第二十一幕 年末祭



「なあ、カリラ」

「なんですか、先生」

「カリラは俺に、何か隠してることがあるんじゃないのか」

「えっ」


 俺がカリラにそう問うたのは、明後日に年明けを迎えようという年末の、朝食の席での事だった。

 雲も風も少なく、キッチンには窓から柔らかな朝の陽が差し込んでいた。

 カリラは俺のその問いに明らかに動揺した。ビンゴである。


「な……なんの事でしょうか、先生」

「しらばっくれても無駄さ、カリラ。もう裏は取れてるんだ。隠しておきたい気持ちも分かるけど……教えてくれないか? 勿論、ここで聞いた事は他の誰にも言わないから」

「で、でも」


 カリラは幾ばくか顔を赤らめ、切なげに目を逸らした。

 彼女がそれを隠そうとしている理由はよく分かる。でも、俺はそれでは満足出来ないのだ。


「さあ教えてくれカリラ。……ここで料理作る時、一体なんの調味料を使ってるんだ?」

「……へ?」


 一転、カリラはきょとんとした顔で、俺の顔をまじまじと見つめた。

 俺は手元の皿に目を落とした。

 その日の朝、食卓に出ていたのはチーズとベーコンを乗せたトーストだった。

 ちなみにお茶は安物の葉っぱだ。キッチンの棚にはシャルトリューズ印の高級な茶葉がまだ残ってるが、勿体ないので二人のときは使わない。それが俺とカリラの決めたルールだった。


「調味料もなにも……今日のこの朝ごはんはお塩すら振ってませんよ」

「それは嘘だ。こないだの夜、酒のアテに同じものを作ってみたが不味かったんだ。材料も全く同じものを使ってる筈なのに……カリラが作る方が何倍も美味いんだ。何かファンタジックな調味料を使ってるんだろう? 教えてくれよ」


 それを聞くと、カリラはむうと頬を膨らませた。かわいい。


「……先生、夜更かししちゃいけません。薪だってタダじゃないんですからね。それに、お酒も夜食ももうちょっと控えてください」

「お、おう」

「先生、最近ピルゼン教授とマノン先生と毎晩のように飲んでるでしょう。程々にしておかないと身体に障りますよ」

「すみません」


 俺は素直に謝って、トーストを齧った。

 やはりどう考えても、それは自分が作るより数段美味かった。

 やはりカリラは何らかの調味料を秘匿している。今回ははぐらかされたが……続報を待て!


✳︎✳︎✳︎


 その日は夜に、知人を招いて、俺の部屋で年末のパーティを催す予定だった。

 朝食を終えたあと、俺とカリラは買い物に出掛けた。いつもの学生向けの市場ではなく、貴族街へだ。そこで予め特注していた新鮮な鶏肉や卵や生乳を引き取り、代金を払っていった。


「せ、先生、未だかつてないくらいの散財ですね……」


 出費が割ととんでもない額になったためか、カリラは恐れおののくような声でそう言った。


「まあ、たまにはこういうのも悪くないよ」

「そうでしょうか……私、なんだかとっても悪い事をしてる気分です」

「別にカリラが無駄遣いをした訳じゃないだろ。それに、ここで買った食材はみんなカリラ達を労うためのものなんだから、俺にとっては、無駄でもなんでもないよ」


 俺のその返答に、カリラはぱちくりと大きな目を瞬かせていた。



 正午を示す緑の鐘が鳴る頃に、俺とカリラは部屋に戻ってきた。

 昼食を簡単に済ませ、パーティで出す食事の下拵えをしていると、ピルゼン教授がやってきた。


「おおカリラ君、もう来ていたのかね」

「こんにちはピルゼン教授。随分お早かったですね」


 カリラはごく自然な動作で、ピルゼン教授からコートを預かり壁に掛けた。


「んふふ、魔王陛下が腕を振るった夕食と酒が振舞われるのだよ、もう仕事なんて手に付かなかったよ」

「こんなに早く来て貰っても、始まるのは夜からっすよ、ピルゼン教授」

「構わん構わん。ささ、まずは魔王麦酒を一杯貰おうかな」

「よ、る、か、ら、です。ピルゼン教授」


 カリラが笑顔でぴしゃりと言い放ち、ピルゼン教授は泣きそうな顔で黙り込んだ。

 俺は台所で小麦粉を振るいながら、笑いをかみ殺していた。



 黄色の鐘が鳴る頃に、レゼルとグラン氏がやってきた。


「おおグラン、久しいの」


 グラン氏を見るや、机の上でカリラに勉強を教えていたピルゼン教授が嬉しそうな声で彼に話しかけた。


「ピルゼンか! どうしてここに……まさかお前も、魔王陛下の客か?」

「応とも。まさかグランも、魔王麦酒に魅せられた一人だったとはな」

「魔王麦酒……ほお」


 グラン氏の目がきらりと輝く。その間も彼の身体は執事として淀みなく動き、レゼルの帽子と上着を預かり、レゼルのためにカリラの隣の椅子を引き、それが終わったあとに、キッチンでクリームを泡立てている俺の元にやってきた。


「魔王陛下、その魔王麦酒とやら、当然私の分もありましょうな」

「グラン殿、あなた、仕事は」

「今宵は目こぼし願いたい。実を言うと、私も貴殿の作られる酒に興味深々だったのですよ」


 にやりと笑うグラン氏に、俺は苦笑してこう答えた。


「夜からですよ、グラン殿」


 レゼルはカリラと他愛ない話に花を咲かせていて、彼女は早速に、机に置かれていたカリラ手製のクッキーに手を伸ばしていた。



「まさか、ピルゼン教授とグラン殿がお知り合いだったとは思いませんでした」


 一応の完成を見たクリームを丁重に冷蔵庫に仕舞い込み、オーブンが温まるのを待つ間、俺も机に座り会話の輪に入り込んだ。


「グランとはこの王立学校時代の同期なのだよ。ともに人文学を専攻していて、学位を取った後、僕はこの学校に残り、グランはシャルトリューズ家に戻った。魔王陛下、こやつはな、生まれた時からシャルトリューズ家の当主付きで、二十過ぎで宰相まで上り詰めたエリート中のエリートだ。こいつがなぜ、その宰相から、レゼルお嬢様の執事になったか、知っとるかね」

「口が過ぎるぞピルゼン。やめないか。お嬢様の御前だぞ」


 グラン氏は苦々しそうに教授にそう言ったが、


「いいじゃない。構わないわ。続けて頂戴ピルゼン教授」


 楽しそうに身を乗り出したレゼルのその言葉を受け、ピルゼン教授は話を続けた。


「こいつが五十を迎えた時に、当主から何か一つ褒美をやると言われたこの男はな、なんと宰相を降りてお嬢様専属の執事にしろと、当主に言い放ったのだ。この男が主人と屋敷を巻き込む大喧嘩をしたのは、後にも先にもそれだけよ」

「へええ」


 ピルゼン教授の口から語られるグラン氏のその話は、実はずっと前から俺が気になっている事だった。

 グラン氏が屋敷の宰相を降りたのは自分の意思でだったとは……無論、その理由がこの場で語られる事はないだろうが、彼のその行動の背景には、『氷の姫』とさえ呼ばれた幼少期のレゼルを想う老婆心のようなものがあったに違いなかった。

 レゼルは幼い頃のそんな異名を感じさせない快活さで、ピルゼン教授の芝居がかった語りにけたけたと笑い転げていた。


 グラン氏ははぁぁとため息を付き、カップに残る紅茶を飲み干したあと、口を開いた。


「魔王陛下、これは私とピルゼンがこの学校の上級過程にいた頃の話ですが、同期にシャリアという美しい娘がおりましてな」

「げげっ、グランお前、なぜその話を!」


 すかさず攻守一転、グラン氏は朗々とした口調で、ピルゼン教授の若き日の失態を語り始めた。実際、口を開くとグラン氏の舌は落語家のように滑らかに動き、笑すぎて動けなくなったカリラの代わりに、俺が新しい紅茶を淹れるべく台所に立つと、すっかり忘れていたオーブンの中の薪が燃え尽きていて、もう一回温め直す羽目になった。



 赤い鐘が鳴った頃、マノン先生がやってきた。 


「すみません、わたしが最後でしたか」

「大丈夫ですよマノン先生、気の早い人が多すぎるだけですから」


 俺はマノン先生の上着を預かる。

 レゼルはカリラと一緒に、焼きあがったスポンジケーキを眺めていたが、


「ちょっと、ちょっと」


 マノン先生の姿を見るや、これまでとは一転不機嫌になり、俺の腕を取って書斎まで引っ張った。

 そしてキッチンにいる全員から十分な距離を取ったところで、俺を睨みつけ問うてきた。


「……なんであの女の人が居るのよ」

「あの女の人って、マノン先生の事か? 何人か知り合いを呼ぶって言ったろう」

「それが砂の女だなんて聞いてないわよ」

「砂の女とは」


 聴きなれぬ表現に俺は少し困惑したが、マノン先生は毎週砂の日に回覧板を届けに来るから、レゼルは心中彼女をそう呼んでいたものと思う。

 思い返すと、レゼルはマノン先生が回覧板を届けに来るとき何度かこの部屋に居たな。

 そんで、先生が来るたびに決まって不機嫌な顔をしてたな。


「貴方ね、認めてないかも知れないけれど、一応あたしの許嫁なんだから、あんまり浮ついた真似しないでよね。家の体裁もあるんだから」


 レゼルはそれだけを言うと、再び俺をきっと睨みつけ、キッチンに戻った。

 俺は書斎をきょろきょろ見渡し、何か彼女のご機嫌を取るものはないか探す事になるのだった。



 結局の所、おっさん達は酒が待ちきれず勝手に冷蔵庫を開けて飲みだして、女の子たちはきゃあきゃあ言いながらケーキの生地にクリームや果物を盛り付けだして、俺は俺で鶏肉を揚げたり芋を揚げたり大忙しだった為、乾杯だの挨拶の口上だの、そうしたものは一切不要だった。


「こ、これはたまらんな」


 揚げたてのフライドチキンを齧ってはよく冷えた麦酒を飲み、ピルゼン教授はこの世にこれ以上の愉悦はないと言わんばかりに一人で騒いでいた。


「うむ、うむ」


 グラン氏もクールを装ってはいたが、手元は引っ切り無しに麦酒に摘みに手を伸ばし、この時間を楽しんでいるように見えた。


「魔王様、魔王様、このケーキ、すっごいです! どうやったらこんなに、ふわふわのケーキが作れるんですか? それにこの周りのクリーム、ううん」


 マノン先生は皿に切り分けられたクリームケーキを一口摘み、幸せそうに目をぎゅっと閉じた。


「これ、もしかしたら、王宮のお菓子より断然美味しいんじゃないですか!?」


 まるで少女のように目を輝かせてそんな事を言われると、俺も悪い気がしない。

 いとけない彼女の様子に口元が綻んだ瞬間、俺の頬がレゼルにきゅっとつねられた。


「いっ!」

「にやにやしないの。でも実際このケーキ、王宮で出てくる国賓用のお菓子より美味しいわよ。スポンジのきめ細やかさもそうだけど……真骨頂はこのクリームよ。本当にどうやったら作れるの?」


 レゼルは純粋に楽しむというよりも検分する評論家のような具合だった。

 しかし口の端にクリームが付いたままだ。かわいい。


「レゼルちゃん、口にクリームついてるよ」

「うん」


 カリラが笑いながらレゼルの口元を拭う。レゼルはされるがままにカリラに顔を向け、口元が綺麗になると再び料理の検分を再開し、時折にグラスに注がれたチェリービールを飲んでいだ。


 検分と言えばグラン氏も始終そんな具合だった。

 彼もまた、手元の麦酒を口に含んではふむと考え込むような素振りを見せていた。金持ち一族の癖なのだろうか。


「初めて飲みましたがこの麦酒は素晴らしいですな。魔王陛下、この酒は、普段この国で作られている麦酒とは何が違うのですかな」

「麦の糖分を酒精に変える酵母の種類と、その過程の水温が関係しています。下面発酵というのですが、具体的には……」


 俺はグラン氏に問われるまま、この自慢の生ビールがどのようなプロセスで生まれたかを存分に語ろうとしたが、そこにピルゼン教授が「まあそんな細かい話は良いじゃあないか」と割って入り、マノン先生の尻を撫でようとしてグラン氏に腕を捻りあげられ、カリラに冷たい目で見られてしゅんとなるまでの間抜けなやりとりが行われたりした。


✳︎✳︎✳︎


 酒も料理も十分に用意した積もりだったが、それらは喧騒のうちにあっけなく六人の胃の中に納まってしまい、目出度くお開きとなる頃には、部屋の外はすっかり寝静まった後だった。

 俺とカリラは、皆が帰った後のキッチンで、並んで洗い物をしていた。

 洗うのは俺。食器を拭きあげるのはカリラ。それは俺が決めたルールだった。


「ごめんねカリラ、最後の最後まで付き合わせてしまって」

「良いですよ」


 手元の布で丁寧に食器を拭き上げながら、カリラは穏やかな笑みを湛えそう返した。

 俺は随分酒に酔っていた。食器を洗う手つきはおぼつかず、時折食器同士がぶつかり嫌な音を立てていた。だがカリラは文句ひとつ言わず、洗い物に付き合ってくれた。


「……先生」

「うん?」


 つい先程まで、この世で最も喧しい場所にさえ思えた研究室のキッチンは、今はただ、水と薪の音が響くのみだった。そんな静かな空間にあっても、俺を呼ぶカリラのその声は、聞き逃してしまいそうな程小さかった。


「……私、やっぱり、先生とこうしている時間が、一番好きです」

「……そっか」

「ですから、もう少しだけ、あと少しだけ……あなたの隣にいても、良いですか」

「うん。……うん」


 噛みしめるように、俺は二度頷いた。


 ――ずっとでも、良いんだよ。


 そんな言葉が喉元まで出掛かっていたが、それを言っていいものかどうか、酔った頭では分かりかねた。

 自分の心が凪いでいるようにも跳ねているようにも思えた。酒を飲んだ事を、少しだけ後悔した。

 いや、もしかしたら、カリラは俺が酔っているからこそ、その言葉を口に出したのではないか……。


「先生、眠いんでしょう」

「……分かるかい」


 そう返すと、隣からくすくすと笑う声が聞こえた。


「分かりますよ。いつも見てますから」


 カリラの声は、夜の静寂に溶け込むように消えていく。


「お片づけの続きは、また明日にしましょうか」

「……そうだね」


 また明日。

 カリラは明日も、ここに居てくれる。

 暖炉の薪はまだ燃えている。


 夜はしんしんと降り積もる。

 そう間も無くに年が明ける。

 この、世界の果てよりも遠い場所に、新しい年がやってくる。

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