第十三幕 雨上がりの呪い(Reser arc Chartreuse#1)



 この数日ぐずついていた天頂の雲がようやく泣き止み、王都に柔らかな陽の光が差し込んでいた。

 空が晴れれば、自分の中の憂鬱も少しばかりは晴れるだろうか……そんな事を考えていたけれど、残念ながらそれは叶わず、あたしは、遣る方なしに日傘を差して中庭に出る。茶室に向かい歩き始める。


 まだ雨水を持て余している中庭の芝生に設えた、素焼きの煉瓦で組まれた道の両脇で、花壇に植わる秋薔薇たちが、花びらに雫を湛えている。そうして歩いて間もなくに、庭中の薔薇を見渡せる所に、黒鉄で設えられた、大きな鳥籠のような茶室が見えてくる。

 そこに座っていた客人――カラン・マルクは、こちらを見るなり椅子から立って、あたしににこりと微笑んだ。


「こんにちは、レゼル」

「ええ。こんにちは。……カラン」


 この五年間幾度となく言葉を交わした、父と執事以外の唯一の男性。

 そして、二ヶ月前と今とでは、中身が違う変な人。



 あたしの家庭教師だった高名な魔術師、カラン・マルクが、彼自身が組成した異世界転生の秘術によってこの世界を捨て異世界に旅立ち、それから早くも二ヶ月が経とうとしていた。

 いま彼の肉体には、秘術の影響で見知らぬ異世界から呼び出された別の精神体が宿っており、魔王カランは今や本当にその名の通り、異界の人間となっている。実に笑えない冗談だ。


 カランは、茶室の日陰に入ったあたしから日傘を預かり、あたしの分の椅子を引き、あたしがそこに座ったのを見届けながら、丁重に日傘を畳む。

 堂に入ったそれらの挙措は転生前の彼からは想像出来ないものであり、表情からも、それまでの寂しそうな笑みや厭世的な雰囲気はすっかり消え失せ、今は、よく分からない妙なものに興奮してはしゃいだり、あたしやカリラの発言に子どものように笑ったり、恥ずかしい事を言ってきては顔を赤らめてにやりと笑ったり……とにかく笑ってばかりいる。


「今日のドレスは水色なんだな、似合ってる」

「貴方の顔でそうして臆面なく褒められると、ちょっと妙な感じね……。茶室も、テーブルも、椅子も……ここは全部黒鉄で出来ているから、いつもの白や黒の服とは合わないのよ」

「さすがシャルトリューズ家だな。庭中の秋薔薇を見渡せるこのガーデンテーブルで、水色に咲くレゼル自身も、大輪の……えーと」

「ご機嫌取りのおべっかは良い加減止めなさい。慣れてないの丸わかりよ」

「すみません」


 日傘を畳み終えたカランは、苦笑いしてテーブル向かいの椅子に座った。

 二人の間にある丸テーブルには、細長い木箱が置かれていた。


「それが一ヶ月も、あたしを貴方の研究室から締め出した成果?」


 気がつけば、カランに向けるあたしの言葉が恨みがましいものになっていた。


「やっぱり怒ってらっしゃるか……そう言うなよ。作業的なところを見せたくなかったんだ。……だのにレゼルもグラン殿も、アポなしでいきなり研究室に入って来るからさ」

「一応言っておくけれど、毎度ノックはしてたのよ。貴方が変な呪文唱えてたりして、気付かなかっただけで」

「あん時は酷かったなぁ……レゼルが最初にうちに来て、俺に氷の魔術を教えてくれた時だな」


 テーブルの上の木箱を横に寝かせ、箱の蝶番を外しながら、カランがしみじみと言葉を続けた。


「なんだか不思議な気分だよ。あれから……俺がこの世界に来てから、もう二ヶ月近く経つなんて」


 カランのそんな言葉に、あたしも心中で頷いた。


「……なあ、レゼル。あの時なんで、突然うちに来たんだ」


 ぽつりと呟かれたそんな問いを、


「……単なる気まぐれよ」


 嘘で返した。

 カラン・マルクが王都近郊の山中で魔術実験に失敗し記憶の全てを失った……執事のグランからその報告を受けた時、あたしは彼の身に何が起こったかを察し、何よりもカリラの事を心配した。

 グランの報告を聞く限り、カリラには特段変わった様子はなく、記憶を失くしたカランにずっと付き添っていたそうだが……真相を知る私には、彼女のその姿が、何より痛々しいものに思えてならなかった。


 目の前に座る異界の貴方には、きっとなにも分からない。

 想像した事すら、ないかもしれない。

 誰にも引き取られず孤児院を追い出された、何の能力もない子ども達が、王都の貧民街を彷徨った末に、どういう結末を迎えるのかを。

 孤児だった自分の里親になり、学校に行かせ育ててくれたカラン・マルクを、カリラがどれほど慕っていたのかを。

 そして、その、他ならぬカランが、彼女を置いてこの世界を去った事で、彼女の心の中から、一体何が失われたのかを。


 あたしは、カリラがもう立ち直れないかもしれないとすら、考えていた。

 だからあの日、意を決して研究室の扉を叩いたあたしは拍子抜けしたのだ。

 カランの姿で魔王を演じる貴方に、カリラが優しく笑うのを、見てしまったから。


 奇跡のような所業だとさえ、あたしは思った。

 僅か数日であの子の心を解いた貴方は、一体……。



 その時、テーブルにちかりと光が射し、反射的にあたしは目を細めた。

 そして、その光源――彼が先ほどの箱から取り出した――にようやく気付き、目を疑った。


「宝石の……食器?」


 恐らくお酒を飲むために作られたのだろう、ガラスで出来た脚付きのグラスは、形だけなら同じものがこの家にもあるけれど……それらとは明らかに異なる輝きを持っていた。ガラスというよりも水晶に近い。まるで、宝石をなんらかの手段で削り出し、何十年も磨き上げて作ったような……。


「クリスタルガラスというんだ。どっちかって言うと本題よりも、こっちを作るほうが大変だった」

「作った……貴方が?」

「ああ。造形はさすがに本職に任せたけどな。普通のソーダガラスに鉛を加えると、光の透明度と屈折率が上がって、格段に綺麗になるんだ。その反面、脆くて傷付きやすくなるんだけどな」


 カランがグラスをあたしに差し出し、言葉を続ける。


「ガラスってのも、調べてみると意外に面白いもんだ。固体のように見えるけど、中の分子は不規則に結びついていて、性質としては極めて流体に近い。曖昧で、不安定で、仮になにか大きな乱れが与えられると、この状態は解け、真の安定状態への模索を始める」


 差し出されたそのグラスを、あたしは恐る恐る手にとってかざして見る。

 恐らくこの国の王室にも存在しないそのグラスは、散り際の雲間から差し込む陽光を浴びいっそうに輝いた。

 そのあまりの美しさに、あたしは時間を忘れて見惚れていた。


「カラン・マルク様、お持たせ致しました」


 その時、茶室に一人のメイドが入ってきて一礼し、布に包まれた細長い筒のようなものをカランに差し出し、すぐに茶室を辞した。


「……今度はどんな異界の品が出てくるの?」

「人を化け物みたいに言わないでくれよ……一応ただの葡萄酒さ。折角だから、この家ご自慢の冷蔵庫にぎりぎりまで置かせて貰ってたのさ」


 カランが筒の布を取り去る。

 果たして中に入っていたのは、ラベルのない、細く黒い、ガラスの瓶だった。

 瓶からコルク栓が抜かれ、その中身が件のグラスに注がれた瞬間、あたしは驚きに声を漏らした。


 注がれるそばからグラスに霜が降りていく。冷たく淡く透き通った金色の液体。

 通常のものより遥かに粘性の高い、とろりとした、白い葡萄酒。


「一ヶ月、研究室と酒蔵を往復して、これを作ってた。レゼルに気に入ってもらえると良いんだが」


 あたしは再び、葡萄酒が注がれたグラスを手に取る。

 グラスの縁が近づくにつれ、その香りがはっきりと分かるようになっていく。

 あたしの知るどんな葡萄酒よりも華やかで高貴な、それでいて砂糖菓子を思わせる甘やかな果実の香り。

 ある種の特別な緊張とともに、あたしはそれを口に含んだ。


「!」


 凍りつく直前のように、きんと冷えた果実の蜜は、あたしの舌に触れた瞬間、二重にも三重にもその香りを花開かせる。

 滑らかで、静かで、なお力強い流麗な甘みに、味覚野が言葉を失う。

 気がつけば、喉は無断で酒を嚥下し、あとには確かな余韻だけが、口と鼻とに残っていた。


「なに……これ……」


 葡萄を絞っても、砂糖を混ぜても、柑橘を混ぜても、煮詰めても、こうはならない。

 これは、本当にこの世界のもので作られたのだろうか。


「気に入って貰えたようで何より。……仕組みそのものは簡単なんだ。白葡萄を樹上で熟させたまま、魔術で凍らせ、そのまま圧搾機にかけた。そうやって絞り出した果汁で、この酒を作ったのさ」

「凍った葡萄を?」


 あたしは耳を疑った。

 王国南部のシャルトリューズ家の葡萄畑は温暖な地域なので、葡萄が凍るような寒波は来ないし、そもそも葡萄の収穫は秋のうちに終えてしまう。放置してわざと凍らせるなどもってのほかだ。例え畑が寒冷地であったとしても、凍った葡萄に商品価値はなく、破棄してしまうのが通例だ。だから、それはあたしが、いや恐らく、この世界の誰もが聞いたことのない、新しい葡萄酒の作り方だった。


「……でも、そこから、どうやってこんな甘さを作っていくの?」

「作ってないよ。葡萄を凍らせることによって、抽出される果汁の水分量が極端に減る。そこに旨味が凝縮されてるのさ。当然ながら、普通の葡萄酒よりも歩留まりは圧倒的に悪くなるけどな」


 カランからそうした説明を受けながらも、あたしは目の前のその葡萄酒が、どこかこの世ならざる物のような……この日、この時間のためだけに存在する、特別な品物であるかのように感じられた。

 隠しようもなく、あたしは、目の前のその葡萄酒に魅せられていた。


「凍りつくほどの厳しい環境に置かれ、そこでめげずに花開く、力強く、何より綺麗な、甘さと香り……そして、太陽に透ける金色。何から何までそっくりさ」


 そこまで言われて初めて気が付き、あたしは左手で一房、結った自分の髪の毛を取る。

 自分の髪の金色と、グラスに透ける葡萄酒の金色。

 光を返す二つの色は、混じり合うほどに同じ輝きで……


「ちょっと早いけど、このグラスと葡萄酒が、俺からの誕生日プレゼントだ」


 言葉を失い、顔を上げる事も出来ず、あたしはグラスに開く葡萄酒の甘やかな香りを、改めて胸一杯に吸い込んだ。


 天の一雫にも思えた葡萄酒の感動も、不確かなグラスの輝きも、雨に濡れる秋薔薇の美しさも、目の前の彼に抱く複雑な想いも、全て……何もかも、言葉に出せば大切な何かが溶け出してしまうように思え、あたしは静かに目を閉じた。


 改めて、不思議に思った。

 彼はなぜ、全てに気付いておきながら、全てを伏せて魔王の姿を演じるのだろう。

 カリラはなぜ、そんな彼の嘘に気付いておきながら、彼の傍に居続けているのだろう。



 目を開ければ、クリスタルガラスの器の底で、あたしと同じ金色が楽しげに揺れている。

 脆く、傷付きやすく、曖昧で、不安定で、美しい。

 やがて来る決定的な瞬間を揺り起こさぬように、流れゆく一瞬一瞬を大切に掬い取り、弱さと寂しさと優しい嘘を持ち寄って、お互いがお互いを騙しあっている。


「ねえ、カラン」


 だから。


「なんだい、レゼル」


 だからきっと、この質問の答えは、カリラには許されない、この世であたしだけに許された、もう一つの、世界の秘密。


「貴方は、誰なの?」


 顔を上げ、顎を引き、あたしは目の前に座る人に、その問いを投げかけた。

 あたしが生涯忘れる事のない、特別な人の名前を。


「おいおい、五年も付き合ってるのにまだ覚えてくれてなかったのか」

「なっ……!」


 そのなおざりな返答に、あたしは思わず席を立ちかけたが、あたしの目を見る彼の眼差しは、いつもの笑みとは異なっていて――



「異界の魔王、カラン・マルクさ。君に呪いをかけに来たんだ」

「…………」



 あたしは、自分の目が覚えた違和感に、その時ようやく気がついた。

 俯いていた先程のひと時、自身の髪の金色と、葡萄酒の金色とを矯めつ眇めつしていた所為だろうか……自分の網膜に投影されている全てが、先ほどまでよりも少しだけ、輝いている事に気がついた。


 目の前に座るこのいけ好かない男に聞けば、あるいは、その不思議な現象に対する科学的な所見を述べてくれるのかもしれなかったが、その質問は、彼にだけは決して訊いてはいけないと、本能の最後の部分が声高に訴えていた。


「……あたしの誕生日式典は、年が明けてから二番目の家の日に、このシャルトリューズ家で開かれるわ。それまでに、この葡萄酒を人数分、用意して頂戴。必要であれば大型の冷蔵庫も用意するわ。そのほか詳しい話はグランから聞いて頂戴」


 そこまでを捲し立てるように言い終えてあたしは席を立ち、茶室を出た。

 赤や白や黄や桃色や灯色あかりいろに咲く美しい薔薇達を顧みず、茶色の煉瓦の道を足早に通り抜け、屋敷に入るや、あたしの顔を見たメイドが驚いたように駆け寄ってきた。


「レゼル様、そのお顔、どうされたのですか!? お風邪を召されたのでは?」

「……魔王にやられたのよ。強力な呪いをかけられたわ」

「……へ?」


 ほうけているメイドを尻目に、あたしは二階の自室に帰る。

 そこでやっと、自分の右手がグラスを持ったままである事に気が付いて、しかも茶室に日傘を置き忘れた事にも気が付いて、あたしはサイドテーブルにグラスを置き、力任せに、ベッドにばふりと横たわった。


「……卑怯よ、あんなの」


 悪態をついても、目は無意識にグラスの方を見てしまう。

 手にとって、窓ガラス越しに見える、雨上がりの青にかざしてしまう。

 グラスに残った残りひとくち分の金色が、尚も楽しそうに揺れている。

 舌も喉も、その数滴の雫が待ちきれなくてうずうずしているのに、あたしにはそれが、どうしても飲みきれない。


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