第二十幕 雪の降る街
王都に本格的な雪の季節が訪れていた。
裏庭も、校舎の壁面も、監視塔も、その向こうの雑木林も……窓から見える景色の全てが、灰色の空から降る新雪によって白く塗りつぶされていた。
カリラは授業に出ており、レゼルも来ておらず、俺は書斎で一人、カラン・マルクの残したノートを読んでいた。
雪の積もる音さえ聞こえそうな部屋の中に、自分がノートを繰る音だけが断続的に響いた。
そして、手元のノートの最後の一ページを読み終えて、俺は小さくため息をついた。
「やはり、無い」
俺はノートを書棚に収め、隣のキッチンから薪を一本持ってきて、暖炉にくべた。
暖炉の中の燃えがらが、新しい薪に押しつぶされ白い灰を吹いた。
俺は振り返って、壁一面に設えられた書棚を見た。
初めてこの部屋を訪れたとき、床一面に散らばっていたノートたちは、この三ヶ月の間にすっかり整理され、研究カテゴリ別に並べられ、行儀よく書棚に並んでいた。
俺が『異界の魔王』カラン・マルクによってこの異世界に転生させられ、三ヶ月が経った。
俺は時間の許す限り、彼の残したノートを読み、彼がこの部屋で過ごした六年余の軌跡を追憶し、そしてつい今しがた、書斎に残されていた全てのノートを読み終えた。
だが、結局、彼のノートの中で俺が最も読みたかったもの……つまり、平行世界の存在証明、および、異世界への転生について記された秘術の論文はついに見つからなかった。
この世界で一般に流布している回復魔術。その時間経過作用を幾度も発展させて、カランがかの理論を組成した事は想像に難くない。
だから俺は、その理論を現実に行使するための、複雑な呪文であるとか、難解な魔法陣であるとか……そうしたものが記載されたノートが、この書斎にあって然るべきと考えていた。
それがないという事は、件の論文は術式行使の前にカラン本人が処分したと考えるべきだ。
そこから出てくる推論は一つしかない。
「転生の秘術は、カラン以外の人間にも再現出来るのか? だから彼は、自身が旅立つ前に、論文を全て処分したのか?」
そして、その先に見えてくる事実に、俺は一人息を飲んだ。
「もし仮に、俺が、彼の理論を再構築出来たなら、俺は元の世界に帰る事が出来るのか?」
暖炉にくべた新しい薪に、ようやく火が燃え移って、大きく爆ぜて音を立てた。
✳︎✳︎✳︎
暖炉の火を消して、すっかり冷めた紅茶を飲み干し、安物のカップを洗い、コートを羽織り、財布を手に取り、ランプを消したところで、部屋のノッカーが鳴らされた。
「あ、はいはい」
俺は扉へ向かう。
マノン先生か、ピルゼン教授か……この部屋を訪れる人は限られているため、俺は来客が、その二人のどちらかだろうと当たりをつけ扉を開けたが、来客はそのどちらでもなかった。
「こんにちは、カラン」
「レゼルか……どうしたんだ、こんな天気の悪い日に」
「天気の悪い日に来ちゃ駄目かしら。貴方こそどうしたの? その格好。出掛けるの?」
開けた扉の向こう側で、レゼルが首を傾げた。
その日のレゼルは、濃い灰色の皮のコートに身を包み、同じ色に染めた羊毛の帽子を被っていた。帽子から伸びる金色の髪は濡れているように艶やかで、作り物めいた鼻梁が寒さで少し赤くなっていた。編み上げのブーツの上に、少しだけ雪が積もっていた。
「ああ。てっきり今日は来ないかと思ってさ……少し買いたいものがあったから、今から出掛けようと思ってたところだ」
「そうなんだ……じゃあそれ、あたしも付いて行くわ」
レゼルのその返答に、俺は面食らった。
「別になにか面白いものを買いに行くわけじゃないぞ」
「気にしないわ。一緒に行っちゃ駄目?」
「いや、そんな事はないけどさ」
「なら良いじゃない。行きましょう」
こちらを真っ直ぐに見つめる紺碧の瞳が、白い息で僅か霞んだ。
俺は一つ息をはき出して、レゼルの肩に積もり始めた雪を払った。
✳︎✳︎✳︎
「だから、鶏肉でしょう? そこに置いてある塩漬けのやつじゃ駄目なんですかい?」
「いや、欲しいのは、普段潰さない若い鶏だ。それをそのまま、塩漬けせずに運んで欲しい」
「そりゃあ……一応明日の仕入れのときに聞いてみますがね、いやはや、魔王様も酔狂をしなさる。どんな宴の用事かは知らんが、そんな品、一羽で銀貨何枚になるやら」
肉屋の親父は呆れたように笑って、俺から前金を受け取りつつも、俺の隣に立つレゼルの姿をちらちらと覗き見ていた。
レゼルは我関せずと言った風に、店の天井に吊り下げられた豚の塩漬け肉を眺めていた。
街のどこへ行っても、レゼルは周囲の目を引いた。
金貨の肖像に描かれているレゼルは、この王都に住む殆どの人が金貨など使った事がないにも関わらず相当な知名度であり、また彼女の正体に気付かない残りの人たちも、彼女の美貌に視線を釘付けにされていた。
レゼルを見た人々は皆、そうする事が何かの定めであるかのように、続けざまに、隣を歩く俺を見た。
人の視線に慣れていない俺はそれがどうにも居た堪れず、時折足早になってしまい、その度にレゼルに叱られた。
「貴方、王族に食事を出す予定でもあるの?」
肉屋を後にして、王都の中心部である貴族御用達の高級市場を歩いていると、左隣を歩くレゼルに怪訝な声でそう問われた。
カリラよりも少しだけ近い目線の先で、レゼルは手袋に包まれた自分の指先を顔の前に持ってきて、はあぁと息を吐き、自らの頬を温めていた。
「若鶏ってのはそんなに贅沢だったかな」
「それはそうでしょ。鶏肉もだけれど、さっきから、搾りたてのミルクとか、白砂糖とか、黒胡椒とか、小麦粉とか……結局、貴方が欲しがってたもの、全部特注だったじゃない」
「俺も、ここまで困難な買い物だとは思わなかったんだよ」
俺は前を向き、言い訳のような返事を呟く。
さく、さく、という音を立て、俺とレゼルの靴底が、街路の雪の結晶を砕いていく。
俺は前世のクリスマスで、研究室の馬鹿どもと過ごしていた時よろしく、フライドチキンとクリームケーキで、この世界での年末の夜のひとときを楽しもうと考えていた。
だが実際蓋を開けると、この世界には、鶏肉は老いた鶏をつぶした塩漬けのものしかなく、卵は高級品の癖にいつ産まれたのかも怪しいもので、胡椒も風味の消えかかった粗悪品しかなく、小麦粉は当然のように高価な輸入品で、生クリームに至っては自分で生乳から分離させて作るしかないのだった。
だから俺は、たった一晩の夕食の準備のために数日を費やさねばならなかった。
とはいえ、この頃の俺は、来年始めのレゼルの誕生日式典で出す葡萄酒の準備にもあらかたの目処が立ち、カランのノートも読み終えてしまっていたので、やる事と言えば、夜な夜な部屋を訪れるピルゼン教授とマノン先生に酒とつまみを出すくらいのものだったから、たまには料理に時間を掛けて、日頃世話になっているカリラ達をもてなすのも悪くないと考えていた。
「ふうん、……その食事会って、カリラと二人でするの?」
俺のそんな計画に対するレゼルの問いかけは、ちょっと拗ねたような声色を帯びていた。
「いや、出来ればレゼルにも来て欲しいと思ってるよ。あと何人か、知り合いを誘おうと思ってる。シャルトリューズ家の年末は忙しいかもしれないけど、どうかな」
「そっちに行くわ。家のパーティーなんて、どうせ王族の人とダンスするくらいだもの」
「いや、そのパーティーはさすがに出とけよ」
レゼルは根気よく俺の買い物に付き合ってくれた。
俺は前世でも女性と連れ歩く事などそうなかったので、どうにも勝手が分からず、レゼルのために服屋だとか宝石屋だとか本屋だとかに入ろうかと尋ねたが、彼女は別に良いと答えるばかりで、始終、俺の買い物の様子を眺めていた。
買い物のあと、俺とレゼルは大通りの一角にある喫茶店で茶を飲み、足を休めた。
店の奥で演奏家たちが直に弦楽器を弾いているような高級店で、紅茶と砂糖菓子を頼んだだけなのに、銀貨八枚も取られてしまった。
しかも紅茶は、部屋でカリラが淹れてくれるものの方が数倍も美味いのだった。
「ねえ、カラン、異世界のこと、教えてよ」
その喫茶店で、弦楽の音に耳を傾けていた折、向かいの席で菓子を摘んでいるレゼルにそう問われた。真紅のソファはふかふかで、紅茶のカップはまだ王都に出回り始めたばかりの白磁器だった。
店の経営者は俺とレゼルの姿を見るや、すぐに人目の付きにくい奥の席に俺たちを案内してくれた。そういう気配りが出来るあたり、さすがは貴族街の喫茶店といったところだ。
「異世界か」
レゼルの言葉は不思議な響きをもって、弓が弦を撫でる音より滑らかに、俺の耳に届いた。
たった三ヶ月。
もう、三ヶ月。
カラン・マルクの六年間を読み終えた日。
雪の舞う年末の異世界で、教え子の女の子と、他愛ないデートをした日。
元の世界を異世界と呼ばれた事に、違和感を覚えなかった日。
「色々と考えたり、悩んだりしたけれど、多分、異世界って奴は、レゼルが思っているほど、素敵なものでも、酷いものでもなかったよ」
「…………」
レゼルは答えず、俺の次の言葉を促した。
この部屋には俺とレゼル以外に誰も居ない。
弦楽の音は、一枚の壁を隔て異国の音楽のように響いている。
「魔術も魔物もない。文明はこの世界よりもずっと進んでいて、先人たちが作った機械と時間としきたりに囚われている。農作に必要な窒素が化学的に作れる事が証明されていて、あらゆる生産が効率化され、人口はこの世界の数百倍はある。生まれた場所が良かったら、貴族でなくとも、清潔な暮らしと上等な食事を得る事が出来る」
白磁のカップを手に、俺は窓を見る。
ガラスの向こう側に銀色の街が見えている。人と馬車が足早に行き交っている。
「でも、それだけさ。結局のところ、人が人と生きて行くという大原則は何ら変わりない。でも、俺が暮らしていた世界は、その原則が見えなくなるくらい、豊かで、多忙すぎた」
俺はカップを置き、小皿の菓子をひとつ摘んだ。
銀貨八枚もした菓子は甘すぎる上に、中にハーブのようなものが混ぜ込まれているようで、お世辞にも美味いとは思えなかった。
「……若鶏のお肉、卵、小麦粉、白砂糖、黒胡椒、搾りたてのミルク」
レゼルの声に、俺は向かいに座る彼女を見た。
レゼルは両手を膝に置いて、目を閉じて、口元に少しの笑みを湛えて、静かに静かに座っていた。まるで日本の茶室を訪ねた異邦人のように、瞑目の向こう側に何かを見ていた。
「その世界には、きっと貴方の舌だって唸らせる、美味しいものが沢山あったんでしょうね」
「どうだかな」
俺はそう答え、菓子の最後の一欠けを齧り、言葉を継いだ。
「もう三ヶ月も経ったから、すっかり忘れてしまったよ。元の世界で食べていたものと、今レゼルと一緒に食べているこの甘すぎる砂糖菓子と……一体どちらが美味かったかな」
✳︎✳︎✳︎
「元の世界に帰りたいとは思わないの?」
喫茶店を出た俺とレゼルは、白く染まった石畳を、シャルトリューズ家に向け歩いていた。
俺の少し前を歩くレゼルは、空を見上げ、灰色の雲から雪が降るのを眺めていた。
「帰りたくないといえば嘘になるよ」
レゼルの歩調が少しだけ小幅になったように思えた。顔は相変わらず空を見上げていた。
俺もまた、彼女に倣い空を見上げた。
「でも、帰る積もりはないよ。この世界に来た日の夜に、カリラに誓ったから。あの子が俺の手無しに幸せになる日が来るまで、あの子のそばにいるって」
「…………」
レゼルは何も言わず、こちらを振り向きもせず、前へ前へと歩いていた。
「それに、こうしてレゼルも居てくれるしな」
「……遅いわよ」
レゼルの返答に微かな怒りのニュアンスを感じ、俺は慌てて前を向いたが、遅かった。
空ばかりを見ていた俺の頭が街灯の柱に当たり、がつんと激しい音がした。
「あだっ!」
突如頭に去来した激しい痛みに、俺はうずくまって頭を押さえた。
「~~っ!」
「ふふ、ばーか」
俺のそんな無様に、レゼルはくすくすと笑って、ずきずきと痛む俺の頭を撫でた。
そして、痛みが幾分和らいだ頃、彼女は俺の手を引いて立ち上がらせた。
「よそ見ばかりしてるからよ」
そう言って、優しく微笑んで、俺の手を握ったまま、レゼルは雪の降る街を、先へ先へと歩き出した。
彼女に手を引かれるまま、俺は、彼女の金色の髪が流れるさまをぼんやりと見ていた。
俺はふと、自分と彼女が、シャルトリューズ家によって結婚を目論まれた間柄である事を思い出した。
自惚れもあるかも知れないが、俺とレゼルが結婚すれば、シャルトリューズ家は俺を重宝するだろう。そして俺も、その期待に応えて見せるだろう。
前世での知識をこの異世界でひけらかし、まるで全ての始祖であるかの如く、周囲から賞賛を受け、かの家に莫大な利益と栄誉をもたらして、鼻高々に世界を牛耳る事も出来るだろう。
カリラがやがて、俺の元を巣立つ時が来て、あるいは、俺がカリラの元を巣立つ時が来て、俺は彼女の居なくなった研究室を引き払う。カラン・マルクの残したノートは、そこで全て処分され、あとには何もない、寒々とした石組みの部屋が、魔術教員棟の一角に残る。暖炉の薪は燃えきっている。
そうした、ある種自然な成り行きともいえる未来の輪郭が、薄玻璃のような寒気の向こうに見え隠れしていた。
前を歩くレゼルの足取りは羽が生えているかのように軽やかだった。
俺は考える事をやめ、まるで幼い子どものように、彼女と繋いだ左手を、ぼんやりと眺めていた。そこから伝わる暖かさが、一面の白い世界の中で、何かの灯火のように感じられた。
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