第十六幕 ソファの隣



「今日はなんだか良い匂いね」


 隣に座るレゼルからそんな言葉を投げかけられたのは、良く晴れた、とある午後の事だった。

 その日レゼルは青の鐘が鳴る頃に研究室にやってきて、いつもの通り、書斎の本棚に山とあるカランのノートの中から気になるものを一冊抜き取り、読書をしていた。


「えっ……俺っていつもそんなに臭かった?」


 レゼルの言葉に俺は狼狽した。

 これでも毎日風呂には入っているし、清潔には相当に気を使っていたのだが……やはりここまで至近距離だと、隠しきれぬアラサー臭が漂うのだろうか。つらい。


「違うわ。この部屋の匂いよ。なんだか今日は、林檎みたいな甘い匂いがする」


 俺は安堵した……が、よく考えると、ただ、懸念の在り処が別の場所に移っただけだった。


「……なあレゼル、この部屋、いつもそんなに変な匂いか?」

「変というか……嫌な匂いじゃないけれど、ずっとお酒の匂いがしてるわよ」

「ああ、そりゃ仕方ないな……」


 俺は即座に諦めた。酒の匂いは仕方がなかった。

 本格的な醸造は王都シャルトリューズ家所有の酒蔵を借りて行っているものの、俺はこの研究室でも未だ、酵母の培養と少量の酒の醸造実験は行っていた。だから、書斎と物置はいつも酒蔵のような香りを放っていた。


「貴方の匂いは……その、別に嫌いじゃないわ」


 そう言ってレゼルは顔をうつむけ、読書を再開した。



 最近レゼルが近い。

 物理的に、近い。

 彼女がこの部屋に来て本を読むのは今に始まった話ではないが、先日の葡萄酒の一件があってからというもの、この書斎での彼女の振る舞いはひとつ変わった。

 彼女の座る場所が、向かいのソファから、俺の隣に変わったのである。


「……何よ」

「い、いや何でも」


 俺は視線を逸らし、手元の本に意識を向ける。


「ねえ、それ、さっきから、何読んでるの?」


 レゼルがそう言って、俺の手元で開かれた本の紙面を覗き込む。

 彼女の髪の毛が俺の耳たぶをかすめる。

 白磁のような首筋から柑橘を思わせる甘い匂いがする。

 ど、どきどきする。

 だがその動揺をレゼルに知られれば揶揄からかわれるかキモがられるかだと思ったので、俺はつとめて平静を装い彼女に本の背表紙を示した。


「ギルト王立学校の魔学の教科書だよ。カリラから借りたんだ。今日は魔学の講義は無いって話だったから」


 カリラから借りたその教科書はよく使い込まれていて、真面目で勤勉な彼女の人柄が見えてくるようだった。ページを捲ると、時折テキストの合間合間に、授業中のカリラが書いたとおぼしきメモが見受けられた。それらは丸みのある丁寧な字で、後の方になるにつれ、少しだけ崩れていった。丁寧に字を書くあまり、筆記の速度が講師の喋りに付いていけてない……そうした様子すらありありと想像出来るメモだった。


 前世のバイト先が塾だったからか、俺は勤勉な学生の教科書やノートを見るのが好きだった。

 その真摯な有りように、自分も頑張ろう、と思えるのだった。

 そんな具合に教科書を捲っていると、レゼルが心底気味悪そうな顔で俺を見た。


「……貴方、女の子が使ってる教科書とか、好きなの?」

「あのさレゼルさん、そういう言い方はマジで止めてくれないか」


 変態みたいじゃん。


「なら一体どういう事よ。貴方が今更そんな本読んだって何の役にも立たないでしょう」

「この世界に来た頃、カリラに魔術を教えるって約束してたの思い出してさ。異世界人の俺があの子に魔術教えるってのも変な話だけど……取り敢えず、教えるにあたって、あの子が学校でどんな勉強してるのかは把握しておきたくて」

「カリラに魔術を教えるのなら尚の事、そんな本読んでてもしようがないわよ」

「やっぱ、レゼルもそう思うか……よくこの学校の学生達は、この内容の教科書で魔術が使えるようになるものだ」


 魔学の教科書に指定されていたその本には、異世界三ヶ月目の俺でさえ、これで良いのかと思う程、曖昧な表現が跋扈していた。

 例えば火属性の魔術の項では、魔力で空気を『燃素』に変換させ火を放つ……などと書かれている。デタラメも良いところだ。燃焼という現象に空気が必要とされるという事自体はかろうじて判明しているようだったが、この世界ではまだ酸素が発見されておらず、結果として、物が燃えるという現象自体が、よく分からないまま下の世代に教えられているのだった。


 これは、カランの文献を読んだ上での俺の推測だが……魔力に、ある元素を別の元素に変換するような作用はない。

 だから火魔術は、空気中の酸素を術者の意図する位置に集積して、その位置で燃焼を起こす、そういうもののようであるが……その事を、世界中の誰も知らないのだった。


「想像以上に骨が折れる仕事だ……。カリラが魔術苦手なのって、魔力や才能がないとかじゃなくて、元々この教科書に書かれてる内容自体が理解できないからじゃないのか」

「だと思うわ。あたしも、あの人(レゼルは、俺と中身が入れ替わる前のカラン・マルクを『あの人』と呼ぶ)に最初に魔術を教わった時、『今まで教わった事や本に書かれていた内容は全て忘れろ』って言われたもの。その後、物が燃える仕組みとか、空気中に水が出来る仕組みとか、その水が氷になる仕組みとかを教えて貰って、無詠唱で魔術が使えるようになったの」

「うへえ……やっぱカランはマジモンの天才だったんだな……」


 聞けば聞くほど、驚くべき話だった。

 カラン・マルクの頭の中は、この異世界の科学知識の数百年先を行っていたようだ。

 教え子がレゼル一人だけだったのは、ある意味幸いだったのかも知れなかった。


「まあでも、これでカリラの指導の道筋は立ったな。正確な自然科学の知識を身に付ければ、あの子もレゼルみたいに、無詠唱で魔術が使えるようになるかもしれない。成績もアップだ」


 それを聞くと、レゼルは残念そうな笑みを浮かべ俺にこんな事を言ってきた。


「……あの子、今年で中級過程卒業よ? この学校の上級過程に魔学と魔術演習はないわよ」

「な、なんだって」


 俺は教科書を取り落とした。

 ここ、剣と魔法の世界の学校だろ、それって変じゃない?


「そもそも魔学がこの学校の必須単位なのって、魔術師が戦争の軍事力としてあてにされてた時代の名残だし……今の平和なこのご時世、魔術使えたって、この王都じゃ、商船の用心棒か、エレナ港の食材管理技師か、土木魔術師か……いずれにせよ花形の仕事には就けないわ。それともまさか、あの子を冒険者にさせる積もりじゃないわよね?」


 身も蓋もない話だった。魔術が進学にも就職にも使えない、だと……。


「じゃあ、俺がカリラに魔術を教える意義は、殆どないじゃないか……」


 俺は、はわはわした。

 どうしよう、カリラに捨てられちゃう……。


「そんな事ないわよ」


 はわはわしている俺の隣で、レゼルはくすくすと笑っていた。


「教えてくれるのが貴方だもの」


 そう言って彼女は、よく磨かれた銀の匙で苺のジャムを掬い、紅茶に混ぜた。


✳︎✳︎✳︎


「ただ今戻りました」

「あら、お帰りなさい、カリラ。今日は早いのね」

「レゼルちゃん! ……うん、ただいま。今日はね、午後の講義が一コマしかなかったから」

「ね、ね、カリラ、またこの間みたいにクッキー焼いてよ。あたし、カリラのクッキーが、この王都で一番美味しいと思うわ」

「も、もう……褒めすぎだよ」


 カリラが戻ると、陽だまりにまどろんでいた部屋はにわかに活気付いた。

 女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだが、彼女たちなら二人で十分のようだった。

 レゼルとカリラはあれやこれやを話し始め、会話は二人でクッキーを焼くという筋に至り、少女二人は一緒に台所に立ち、尚もお喋りを続けながら楽しげに作業に取り掛かった。


「いつか、あたしとカリラで、礼拝堂の前の鉢植を割っちゃったことがあったじゃない」

「……あれ、割ったのはレゼルちゃんだよ。単独犯だよ」

「カリラがあたしを押したからよ」

「あれはレゼルちゃんが私を引っ張ったから」

「だってカリラがあのボス猫とばかり遊んでてつまらなかったんだもの」


 そんな二人の他愛ない会話をビージーエムにして、本を捲るのは気分が良かった。

 だが、その話題が、幼少期の二人の冒険譚――カリラとレゼルが一緒に、件のボス猫を追いかけて、大人が入れないような穴ぼこを抜けて、最終的に、市場の裏手にあった廃墟で猫の集会場を発見したという展開に至る頃には、俺は続きが気になって本を読むどころではなくなっていた。



 焼きたてのクッキーがオーブンから出てくる頃、俺も書斎から呼び出され三人でお茶の時間となった。二人が焼いたクッキーは言わずもがな美味かった。

 その穏やかな時間に交わされた会話の中で、俺とカリラが先日、ヘッセンさんの葡萄畑に行った時の話が出たのだが、その折に俺はレゼルに叱られてしまった。


「聞いてないわよ! なんでそんな楽しそうな旅行に、あたしを連れていかないのよ」

「葡萄畑の一件は仕事だったんだよ。別に遊んだりした訳じゃないぞ」

「それなら、その時のこと話してるカリラはなんでこんなに楽しそうなのよ」


 カリラは顔を真っ赤にして俯いた。返す言葉もありませぬ。


「カラン、貴方、次に王都の外に出るときはちゃんと報告なさいよ。その時は絶対あたしも一緒に行くんだからね」

「そりゃ構わないが……この面子で国外に旅行する日が、果たして来るかねぇ」


 来ねえだろうなあ。 

 俺は珍しく子どものように怒りを露わにするレゼルに苦笑し、クッキーを一枚齧った。

 お嬢様ってのは、そんなに旅に飢えてるものかね。

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