第十七幕 夜の左手



 その日レゼルは、俺とカリラと一緒に夕食をとる事になった。

 庭先に干していた昆布がいい具合に仕上がったので、出汁を取って鍋にした。

 レゼルもいたので少し奮発して、魔術便で届いた新鮮な魚介を買って来て海鮮鍋にしてみた。


「うん! 簡単な料理だけど、味は良いわね!」

「優しい味……美味しいです。でもこんな贅沢なもの、食べて良いのかな……」


 レゼルにもカリラにも、鍋は好印象だった。煮えた魚介は出汁が効いていて美味かった。特に牡蠣は絶品だった。米がないのが残念でならないが、概ね満足だ。これはビールが無ければ駄目だな、と思ったので、俺は冷蔵庫から一本取り出した。


「あっ、ずるいわよ貴方だけ。あたしにもお酒頂戴。あの葡萄酒ある?」


 俺のビールを目ざとく見咎めたレゼルが、身を乗り出して酒の催促を始めた。

 レゼルが言う『あの葡萄酒』とは、俺が先日レゼルのために用意した、凍った葡萄で作った酒であろうが、今あれを飲むなどとんでもない。


「馬鹿言うな。あの酒一本作るのにどんだけ労力掛かると思ってるんだ。お前の誕生日式典に向けて必死に増産してる最中なんだぞ」

「ちょっとくらい良いじゃない」

「そんな余裕はない。前も言ったが、あの酒は歩留まりが悪いんだ。葡萄一房から匙一杯分しか取れないんだぞ」

「そんなにですか!?」


 俺の説明にレゼルではなくカリラが仰天していた。俺は肩をすくめ、再び冷蔵庫の扉を開けた。


「今日は他の酒を出してやるから、それで我慢してくれ」

「苦いのは嫌よ」


 レゼルはふんと鼻を鳴らした。

 生意気にもこのお嬢様は、俺の作ったビールが苦いと言って飲まないのだ。ピルゼン教授はあんなにもド嵌りしたというのに……まあ、異世界とは言え十五歳の女の子にビールを飲ませる俺も俺なんだが……。


「心配無用だ。麦酒が苦手な女の子向けの新製品を用意してる」


 こんな事もあろうかと準備していたのだ。

 異界の魔王による麦酒の啓蒙を受けよ。


「え、赤い……麦酒?」


 冷蔵庫から出したその酒をグラスに注いでいくと、その見慣れぬ色にカリラとレゼルが目を丸くした。


「チェリービールだ。麦芽とさくらんぼで酒を作って、そこに木苺の果汁を混ぜてみた」


 俺はそう説明した。


 ビールとは、そもそも麦芽(大麦を発芽させたもの)を発酵させて作る酒であるが、前世で俺が住んでいた日本では、そこにホップ(アサ科のつる草の一種)で苦味や爽やかな香りを加えたものが主流となっていた。コンビニやスーパーなどで手に入るビールの殆どがこのタイプだったが、大学の後輩達は皆この苦味を嫌い、酒席ではチューハイばかりを飲んでいた。

 俺に言わせると勿体無い事この上ない。世界では多種多様なビールが作られており、日本で流行っているものなど、その内のほんの一種に過ぎないのだ。そんな乏しい酒経験値で自身をビール嫌いと断じるなど言語道断である。そういう訳で、俺はビール嫌いだという後輩達に、ベルギーのチェリービールを用意して飲ませてみた事があった。これが美味いと大受けだった。「先輩流石っす」「俺ビール嫌いでしたけどコレは美味いっす」「”D棟の酒狂い”の異名は伊達じゃないっす」「研究室の棚に置いてるウィスキーの瓶が三〇本超えたときはマジでこの人なんなのって思いましたけど見直しました」「抱いてっす」……未だに耳に残っている。俺を褒めそやす後輩達の黄色い声……全員むさ苦しい男だったのは失敗だった。D棟に女子大生はいなかった。


「ふわぁ、果物の香りがするわ!」

「甘酸っぱくて、ちょっとだけ苦くて……凄い。こんな麦酒が、あるんですか」


 それがどうだ。今、俺の目の前には可愛い女の子が二人もいる。

 レゼルもカリラも初めてのチェリービールの味に目を輝かせて喜んでいる。本能に来る喜びがあった。

 そういえば、昔大学で世話になっていた助教が、居酒屋で飲んでいた折こんな事を言っていた。

 『若い女の子に飯や酒を奢るのはおっさんの本懐だ』と。

 今になってやっと、その言葉の意味を理解した。俺はもうおっさんなのだった。


✳︎✳︎✳︎


 お嬢様の意外な弱点が露見した。

 レゼルは酒に弱かったのだ。


 彼女はチェリービールを大変気に入ったと見えて、食事が終わっても勝手に冷蔵庫を開けて新しい瓶をかっぽかっぽ開けていった。止めても言う事を聞かなかった。今度隣室のマノン先生にお裾分けしようと思っていた分まで飲まれてしまった。後刻グラン氏が迎えにきた頃には、彼女はすっかり出来上がっていて、顔を真っ赤にして笑いながら、その様子を見て青ざめているグラン氏の背中をバンバン叩いていた。


「あはははは! あはははは! グラン変な顔〜」

「魔王陛下……」

「す、すみません……」


 グラン氏は俺に割とガチ目に説教した後、レゼルをおぶって帰って行った。

 その頃既に、レゼルは寝息を立てていた。



 レゼルとグラン氏が去った後の部屋は、いつもより尚、静かに思えた。

 食事の後片付けを終え、そろそろカリラも女子寮に帰る頃合いになっていた。


「先生、お貸ししていた魔学の教科書、どうしましょう?」

「ああ、あと少しで読み終わるから、悪いけど少し待っててくれないか?」

「あ、えと、じゃあ」

 俺のその返答に、カリラは少し言い淀んだあと、こう言葉を継いだ。

「……今夜のうちにしなくちゃならない宿題があるんですけど……この部屋でしても、いいですか?」


 俺が本を捲る音と、カリラの羽ペンが紙を擦る音と、暖炉の薪の音だけが、キッチンの中に響いていた。

 夜が更けるにつれ強さを増す風が、時折窓を叩いていた。

 その日のカリラの宿題は幾何学に関するものだった。俺は、前世で塾講師をしていた頃を思い出し、生意気にもその宿題を手伝ってやったりした。

 借りた教科書は程なく読み終えたのだが、俺はカリラにその旨を告げず、またカリラも、俺が最後のページを繰り終えたのに気付いているだろうに、その事には触れず、俺の部屋で宿題を続けていた。


 ふと、いつの間にか彼女のペンの音が止まっている事に気付き、俺はカリラの方を見た。


「……ん? どうしたんだ、カリラ」


 カリラは、宿題を止めペンを置いて、本を支える俺の手元をじっと見つめていた。


「……先生の手を、見ていました」


 ふふ、と笑って、カリラが答える。


「ご存知でしたか? 先生の左手、面白いとこにペンだこがあるんですよ」


 言われて俺は自分の左手を見やる。中指の妙なところに、確かにペンだこがある。

 この身体には随分馴染んだ積もりでいたけれど、こんな身近な事にすら、意外と気付かないものだ。カラン・マルクは左利きだったのか。


「へええ、本当だ。でもこんな細かい事、良く気付いてたね」

「指が覚えているんです。小さい頃は、先生によく手を繋いで貰ってましたから」


 そう言ってカリラは自身の右手を見た。


 カリラには、時折そうして自分の右手を見る癖があった。

 そうしている時、彼女は決まって、優しさと寂しさを綯い交ぜにしたような顔をした。

 彼女がそうするたび、俺は居た堪れない気持ちになったものだった。

 その時も、俺は本を閉じ机に置き、グラスに注いだ水を飲んだ。

 そうしていた折、カリラは俺にこんな事を言ってきた。


「先生、……もし良かったら、手を繋いでも、良いですか?」

「手? そりゃ構わないけど……」


 首を傾げ、何の気負いなしに、俺はカリラに左手を差し出した。


「…………」


 カリラは恐る恐るといった風に、俺の手に指先を伸ばした。子どものような、小さな白い手だった。その指は俺の手の甲に薄く浮き出た血管を撫で、中指のたこに触れ、ゆっくりと指を絡め、最後に優しくしっかりと俺の手を覆った。

 そして、その美しい琥珀色の瞳で、俺の目を見た。口元は幽かに微笑んでいた。

 こちらを見上げるカリラの眼差しに、身体の髄が痺れたような感覚を覚えた。心臓が早鐘を打ち、それ以外の部分は言う事を聞かず、目はカリラの瞳から逸らす事が出来なかった。

 自分はなにか、今まで盛大な勘違いをしていたのではないか……そう思った。

 ――この子はもう、女なのだ。

 その当然の事実が、何故か、今ここで初めて明かされた世界の秘密のように感じられた。


 カリラの手は、その白くきめ細やかな肌地からは想像もつかぬ程暖かかった。

 俺はこの手を過去に一度だけ握った事があった。

 この世界に来たばかりの頃だ。まだ、ここが異世界だとも知らなかった森の中。

 孤独と不安に苛まれていたとき、彼女は俺の手を取ってくれた。ずっと傍に居てくれた。


 俺は席を立った。カリラも釣られるように立ち上がった。

 俺の肩程の位置で、彼女の黒髪が少しだけ揺れた。

 カリラの背丈は、この学校に住む同年代の他の子たちよりも明らかに小さかった。

 特段気にも留めていなかったが、その理由は彼女の生い立ちを知れば想像に難くない。

 俺はカリラの手を引いたまま書斎に歩いた。カリラは黙って付いてきた。

 壁際の大窓から夜を見上げた。大きな満月が浮かんでいた。


 そういえば、と、俺は思った。

 転生して初めてこの部屋を訪れたあの日も、ほぼ満月だった。

 という事は……


「もう三ヶ月が、経ったのか……」


 感動のような呆れのような……なんとも言葉では言い表せぬ複雑な感慨が、頭と心を浸していった。

 ついこの間この世界にやってきたような気もするし、もっと長い間、この世界にいるような気もした。


「次の次の週を終えたら、王都は五日間の年末祭に入ります」

 同じく窓の外の月を見上げながら、カリラはそう言った。


「年末祭、か……カリラは、いつもどうやって過ごしてたの?」

「私には家族は居ませんので、いつも通りです。先生は毎年、王城の舞踏会に招待されていますが、参加された事はありません。いつも通り、あれこれ研究されていましたので、私もいつも通り、先生のお手伝いをしてました」


 それはなんとも、カリラにはこの六年、寂しい思いをさせていたのかもしれないなと、俺は思った。

 俺はカリラの方を見た。カリラも、俺に視線を返してくれた。


「今年はパーティをしようか。いつもより豪華なもの食べて、美味しいものを飲んで……レゼルやグラン殿、ピルゼン教授も呼んで、さ」


 それを聞いたカリラは、さもそれが素晴らしいアイデアだとばかりに顔を綻ばせた。


「いいですね! 私は勿論構いませんが、一体何のパーティですか?」


 楽しげに笑うカリラの表情は、薄暗いこの書斎の中で一際輝いて見えた。

 先ほど自分の右手を見つめていた時の寂しげなニュアンスは、もう無くなっているように思えた。

 その右手は今、俺の左手と結ばれていた。

 手に少しだけ力を込めると、彼女もそれに応じるように、込める力を強めてくれた。 


「そうだなぁ……強いて言えば、今生きていることを感謝するためのパーティ、かな」


 カリラは、俺のその答えを、自分の中で反芻しているようだった。

 俺は黙って、隣で月を見上げていた。

 左手の指の間から、カリラの脈拍が秒針のように規則正しく伝わってきた。

 言葉も交わさず、しばらく二人で、そうして夜を過ごしていた。


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