第十八幕 魔王バー・前編(Manon Dier#1)



 ――魔王は男色家なのではないか。


 マノン・ダイアは、一週間ほど前からそのような疑念を抱いていた。

 疑念を抱くに価する事件が、この王立学校で密かに起こっている……少なくともマノンはそう考えていた。


 王都の最高学府、エレヴェンス・ギルト王立上級学校には魔王が住んでいる。

 六年前に国を壊滅直前までに至らしめた疫病を払い、国中にその名を轟かせた天才魔術師、『異界の魔王』カラン・マルク伯爵(および王立学校名誉教授)。

 現在は魔術教員棟の二号室――マノンの部屋の隣である――に住み、講義もせず謎の研究を繰り返している。


 魔王カランは実に謎の多い男であった。

 そもそも彼は研究室から外に出る事が殆どなかった。

 シャルトリューズ家に家庭教師に出向く唯一の例外はあったものの、それ以外の時間は、彼は研究室に引きこもり、食材や薪の買出し等は全て助手のカリラ・サウンド(中級過程三年生主席)が行っていた。国中の人間が魔王のことを知っていたが、その姿を実際に見た者は極めて少なく、先の事件から六年が経った今となっては、実在さえも怪しむ声が出るほどだった。

 学校関係者の誰もが、一度はカリラ・サウンドに魔王の事を尋ねてみるのだが、カリラ・サウンドは魔王について決して多くは語らなかった。「先生は優しい方です」「あまり喋らない方です」「研究の内容は私にはよく分かりません」「ご病気などはありません」「人類を滅ぼそうなどとは決してしません」といった回答をするのみだった。謎は深まるばかりだった。


 三ヶ月ほど前を境に、カリラ・サウンドと一緒に商店街を歩く男の目撃情報が相次いで報告された。のちにその男の正体が、記憶を無くした魔王本人であるらしいという噂が広まり、カリラ・サウンドの証言によってそれが事実だと判明した。その事件は王都中を揺るがせた。

 時を同じくして、これまで鳴りを潜めていた魔王の研究は格段にその怪しさを増した。

 彼の住む二号室からは、四六時中、麦を砂糖で煮詰めたような甘い匂いが立ち込めるようになり、部屋の外には黒い厚手の布のようなものが飾られた。魔王の不可解な行動の真意を誰もが測りかねた。国を滅ぼす新薬を開発しているのではないか、国を滅ぼす邪教の立ち上げを思いついたのではないか……そうした噂が学校中に蔓延していた。


 しかしマノンは知っていた。

 週に一度、魔王に回覧板を届ける係を仰せつかっていたマノンは知っていた。

『魔王』カランが人類を滅ぼそうと考えるような、悪辣な魔族などでは決してなく、普通の人類である事を。寧ろ男性として好感が持てるほどの、純朴な青年である事を。

 だが、そんなマノンの彼に対する印象は、この数日の間に塗り替えられようとしていた。


 ――魔王は男色家なのではないか。


 とうに黒の鐘も鳴り、国中が寝静まる深夜、自室と隣の二号室とを隔てる壁に耳を傍立てながら、マノンは考えていた。

 その時である。


 ――おほぉ〜ん


「!」


 二号室側の壁から漏れてくるその声(?)を聞いた瞬間、マノンはびくりと身体を強張らせた。


「ま、まただ……」


 マノンは独りごちた。

 そうこうしているうちに、またもや壁の向こうから「のほおお〜」といった奇声が聞こえてきた。

 男性が発していると思われるその声は、彼女のこれまでの十九年間の人生で耳にしたことのない類のものだった。

 ありていに言うと、喘ぎ声だった。


 壁に耳を傍立てたまま、マノンはごくりと唾を飲み込んだ。

 実を言うと、喘ぎ声は一週間ほど前から聞こえていた。

 初めてその声を聞いた時、マノンは名状しがたい恐怖に襲われた(隣室から奇声が聞こえてくれば年若い女性でなくとも怖いものだ)が、二日ほど前にその声の主に心当たりがある事に気付いたとき、彼女はより一層の恐怖に苛まれる事となった。


「やっぱり……間違いない。あの変な声、どう考えても、ピルゼン先生の声だよね」


 そう。

 その喘ぎ声の主と思われるのは、人文学の権威であり、教務主任を務める本学の重鎮・ピルゼン教授なのだった。


「…………」


 それで何かが見える訳でもないのだが、マノンは目を細め訝しげに二号室側の壁を見つめた。


「魔王様のお部屋で、一体なにが行われているというの……?」

 

 マノンの心が、僅かの恐怖心と大いなる好奇心に粟立った。

 マノンは男色というものは承知していたが、それが面識がある人間同士というのは想像の埒外であった。

 魔王の私室から本学の重鎮の喘ぎ声が漏れてくる。

 一号室は現在空室である。だから、二号室で行われているこの異常事態を知っているのは国中でマノンを置いて他に居ない。

 こ、これは、王立学校始まって以来の大事件なのではないか……マノンはちらりと机を見た。

 そこには、明日魔王に届ける予定だった回覧板が置いてあった。

 マノンはごくりと唾を飲み込み、意を決して回覧板を手に取り、自室を出た。

 行き先は言うまでもなく、隣の二号室……魔王の部屋だった。


✳︎✳︎✳︎


 当初マノンは、毎週の砂の日を憂鬱に思っていた。

 週に一度魔王に回覧板を届けるように……上級学校に就職した折、学長から受けたその特命を、マノンはこの二年間欠かす事なくこなしていたが、魔王は研究室に閉じこもって他人には分からぬ研究を続けるばかりで、扉をノックしても返事は帰ってこなかった。無論回覧板を届けることは適わず、マノンは泣く泣く助手のカリラ・サウンドにその回覧板を託していた。


 変化があったのは三ヶ月ほど前の事だった。

 魔王が魔術実験に失敗し記憶を失ったらしい……王都中に流れていたその噂を、マノンは信じていなかった。だから、その日、いつものように二号室のノッカーを鳴らし、


「あ、はいはい」


 返事があってすぐさま扉が開いた時、マノンの心臓は一瞬止まった。


 二号室の扉を開けたのは、二十代後半ほどの青年だった。

 手足が長く、髪の毛はくすんだ茶色で少し癖があって、黒曜石のような瞳が印象的だった。

 目の前の青年を魔王と理解するのに数秒を要したあと、マノンは慌てて自己紹介した。

 

「あ、あのあの、わ、わてくし、魔術科教諭のマノン・ダイアと申します! まま魔王様におかれましては、本日もごきごきご機嫌うるわしく……」

「カラン・マルクです。今日はマノン先生。もう既にお聞きになられたかもしれませんが、俺は先日記憶を無くしてしまったようで……大変失礼ですが、初対面の人間として接して貰えると幸いです。お手数ですが、よろしくお願いします」


 そう言って、魔王はマノンに優しく笑って頭を下げた。

 マノンはぶんぶんと首を縦に振った。

 そもそも、彼が記憶を無くしていようがいまいが、自分と彼は初対面のようなものであったが……マノンはそんな事は決して言わず、しどろもどろに魔王に回覧板を差し出した。

 

 それからというもの、マノンにとって毎週の砂の日の午後は楽しい時間となった。

 記憶が無くなるだけでこんなにも変わるものなのか……魔王は毎週のマノンの来訪を快く迎え入れた。毎度欠かさず礼の言葉を掛けてくれた。自分の二年間が一気に報われた気分だった。


 マノンは少しずつ、天気の話や学校の話など、当り障りのない話題を魔王に持ちかけ、最近では魔王からお茶の誘いを受けるまでになっていた。そうした時、魔王は決まって、シャルトリューズ家の特級の紅茶を淹れてもてなしてくれた。それは彼女の給金では手が出ないほどの高級品だったので最初丁重に断ったのだが、「早く飲んでしまわないと香りが飛んでしまうんです。そっちの方が勿体ないので、飲むの付き合ってください」などど言われ、結局ご馳走になってしまうのだった。


 カラン・マルクは小児性愛嗜好の変態であるとか、はたまた彼は本物の魔族で、美少女の生き血を啜って生き永らえているという噂もあったが、実際に面と向かって対話すると、魔王はただ誠実な好青年にしか見えなかった。記憶を失った影響もあるのだろうか、身嗜み整った魔王の姿は非常に清潔感があり、低い声で滔々と紡がれる言葉には含蓄があり、好感が持てた。


 そんな魔王の部屋で、ピルゼン教授が喘いでいる。

 気にするなという方が無理だった。

 

✳︎✳︎✳︎


 マノンは回覧板を小脇に抱え、二号室の扉の前に立っていた。

 冬の夜の空気は凍りつくほどに冷たく、身体は早くも凍え始めていた。

 だが、目の前のノッカーを鳴らすのには相当な勇気が必要だった。

 この部屋をノックすれば、もう自分は帰ってこれないかもしれないとすら思った。

 それから随分と長い葛藤を経て、遂にマノンは二号室のノッカーを鳴らした。

 

「おやマノン先生、今晩は。こんな夜分にどうしましたか」


 いつもより少しだけ間があった後、いつものように扉は開いた。

 ふわりと暖かく甘い空気が、冷たくなったマノンの身体を包み込んだ。


「……へ?」


 いつもといささかも変わらぬ魔王の穏やかな様子に、マノンは拍子抜けした。


「おおマノン君、こっちだ。君も座りなさい。今宵は僕の奢りとしよう」


 呆然としていたマノンに向かって、魔王の部屋の奥から声が掛けられた。

 果たして声の主は、マノンの想像した通りピルゼン教授だった。

 彼はキッチンテーブルの椅子に腰掛け、顔を真っ赤にして、グラスに入った金色の酒をあおっていた。


「奢り……? ピルゼン先生、なんで……?」

「まあ、取り敢えず入ってくださいマノン先生、身体が冷えるとよくありませんよ」


 マノンは状況が全く見えないまま、魔王に促され二号室に入った。

 それが、マノンが初めて『魔王バー』を訪れた際の一幕である。


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