第三章 魔王と王都の年末
第十四幕 魔王対策委員会の人の来訪
「講義? 俺が? この学校で?」
「左様。年明けから始まる冬季日程の半年間、週に一度、題目は自由でいい。頼むね」
ピルゼン教授と名乗る、五〇代程の白髪混じりの男が俺の研究室にやってきて、そんな依頼をしてきたのは、時折にみぞれのような雨が降る冬の始まりの、ある休日の事だった。
カリラは子どもの頃世話になっていた孤児院の手伝いのため、教会に出掛けていた。
『異界の魔王』カラン・マルクが記憶を失くしたという知らせは王都中に知れ渡っているらしいので、俺は、ピルゼン教授のその来訪を、遂に本学からこの研究室の立ち退き命令が来たものと思い恐々と迎えたのだが、どうやらそうではないらしい。
しかし教授の申し出は、ともすれば立ち退き以上に厄介な案件だった。
カリラから以前聞いた話では、魔王カランは、このエレヴェンス・ギルト王立上級学校に名誉教授として就任して六年、講義をした事が一度もない。それなのに教授は俺に講義の依頼を持ちかけて来た訳だ。今更も良いところである。
――無理だ。断ろう。
それでこの研究室を立ち退けと言われれば……仕方ないから都内に別の部屋を探そう。
「折角のお申し出なのですがピルゼン教授、俺は記憶を失っているんです。今の俺は、他所の貴族のお子様方に教えられるような物を何一つ持ち合わせておりません」
俺のその断り文句に、教授はんふふと笑った。
「んふふ、その言い分は通用せんよ。君が持つ魔王の叡智は健在だ。ついこの間も、全く新しい酒を生み出して、シャルトリューズ家の父娘を揃って骨抜きにしたという話じゃないか」
「ど、どっから出てきた情報ですかそれは」
「どっからも何も、シャルトリューズの当主が誰くれ構わず自慢しよるもん。『私の未来の息子がやってくれた』と。今や王都中の噂だよ。石工場のホビット達ですら知っとるよ」
俺は頭を抱えた。
確かに俺は先日、シャルトリューズ氏の悩みの種であった、一人娘レゼルの葡萄酒嫌いをなんとかした。だがそれは、あくまで俺が前世で酒狂いだったために成し得た偶然の所業であり、それを魔王の叡智などと呼ばれるなど、とんでもない。だから、酒の一件はくれぐれも内密にと伝えたのだが……シャルトリューズ氏には、レゼルを介してきついお仕置きをせねばなるまい。
「ご令嬢もご令嬢で、君が贈った美しいグラスを見ては日がな一日ため息をついとるそうじゃないか」
「れ、レゼルったら……」
俺は、熱くなった自分の頬を押さえうっとりと目を閉じた。
レゼルは俺の前で決してデレる事がないので、そうした様子を他人から聞くと破壊力がやばかった。だが今はそれどころではなかった。
「と、とにかく、葡萄酒の件は本当に偶然だったんですよ。俺が講義をするとなれば、学生たちは当然、魔術の話とか、六年前に疫病を払った時の話とか、そういうものを求めるでしょう。でも今の俺には、そうした記憶が一切ない。未来ある学生たちの貴重な時間を、俺の無駄話に使わせる訳にはいかないんですよ」
「だから、講義の題目は自由でいいと言ったろう」
「いやだからって酒の講義する訳にはいかないでしょ」
ここはいつから鹿児島大学になったんだ。剣と魔法の異世界で焼酎学でもやれってか。
教授は俺の頑なな様子にふうと息をついて、俺が淹れた不味い紅茶を一口飲んだ。
「君はいまいちピンと来てないのかもしれんがね、君を魔族の末裔だの幼児性愛嗜好の変態だのと恐れとるのは年寄りの教師陣だけで(ここで俺は割と本気でショックを受けた)、学生の殆どは君を英雄視しとるのよ。その魔王が六年振りに『魔王城』から出てきたのよ? そしたら、そらあ講義よ決まっとろう」
「待て、いろいろ突っ込みたい所はあるがなんださっきの『魔王城』とかいう不穏な単語は」
「ここ二号研究室の通称だよ。そう呼ばれてるのも知らんかったの?」
「こ、この部屋が『魔王城』!? 待ってくれよ、なんでだよ!? 俺そんな噂されるほど怪しげな事してねえだろ! ていうかそもそも、他の先生や学生達と殆ど交流ねえし!」
「しとるわい。何かねあの、外に陳列してあった黒く禍々しい物体は。当『委員会』では魔王が新しい黒魔術を始めたともっぱらの噂よ」
俺はぎくりと身を強張らせた。それは確かに俺の仕業であった。だが。
「こ、昆布を干してただけじゃないか……それをなぜ黒魔術扱いされねばならんのだ」
俺は昆布出汁で鍋を食おうとしただけだ。冬になったから。
そもそも、この世界に昆布を食用に使う習慣がないのが悪いだけなのだ。それをあなた、部屋先に昆布干しただけで黒魔術とは非道い冤罪よ。
「……冤罪といえば、さっきの幼児性愛嗜好の容疑は一体なんなんだ。それについてはいよいよ心当たりがない」
「君、カリラ嬢を引き取ったとき、あの子が幾つだったか覚えとるかね」
「カリラから聞きましたよ。六年前でしょ。だから、えっと……九歳」
「君、シャルトリューズ家の家庭教師を引き受けた時、ご令嬢が幾つだったか覚えとるかね」
「レゼルから聞きましたよ。五年前でしょ。だから、えっと……十歳」
「…………」
「…………」
返す言葉もなかった。
俺は心を落ち着かせるべく紅茶を飲んだ。指先が震えているのはきっと寒さの所為だった。
ピルゼン教授も場を取り直すように紅茶を一口、言葉を続けた。
「まあ、まあ。そんな噂、言いたい奴らに幾らでも言わせておけば良いのだ(良くねえよ)。今回の講義の打診は学長の意向なのだがね、我々『委員会』としては、講義などより、とにかく君に平穏な学園生活を営んで貰う事を最優先したいと考えとる」
「あの、さっきからちらちら出てくる『委員会』ってなんの事ですか」
「『魔王対策委員会』の事よ。異界の知識を持つ君が、万が一にもこの学園を立ち去らず、末長く、より良い引きこもり生活を送って貰うべく六年前に立ち上げられた組織だ。僕を含む五名で構成されとる」
「俺の引きこもりを助成する組織……? そんな組織が成立するんですか?」
「しとるわい。実際、君はこの六年この研究室から出とらん。三ヶ月前に記憶を無くしてからの君は随分活動的になったと見えるが、それでも尚、外出といえばシャルトリューズ家に家庭教師に出かけるか、助手のカリラ嬢と下町に買い物に出かけるくらいだ。そら見ろ、委員会の目的はしっかり果たされとる」
「なんで俺のプライベートが全部筒抜けなんすかね……」
「君、自分の知名度をもう一度再確認した方がいいと思うがね。言い添えておくが、カリラ嬢の人気も相当なものだぞ。この間だって、本学に『最近カリラちゃんと一緒に街を歩いている旦那気取りの馬の骨はどこの誰だ』という脅迫めいた問い合わせがあったくらいだ。魔王と聞いたら退いたがね」
「俺が犯罪者みたいになってるが」
「君が大人しく引き込もっとるお陰で『委員会』はする事が全くない。週に一度の定例会議は、君の噂話をするだけの茶飲み会になってしまっとる」
「やめちまえそんな会議」
「一応活動実績はあるのよ。君の隣の部屋に、本校一のかわい子ちゃんを住まわせたりな」
「えっ」
俺は動揺した。隣室のかわい子ちゃんには心当たりがあった。
「それってまさか、三号室のマノン先生の事か? ……たまに回覧板持ってくる」
「おう、さすがに名前くらいは覚えてるかね」
覚えているも何もなかった。
お隣の三号室に住む中級過程の魔術教師であるマノン先生は、週に一度の砂の日の午後に、俺に回覧板を届けにくる。回覧板の内容はどうでもいい事ばかりだが、マノン先生がとりわけ可愛くて、あと胸も大きかったので、俺は毎週の砂の日を内心楽しみに待っていた。
先日彼女を茶に誘ってみると、存外彼女はすぐに応じてくれたので、俺はレゼルが土産に持ってきた特級の紅茶を出してもてなした。茶会はそれ以来継続している。
なんという事だ。俺はここ数ヶ月、隣の部屋にたまたま美人が住んでいるという月9の第一話のような展開にときめいていたというのに、それが全て『委員会』の策略だった訳である。俺のアラサー純情を返せ。俺は美人局にあった純朴な青年よろしく肩を落とした。本学側はどこまで俺をこの学校に留めたいのか。
「まあ、まあ。そう力を落としなさんな魔王陛下。別に当委員会は君を唆そう思っている訳ではない。そこは信じて貰いたいものだ。だが、講義の事は前向きに検討してくれ給えよ。僕としては、君が半年間みっちり酒の話をする講義というのも、悪くないと思うとるがね……ああ、それと」
ピルゼン教授は少し言い淀んだが、まなじりを上げてこう続けた。
「君、カリラ嬢から、進路の事、何か聞いとるかね? 彼女は今期で中級過程を修了する。もし上級過程へ進学を希望するなら、そろそろ学部を決めて貰わねばならんのだがね」
「え、そうなんですか」
俺のそんな間抜けな返答に、ピルゼン教授は呆れたように溜息をついた。
「……君、大変な時期なのは分かるが、シャルトリューズ家の依頼云々の前に、そういった話をちゃんと彼女にしてくれ給えよ。僕としては、学年主席の彼女には、是非とも進学して欲しいと思うとるが……上級過程は学費も書籍代も桁が違う。彼女の性格を鑑みるに、進学を自分からねだる事はあるまい。君は彼女の里親だ。彼女の将来を導く義務があろうよ」
ピルゼン教授の最もな言葉に、俺は黙って頭を下げた。
今夜、早速カリラと話をしようと思った。
「……ご指摘有り難うございます。カリラの進路の件に関しては、今夜ちゃんと話を聞いてみます。ただ、講義の件は……少し時間を頂きたい。その依頼を受けるからには、俺には学生達の時間を有意義なものにする義務がある」
俺の返答に教授は満足げに一つ頷き、しかし席は立たずにこんな事を言ってきた。
「礼ではなくて酒をくれ。君の酒を飲ませてくれ。この部屋にはあるのだろう? 世界一の富豪親子を黙らせた珠玉の美酒が。相応の代金は支払うから」
「……教授、あなた勤務中でしょう」
聞いてなかった。爛々と目を輝かせ向かいの席に座る教授は、俺が酒を出すまでテコでも動かない様子だった。その佇まいは気迫と貪欲に満ちていた。俺は諦める事にした。
「……一杯だけですよ、これ飲んだら帰ってください」
俺はそう言って席を立ち、台所に向かった。そして、食器棚の横に最近置いたばかりの新兵器……氷冷式冷蔵庫のノブを開け、先日やっと納得の行く仕上がりを見せた渾身の最新作――この王都の大麦を使ったラガービールだ――の瓶を取り出した。
「ほお、それは冷蔵庫かね。贅沢の極みだね。しかしこの寒期に、冷たい酒なぞ美味いのかね」
「ふふ、そう言っていられるのも今のうちですよ、ピルゼン教授」
今回の新作は、紫色のヱビスに匹敵する仕上がりだぜ。
異界の魔王による麦酒の啓蒙を受けよ。
✳︎✳︎✳︎
「もう一杯! もう一杯だけ! ほんとに!」
「でええい! 一杯だけって約束だったろうが! あんた仕事残ってんだろ! マジで帰れ!」
「……なにやってるんですか先生、ピルゼン教授」
研究室の外で、俺の腰に縋りつきぶんぶんとかぶりを振って酒をねだるピルゼン教授を押しのけていると、いつの間にやら帰ってきていたカリラが呆れたようにこちらを見ていた。
「おお、カリラ嬢か、君からも何か言ってやってくれ給えよ。僕がこうまでしてお願いしとるのに、魔王陛下があの甘美なる酒を飲ませようとせなんだよ」
「教授……」
さしものカリラもそんな教授の痴態にため息をつき、こう言った。
「デュイカ教授がお探しでしたよ。この間の試験の採点、まだ終わってないのでしょう?」
それを聞くと、ピルゼン教授は逃げるように本館の方に走って行った。
「流石だね、カリラ」
「まあ、慣れてますから……あら?」
苦笑するカリラが天を見上げる。釣られて上げた自分の顔に、ぽつりと一雫の水が落ちた。
「あちゃあ、雨が降ってきたな」
「しばらくすれば止みますよ。そうしたら、お買い物に行きましょう。今、お茶を淹れます」
普段通りの、心の奥底を安心させるような笑みをひとつ湛えて、カリラは研究室の中に入り、台所に向かった。
俺も倣って部屋に入り、後手に扉を閉めた。
やっと人心地ついたように思った。
「ふぅ、ただ今」
「お帰りなさい」
ノータイムで帰って来たカリラの返事に、逆に俺が戸惑った。
そして、今しがたの自分の発言を反芻し、あまりに恥ずかしい結論に至り口を閉ざし、俺は押し黙って席に着き、静かにカリラのお茶を待った。
ああ、よくない。これは、よくない。
――俺の脳は、この部屋ではなくカリラの居る場所を『帰るところ』と認識している……。
雨を待つ間、俺はカリラとお茶を飲みながら、彼女がさっきまで出掛けていた、教会での話をあれこれ聞いたが、先刻の動揺もあってか、全く頭に入って来なかった。
気がつけば雨は止み、カップは空になっていた。
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