第十九幕 魔王バー・後編(Manon Dier#2)



「このグラスを見よマノン先生。山麓のいっとう澄んだ水のように透明で、ランプの光を照り返しよる。どういう工程を経ればこうした美しきグラスが作られるのか見当もつかん。まさしく、魔王の作る異界の品だ。そしてそこに注がれた、きりりと冷えた黄金色の麦酒ときたら」


 そう言うや、もう辛抱堪らぬといった風に、ピルゼン教授は目の前のグラスに注がれた麦酒をあおった。そして、


「おほぉ〜ん」


 教授は気味の悪い喘ぎ声を漏らし、ひとしきり身体をくねらせ悶えた。

 斜め向かいの席で、マノンはその様子を固唾を飲んで見守っていた。

 魔王は先ほどから台所で何かの準備をしていた。


「ぬふー、これほどまでに酒精が強く、また洗練された味わいの麦酒は、恐らくまだ、この部屋の外の世界にはあるまい。そして、この芋とかいう植物の根の薄揚げだ。こいつを一口つまめば」


 そう言うや、教授は皿に盛られた薄揚げを数枚掴み口に放り込み、ばりばりと噛んで咀嚼したあと、愉悦とばかりに目を閉じて、またもや喘いだ。


「のほおお〜」


 そんなピルゼン教授を目の前にして、マノンは嘆息した。

 この数日、彼女を恐怖と好奇の渦に巻いていた正体はこれだったのか。

 安堵とも落胆ともつかぬ不思議な感覚がマノンの胸中を満たした。

 魔王は男色家ではなかった。

 教授が酒に狂っているだけだった。


「いやはや、まったく不思議なものよ。舶来品の展示市で、この奇っ怪なる形の植物の根を見たときは、とても食えたものには見えなんだが、よもやそれが、薄切りにして油で揚げて塩をまぶすだけでこうまで美味いものに化けるとは……ほれマノン先生も食べなさい」

「えっ」


 薄揚げを差し出されマノンは面食らったが、「そうですよ、マノン先生も是非どうぞ」という魔王の言葉もあり、彼女はおずおずと一枚を手に取り口に運んだ。


「ん、んふ」


 ぱりり、と、薄揚げは歯を立てるだけで砕け、その直後、塩で味付けされた芋の風味が口の中に広がった。腹には溜まらないが、味と食感を楽しむための、酒とともにある食べ物であるらしい。こんな夜更けになんとも贅沢な事だと、マノンは今更ながらに身を縮めた。


「どうかねマノン先生、最高の料理じゃあないかね。酒が飲みたくなってきたろう。え? しかもこの部屋で出る麦酒は王都で最も美味いときている。無論店で飲めば一杯で銀貨何枚取られるか分からん代物だがね、ここは私の奢りだ遠慮せずに飲み給えよ」

「あ、いえ、すみません、わたし、麦酒はあんまり……」


 マノンは手を前にやって辞した。ピルゼン教授はこの世の終わりのような顔をした。

 遠慮した訳ではなく本心だった。

 マノンにとって、麦酒とは苦く酸っぱいだけの、愚にもつかぬ飲み物だった。井戸水を飲めば腹を壊し病気を被る危険があるため、仕方なしに飲まれるだけの存在だった。

 だが彼女はいっぱしの魔術師だ。魔術によって生み出された水は、どういう理屈かは未だ分かっていないのだが、口に含んでも、ヒトに病気を運ぶ事は一切ない。なれば、飲むのは自らが作った水だけでよい。自分の舌が不味いと訴える麦酒を無理して飲む必要はないのだった。


「それなら、マノン先生にはこれを」


 台所から戻ってきた魔王が、マノンの前に一脚のグラスを置いた。

 短い脚の付いたグラスには蜂蜜色の液体が注がれていて、白く湯気を立てていた。その湯気から微かな酒精が感じられた。


「魔王様、これ、蜂蜜酒……ですか?」

「当ててみてください」


 魔王はそう言って笑い、マノンの隣、ピルゼン教授の向かいの席に腰掛け、自身も一口麦酒を飲んだ。

 マノンは、目の前に置かれたグラスをしげしげと眺め、湯気から漂うその優しい香りをしばし楽しんだ。


「いい匂い……この香り、林檎みたい」

「さすがさすが。これは先日やっと完成した自信作、林檎酒です。さあ、どうぞ」


 魔王はさも楽しそうな様子でマノンに酒を促した。

 そうまでされれば飲まない訳にはいかない。マノンはグラスの脚を手に取り、酒を一口飲んでみた。 


「〜〜!」


 次の瞬間、マノンは驚きに目を見開いた。

 最初にやってきたのは、青林檎の人懐っこい香り。その後すぐに、野性的な酸味が、林檎特有の甘みと共に舌の奥にやってくる。だが口の中で膨らむ香りは林檎だけのものではない。その酒には、マノンには分からぬ数種類の香辛料が混ぜられているようで、それらが見事に調和して味覚と嗅覚を刺激した。飲み終えたあと、凍えていた身体の内側からぽかぽかと暖かくなってゆく感覚が、彼女にえも言われぬ幸福感をもたらした。


「す、すごい! すごいすごいっ! こんなお酒があるんですね!」


 マノンは子どものようにはしゃいだ。その様子に、なぜかピルゼン教授が満足げに頷いていた。


「気に入って貰えて良かったです。この林檎酒は、近隣の林檎園を幾つか回って、酸味と甘味を持つそれぞれの林檎を配合して醸造したものです。温めても香りが飛ばないようにするのに苦心しましたよ」


 魔王のその言葉に、マノンはぎょっとして手元の酒を見下ろした。

 そんな手間暇掛けて魔王が手がけた一品……まさしく王侯貴族に出すべき一品だった。

 それを飲んでしまった自分はその対価をどうやって払えば良いのか……取り返しのつかぬことをしたのではないかとマノンはまたぞろ身を縮めた。


「いやはや、教員の酒宴でも一滴も飲まぬマノン先生をこうも容易く懐柔するとは。さすがに、美しい少女を二人も手籠めにしている魔王陛下は段取りが違うな」

「人聞きが悪いですよ、ピルゼン教授」


 からからと笑うピルゼン教授に、ため息をつく魔王。

 先ほどのやり取りはただの冗談であったらしい。マノンは安堵して、もう一口酒を飲んだ。

 ピルゼン教授はその様子を見てもう一度頷き、ふぅと天井に酒臭い息を吐いた。


「何より、この静かなる夜の雰囲気よ。酒と、すこしのつまみと、ランプの灯りと、焚き木の音と、知識豊かな話し相手。必要最低限のものだけがこの卓にはある。猫族の娘達が席に着き薄く不味い酒を出す、愚にもつかぬ王都の酒場の店主達がここを見たら泡を吹くだろうよ」

 ピルゼン教授はそう満足げに呟き、グラスの麦酒をぐびりと飲んで、芋の薄揚げを一口摘んだ。

 それを聞き届けた魔王は、自身も酒を一口飲んで、教授に言った。


「教授、その、猫族の娘さんたちが着くという酒場のことを、もう少し詳しく……」


 マノンは魔王のそれを聞かなかった事にして、自分のために用意された林檎酒を一口飲む。

 甘味と酸味がお互いを引き立て調和している。暖かく優しい酒が、舌の上で楽しげに揺らめく。

 芋を一口摘むと、俺らも混ぜろと言わんばかりに、芋の風味が塩味と肩を組みやってきて、口内で楽しげな宴が始まる。

 マノンも一息、椅子に深くもたれ、卓上に置かれたランプの灯りで目の焦点をぼかした。

 こんなに豊かで幸せな夜が、自室の僅か隣にあったなんて……酒を飲んでは喘ぐピルゼン教授の気持ちも、今ならなんとなく分かる気がした。


「ところで陛下、来季の講義の件、確かに引き受けてくれるんだね?」


 教授のそんな問いかけを耳に入れ、マノンは魔王の方を見た。


「えっ、魔王様、講義されるんですか? 遂に?」

「ええ。来期の日程から、正式に」


 魔王はマノンにそう答え、困ったように微笑んだ。

 マノンは興奮した。それが本当なら、魔王の講義を是非とも聴講したいと思った。自分の授業と日程が被らない事を祈るばかりだ。


「いやあ、助かった。魔王陛下直々の講義となれば、受講者は山と駆けてこような」

「それですが、ピルゼン教授。今回、受講者は三十名の選抜にしようと思います」

「三十か。またえらく少ないな……選抜基準はどうするかね」

「俺が別途作成した試験問題を一斉配布し、それを解いてもらう形式とします。出題範囲はこの学校の中級過程までの必須教科に限定しますが、口頭試問はなし。全問記述とします」

「採点は?」

「全て俺が行います」

「……受講希望者は恐らく三百を越えよう。全員分、自分でするのかね」

「ええ」


 ピルゼン教授は魔王の顔を値踏みするように見て、こう言った。


「……魔王陛下、それは、君が魔学の正式な教授として、幾人かの弟子をとる、そういう心積もりと取っても良いのかね」

「……ええ。今回の講義で、それを強く望む学生がいれば、の話ですが」


 マノンは固唾を飲んで、魔王と教授のやりとりを見ていた。

 まるで自分が、この王立学校の大きな転換点に立ち会わせているような気分だった。


「何か心境の変化でもあったかね。この間の返答は芳しくなかったように思うたが」

「……冬の駒鳥にね、あてられたんですよ」


 マノンもピルゼン教授も、魔王のその言葉の意味を掴みあぐねたが、魔王はそれ以上説明する積もりはないらしく、こほんと一つ咳払いして、話題を変えた。


「ところで教授こそ、例の依頼、どうでした?」

「おお、その件だがね魔王陛下、都でいっとう腕の立つ鍛冶屋のもとを尋ねたら、生憎と工場を空けとった。手紙は残しておいたから、しばらくすれば向こうから訪ねて来よう」


 魔王とピルゼン教授の間で新しく始まったその話題も、マノンにとって預かり知らぬものだった。

 二人は、首を傾げるマノンに構わず話を続けた。


「ところで陛下、預かった設計書、僕も見たが、あの銅釜は一体何に使うのかね。えらく珍妙な形をしとったが……錬金術でも始めるのかね」

「蒸留釜という道具です。醸造した酒を水と分離し、酒精を強める道具ですよ」


 魔王のその返答に、ピルゼン教授の目がきらきらと輝いた。


「ほお、ほお。君の異界の頭脳からは、またもや新たなる酒が生まれるのかね」

「頭の中にはあるんですがね、その酒を作るのに必要な、最後の欠片が埋まらないんですよ」

「最後の欠片? それは素材かね、製法かね? 僕も出来る限りの便宜を図るが」

「そう言って貰えると有り難いが……実を言うと、その素材が、この王国にあるかすら分からないんです」


 魔王は顎に手をやって、思案げにランプの光を見て、言葉を続けた。

  

「海に近く、寒冷な地で、枯れた植物が土に還るよりも早く、上から新たな植物の遺骸が堆積する……そうした地でのみ取れる、”燃やす事が出来る土”なのですが……」


 マノンは再び首を傾げた。

 新たな酒に必要というその素材は、まるで魔王自身が、この世界にそれがあると信じきれていないような、そんな雰囲気を漂わせていた。

 あるいは、天才の頭脳というのは皆、そういうものなのだろうか……そんな事を考えていたマノンは、以前、校舎の修繕に来ていた石工のホビットから聞いた、ある話を思い出した。

 

「魔王様、西の海岸沿いの、エルフが住む森に、土を燃料にする文化があったと思いますが」


 マノンの、そんな何気ない言葉を聞いた瞬間、魔王の目がくわっと見開かれた。


「そ、それだ」


 魔王は勢い余ってマノンの手を取った。マノンが顔を真っ赤にしても、ピルゼン教授が「あれまっ」と叫んでも、魔王は構わずマノンに続きを促した。


「でも、その、あの、森にはエルフとホビットが住んでいるので、王国の治外法権です。幾ら王国貴族の魔王様と言えど、ヒト族は森には立ち入れませんし、自然物の採取なんて、もっての他だと思いますよ」

「おぉー……マジすか、そいつはダメなファンタジーですねぇ」


 不思議な言い回しを一つ残して、落胆した魔王は椅子にへたり込んだ。

 ピルゼン教授はそんな魔王をふむと眺め、彼に言葉を投げかけた。


「魔王陛下、そのエルフの森にある、燃える土とやらが欲しいのかね」

「欲しいです。もしもその土に海の香りが染み込んでいれば、金貨百枚投げても惜しくない」

「……それならば陛下、事態は思うよりも容易いかもしれんよ」

「? ……それはどういう意味です」

「さてな。数週間待たれよ。きっと糸口は掴める。錬金術の銅釜が届く頃にな」


 ピルゼン教授はそう言って不敵に笑い、麦酒の最後の一口をぐいと飲み干した。


✳︎✳︎✳︎


 マノンとピルゼン教授が二号室の扉から外に出たのは、ふくろうも寝静まる夜更けだった。


「いやあ、素晴らしい夜だったなマノン君」

「はい! とっても」


 ピルゼン教授はマノンのその返答に満足げに頷き、そのまま、本館の方へ歩いていった。

 それを見届けた後、マノンはすぅと夜の空気を吸い込んだ。

 肺の中が冬の風で満たされても、身体を包む暖かさは逃げ出さずそこに居てくれた。

 見上げた空は満点の星空で、晴れやかな自分の心を尚も照らしているようだった。


「ようし、明日も頑張ろうっと!」


 気合の言葉一つ呟き、マノンは数歩先にある、自室の扉を開いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る