許嫁なのだった。彼女がこうして俺と夜を過ごすのは、この世界では至極真っ当な事なのかもしれなかった。
レゼルは手元のグラスをくるくると回し、葡萄酒を空気に触れさせた。それが、夢の中にいた山崎の仕草と妙に重なった。
レゼルはグラスの葡萄酒で舌を湿らせ、どこか遠くを見つめたまま、こう尋ねてきた。
「貴方は、その頭にある異界の知識で、この世界の時計の針を進めようとは思わないの?」
「……時計の針が向かう先は夜だよ」
それだけを、俺は答えた。
俺は、この世界での地位や名誉や金に一切の興味は無かった。蒸気機関も、電気も、ハーバー・ボッシュ法も、コンピュータも……例えカリラやレゼルにだって、教える積もりはなかった。それらはこの世界の人々が、これから数百年を掛けて、広漠な砂の中から見つけ出してこそ輝くべきもので、俺のような異邦人が横槍を挟んで良いものではないと考えていた。
俺のその返答は、あまりに言葉足らずだったかと思ったが、レゼルにはそれで十分だったようで、彼女は静かに笑って葡萄酒のグラスに口を付けるだけだった。
「あたし、貴方のそういうところ、好きよ」
そう言ってレゼルは微笑み、先程俺が渡した箱から、リボンを取り出し優しく撫でた。
その笑みは、つい先ほどまで下階の大広間で見せていたきらびやかな外向きのものではなく、飾り気ない、年相応の、朴訥とした笑みだった。
この子はだんだん綺麗になる……その顔を見て、俺は思った。
時折、ごくごく稀に、そういう女性が存在する事を、俺は知っていた。
それは容姿の華美や出自の優劣によらず、ただただ、魂の高潔さでのみでもって、人の心に訴えかける美しさだ。年老いて尚、一層に磨かれてゆく類のものだ。レゼルの内包する美しさは、言わばそういうものだった。性別を問わず人を魅了する、魔物のように捉えがたい不可視の力だった。
俺はうまくレゼルの方を見る事が出来ず、彼女に注いで貰った酒を一口飲んだ。
舌はまだ、夢の中のウィスキーの味を覚えていて、レゼルのために作ったはずの葡萄酒の味は、その時の自分には些か甘すぎた。
「このリボンは、三つ目の誕生日プレゼントとして、受け取っておくわね」
――誕生日プレゼント。
レゼルのその言葉に思うところあって、俺はしばしの逡巡を経て、彼女にこう切り出した。
「なあレゼル。レゼルはさ……カリラの誕生日って、知ってるか?」
俺のその問いに、レゼルは表情から笑みを消し、居た堪れないような顔でこう返した。
「……お察しの通りよ。あの子はご両親の顔を知らない。自分の誕生日も、知らないわ」
「やっぱ、そうだったか」
俺は自分の推測が正しかった事に少しだけ安堵した。
危うくカリラに尋ねて、彼女に悲しい思いをさせるところだった。
「なあレゼル、それならさ、今度また、この前の年末のパーティみたいに、カリラの誕生会を開かないか」
「いいわね、それ」
レゼルは身を乗り出すように、俺の提案に応じてくれた。
瞬きをすれば音を立てそうなほどに長い睫毛が、俺の目のすぐ先で艶やかに光っていた。
リボンと同じ色の、深い深い紺碧の瞳に、自分の冴えない笑顔が写り込んでいた。
「そうしたら、またあのケーキ焼いてくれる?」
「ああ」
レゼルは先日のケーキをいたく気に入ってくれたらしく、俺の快い返事に顔を綻ばせた。
なんと手間の掛かる事だろう。俺はまた数日を費やし、カリラとレゼル、二人のお姫様のために、異界のケーキを準備する事と相成った。
その折、俺はカリラに何をプレゼントしよう。レゼルには、葡萄酒と、クリスタルのグラスとリボンをあげた。それならばあの子にも三品あげようじゃないか。あの子が最も喜ぶものはなんだろう。あの子はどうすれば、一番笑ってくれるだろう……
「ねぇ、カラン」
「うん?」
「貴方、前の世界では妻がいたのかしら」
「……へ?」
突如、レゼルから差し向けられたその問いに、俺は面食らって間抜けな声を返した。
「いいや。妻どころか恋人もいなかったけど……一体なんの話だ?」
「……隔たりの、話よ」
「?」
そうぽつりと呟いて、レゼルは自分の髪を結っていた臙脂色のリボンを解いた。
しゅるり、と布地が擦れる音をひとつ残して、レゼルの金色の髪は放たれた。
「産まれた時からあたし達の間にある、世界を分かつ壁よりも、ずっと遠い隔たりの話」
髪は自重に逆らわず、白いガウンに包まれた、彼女の胸の膨らみの上に落ち着いた。
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