第十五幕 冬の駒鳥
ピルゼン教授を撃退した午後。
雨が上がったあと、俺はカリラと、近所の市場に買い物に出かけるべく研究室を出た。
研究室の扉の鍵を閉めるカリラを待つ間、俺は空を見上げていた。
風は雨を押しのける程に強く、足早に行き交う雲が沈む夕陽を透過して、そこだけが白熱灯のように、校舎の壁や中庭の芝生を照らしていた。
思えば、自分の人生で、こうして毎日誰かと買い物に行く日々が訪れるなど、想像もしていなかった。
前世での自分の時間は、ゼミやアルバイト、友人と呼べる数少ない人との付き合い、就職活動……そうした諸々にすっかり支配されてしまっていたし、何より、当時の俺は、誰かと共に生きる積もりも一切なかった。
「お待たせしました、行きましょう」
カリラが俺のもとにやってくる。一緒に校門に向け歩き出す。
特に取決めた訳でもないけれど、カリラは俺の左側を歩く。いつの間にかそうなっていた。
俺とカリラの靴先が、雨をたっぷり吸った芝生の上を踏む度、ぐしゃぐしゃと音が鳴った。
隣を歩くカリラの、俺の肩ほどにある頭が上下に揺れ、それに一拍遅れるように、胸元まで伸びた艶やかな黒髪がぴょこぴょこと揺れていた。
最近になってようやっと、俺は意識せずとも彼女の小さい歩幅に合わせられるようになった。あるいはそれが、魔術や酒なんかより、俺がこの異世界で獲得したものの中で、最も価値ある能力なのかもしれない。
「今日のお夕飯は何が良いですか?」
「うーん、そうだなあ」
カリラはそんな事を聞いてくるが、実際のところ、この異世界の食事は、お世辞にもバリエーションに富んでいるとは言い難かった。
当然と言えば当然だ。機械化されてないこの異世界で、作物の生産効率は悪く、人々は限られた食材で日々の命を繋いでいた。そこにあって俺とカリラの食生活は相当に上等なものだったが、それでも尚、日々の献立は、麦と豆と羊肉のシチューにパンが付く……そういう画一的なものだった。
だが、カリラが作る料理は、前世で食っていた何よりも美味かった。もしかしたらこの世界には、前世の世界にはなかったファンタジックな調味料や技術があるのかもしれない。
今やっている酒の研究が終わったら、次はカリラの料理の美味さの秘密を調査してみよう。
✳︎✳︎✳︎
校門を出て石畳を数分も歩くと、学生向けの市場が見えてくる。
この時間帯は学生達だけでなく近隣住宅街の人々も買い物に訪れていて、市場は喧騒に満ちていた。
もうすっかり慣れたものだが、カリラは市場のおじちゃんおばちゃん方に絶大な人気を誇っていた。果物屋の前を通れば「おおっ、カリラちゃんいらっしゃい! 今日の林檎は品が良いぜ! 幾つか持ってってくんなよ!」と言われ、肉屋の前を通れば「カリラちゃん、こないだはありがとうねえ、干し肉かい? 安くしとくよ」だの言われもてなされていた。
連動して、同行する俺も市場の方々によく絡まれた。肉屋では下記のような具合だった。
「魔王の旦那ぁ、あんた、記憶を無くしたんだって?」
「ええ、まあ」
「辛えだろうなあ」
「いえ、まあ」
「でもなあ、それでもあんたはこの国一番の果報者だよ。なにせカリラちゃんが一緒に居てくれるんだからな。あんな良い子は他にゃ居ねえよ。俺の倅の嫁っ子に欲しいくれぇだがよ、聞きゃあカリラちゃんは上級学校の首席だっていうじゃねえか。きっと将来はひとかどの御仁の妻にならあなあ。それもまあ、あの器量じゃ仕方ねえこったなあ」
「そうっすね」
相槌を打ちながら、俺はひたすらに、カリラが買い物を終えるのを待つのだった。
…………
「お肉屋のおじさま、さっきは先生に何を話されてたんですか?」
「カリラが可愛くて良い子だって事を切切と説かれたよ」
「あはは……」
聞いたカリラは恥ずかしそうな面持ちで苦笑していた。
反応を見るに、どうやら今日に始まった事ではないらしい。
✳︎✳︎✳︎
「カリラ、……あのさ」
「はい?」
カリラにその言葉を投げかけたのは、市場での買い物を終えた帰路での事だった。
干し肉やら大麦のパンやらが詰まった鞄を下げ、俺はカリラと、王立学校校舎である旧王城に至る、緩やかな登りの石畳を歩いていた。
雨の余韻は至る所に残っていた。タイル状に組まれた石畳には至る所に水たまりが出来ていて、傾いた陽の光を反射してきらきらと飴色に輝いていた。
「カリラは、来年の進路って、どうするか決めてるのか?」
その言葉は俺にとって質問というより確認のような積もりだった。だから、
「……進学はしません。年明けにある中級過程の卒業試験を終えたら、職を探して働こうと思います。これ以上の高等な学問は、私には過ぎた事ですから」
カリラのその返答に意表を突かれ、俺はしばし言葉を失くした。
昨日までは想像すらしていなかった未来に……カリラがこの学校を卒業し、俺の元を去るという未来に、直面して。
「が、学費の事なら心配要らないよ、カリラ。こないだのシャルトリューズ家の一件で、懐にも余裕あるし」
「いえ……お金の事だけではありません。王立大学の上級過程というのは、王家や貴族家に仕える文官の方や、教会の運営に携わる神学者の方達のものでして……本当に、私のような者が進むべき道ではないんです」
「でも、就職するにしても、一体どこへ……?」
「同級に男爵家の跡取りの方がいらっしゃるんですが、もしかしたらその方の口利きで、文書作成や経理のお仕事が戴けるかもしれないです。王都で暮らす事も出来ますし、お給金も、身分を考えれば相当なものです」
背中を冷たい汗が流れ、自分の呼吸が早まるのを感じた。
急速に慌てだした頭が、未だ寝ぼけている心臓を叩き起こし、口は脳からの指示を待つ事すら許されず現場判断的に舌を動かした。
「カリラ、そういえば、俺が記憶を失くして、一緒に王都に帰ってた時、言ってたよな、魔術を教えてくれって」
――俺は何を言ってるんだ。
自分の次の言葉さえ掴みきれぬまま、俺は言葉を続ける。沈黙から逃げる。
「実は今日、ピルゼン教授から打診を受けたんだ。来期は俺も教壇に立ってくれ、って。シャルトリューズ家の仕事もひと段落したし、魔術も使えるようになったしさ、俺のところで引き続き助手してくれたら、カリラに魔術も教えられるかなって……ほ、ほら、そうすれば、次の職場に行っても何かと役に立つだろ。勿論、給料はその男爵家よりも多く出すからさ」
口を突いて出るその無作為な言葉たちを、カリラにどうにか明るいものとして受け取って貰いたく、かといって彼女の方を向く勇気もなく、俺は空を見上げた。
鈍色の空の下を、家路を急ぐ一羽の駒鳥が、街の方へ飛んでいく。
白と橙色の羽毛を風になびかせ、小さな翼を目一杯に広げ、帰りを待つ誰かの元へ。
「……そんな優しい事、仰らないでください、先生」
目は駒鳥を追い、耳はカリラの声を追う。音を違えて映画を見ているようだった。
「駄目なんです。先生に引き取って戴いてから、もう六年も経っています。貴族の子だって、立派に一人前になって、家の為に頑張っているような年なんです。私だけが、先生に甘え続けるわけには、いかないんです」
カリラの声が震えているように聞こえるのは、俺の願望だろうか。
「……カリラがどう思ってるかは知らないけど、俺は記憶を失くしてからずっと、君に頼ってばかりいた。別に育ての親だからとか、そういう責任感の積もりで言ったわけじゃない。ただ純粋に、君に助手で居続けて欲しいんだ。身の回りの事なんて、そんなに知らない人なんかに、簡単には任せられないよ」
カリラがぴたりと足を止めたのが、気配で分かった。
カリラは俺の数歩先を歩いていて、その表情は伺い知れなかった。
「……分かり、ました。もう少し、自分の身の振り方、考えさせてください」
その言葉を聞き、それきり俺は何も言えず、ただただ、彼女に合わせた歩幅でもって、雨露に濡れた石畳を歩いた。
部屋に至る道程、俺とカリラに言葉は無かった。
✳︎✳︎✳︎
それから、いつものように食事をして、いつものように言葉を重ねて……そうしていつものように、俺はカリラを女子寮の門前に送り届け、彼女と別れて家路についた。
本格的な冬の始まりに夜空は別の世界の顔を見せ、誰も居ない中庭を歩く自分の姿は、この異世界に来て間もない頃の、名状しがたい孤独感を思い起こさせた。
溜息は外界に吐き出された瞬間、白く凍りついた。
「…………」
今日は、正直、参った。
泣こうとも喚こうとも、否応なしに過ぎ行く時間。それを思い知らされた。
例えば、カリラが俺の元を去り、レゼルが俺の部屋を訪ねる口実を失い――そうした、昨日までは想像すらしていなかった、今ならありありと想像出来る未来に直面したとして、その後も俺は一人、この異世界で生き続けるのだろうか。
生き続ける事が、出来るだろうか。
首元をコートに深く沈め、俺は目を細める。
そうすると、もとより街灯の光のみで成立していた視界が、眠るように暗くなってゆく。
「……カラン・マルクを笑えないな、俺も」
今日はもう寝よう。冷蔵庫の酒を飲めば、もう少し早く、眠りの世界に辿り着けるかも知れない……そんな情けない事を考えていた自分の脳が、急遽視界に入ってきた何かに気付き警鐘を鳴らした。
俺の部屋の扉の前に、誰か居る。
びくりと身体が強張った。
だ、誰だ。ストーカー? 魔王なのに?
慌てて距離を取ろうとしたが、その人物が、つい先ほどまで会話していたピルゼン教授と分かった瞬間、身体のあちこちが呆れたように弛緩して、俺は再び溜息をついた。
「……こんな夜中になんの用です」
俺がそう言うと、教授は俺の足元に縋りつき、首をブンブン横に振ってこう言った。
「魔王麦酒をもう一度、魔王麦酒をもう一度」
俺は閉口して天を仰いだ。
たったひとつの娯楽の為だけに誰かに縋り付く、小気味よいほどの潔さだった。
俺もつい先日まで、こうだったのではなかったか。
間抜けな願い事を申し出る教授の切実とまで言える目に、俺は今しがたまでの自分がどこか馬鹿らしく思え、教授を部屋に招き入れた。
案の定というべきか、教授はそれから毎晩のように、俺の研究室を訪れる事となった。
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