第十二幕 横顔までの一歩分(Caolila Sound#2)
「ようこそお越しくださいました魔王陛下。私はシャルトリューズ家の葡萄畑を管理しております、ヘッセンと申します」
「カラン・マルクです。本日明日とお邪魔させて戴きます。宜しくお願いします」
葡萄畑と村の境目にあった大きな家の前で、先生は畑の管理者の方と簡単な挨拶を交わした。
そこは赤い煉瓦の屋根を乗せた家で、隣には大きな木造の作業場がある。
その向こうは果てまで続く葡萄畑で、収穫期でもあるからか多くの作業員の人達がせわしなく働いていた。
作業場は収穫した葡萄を絞ったり保管したりするために使うのだと、私達は先ほど説明を受けた。
管理人のヘッセンさんは貴族位を持つにも関わらず殊勝な先生の態度に恐縮していたが、先生はそれに構わず早速畑の視察を開始した。
視察は日が暮れるまで続いた。
葡萄畑の葉や実の様子、畝の位置や方角、気温、土の状態、作業場で使われている機材の仕組みや材質、匂い……先生は一つ一つをつぶさに調べて手元の帳面に書き起こし、その村で一年に何日雨が降るかといった質問までをヘッセンさんに投げかけ、答えきれなかったヘッセンさんは先生に平謝りしていた。
視察の途中、白葡萄の畝の前で立ち止まった先生は、葡萄の熟成具合を確かめたのち、房から一粒を手に取り口に入れた。
「……割と甘いな、さすがシャルトリューズ家」
先生はそうして幾つかの葡萄を試食したあと、気に入った畝のものを一通り荷車に載せ、作業場に運び込んだ。運んだ葡萄はいずれも白だった。
「先生、レゼルちゃんのお酒、白葡萄で作られるんですか?」
「うん、その積もりだよ。今回の依頼、正解があるとするなら多分、白だ」
手元の白葡萄を圧搾機にかけながら、先生が答えた。
先生は圧搾機から出てきた果汁を掬い、研究室から持ち出してきた透明のガラスの器に入れ、そこで、作業場に置かれていた自身の鞄から小さな瓶を取り出した。
小瓶の中身には想像がついた。先生が最近書斎で育てているという謎の液体”こーぼ”だ。
レゼルちゃんが不気味がってたのでよく覚えている。
”こーぼ”を果汁に振りかけた先生は、器に蓋をして、そこに手をかざした。途端、先生の手元がうっすらと光る。白い反応光……無詠唱の、回復魔術だ。
私は首を傾げた。果物に回復魔術を使う人を、初めて見たからだ。まさか潰した葡萄を元に戻すのだろうか? ……そんな事を考えていた矢先、ガラスの器の中で、葡萄の果汁がぷくぷくと泡立ち始めた!
「どうだい、カリラ。面白くないか?」
「面白いです! 潰した葡萄に回復魔術を使うと、ぷくぷく泡立つんですね!」
「そうじゃない!」
先生が器に手をかざしたまま首を横に振る。
「え……じゃあ先生は今、何をされてるんですか?」
「器の中の時間経過を、回復魔術によって早めている」
この言葉に私は再び首を傾げた。先生が何を言っているのか、さっぱり分からない。
「……本当はねカリラ、俺は、人体から放出された魔素が、ガラスを透過して向こう側の物質に作用するという発見に驚いて欲しかったんだけど……この発見がなぜ凄いのかはレゼルにも理解して貰えなかった……これはカランの論文の中でもかなり重要な指摘だと思ってたが……うーん」
先生は心底残念そうな顔をした後、私に回復魔術の時間経過作用における講義をしてくれた。私はその講義を聞いて目から鱗が出る思いだったけれど、隣のヘッセンさんはちんぷんかんぷんといった風に両手を上げていた。
「先生が回復魔術で、器の中の時間経過を早めているのはよく分かりました。でもそれなら、さっき器に入れた“こーぼ”は一体何の役割を果たすのですか?」
「おお、よく見てるね。さっきの酵母は、葡萄の果汁をお酒に変える働きをしてくれるのさ」
先生が回復魔術を中断し、器の中身をひと匙掬って私に手渡してくれた。
「飲んでごらん」
私は言われるがまま、匙の果汁を口に入れ、その瞬間、衝撃を受けた。
「んん~!」
口から鼻に抜ける甘やかな白葡萄の香り。それに驚かされた直後、葡萄酒自身の旨味が舌の上を縦横に踊る。果実だった頃の葡萄の甘味はいつの間にかすっきりと洗練されており、ぷちぷちと口内を弾ける気泡とあいまって何とも心地良い。喉は待ちきれないとばかりにその液体を飲み下し、後には陽だまりのような暖かさが、頬の端に残った。
「こ、……これが白い葡萄酒、こんなに美味しいお酒があるなんて……」
私が初めて飲むその味に絶句していると、同じく一口試飲した先生が「まあまあだね」と呟いて魔術を再開した。
「まあまあ? この葡萄酒が、ですか? うそ、こんなに美味しいのに……」
「美味くはあるが、これは葡萄が良いからさ。俺じゃなくても作れるよ」
「でもさっき入れられてた“こーぼ”……魔法の液体は、先生が作られたんですよね?」
それを聞いた先生が破顔した。私は何かおかしな事を言っただろうか?
「さっきの酵母は魔法の液体なんかじゃないよ。やり方さえ知ってれば誰にだって育てられる、目に見えないくらい小さな生き物たちさ」
「目に見えなくて……生きてる? それは精霊みたいなものですか?」
先生は私の言葉に虚を突かれたようにこちらを見たが、その後とても嬉しそうにからからと笑った。
「ご明察。この世界の誰もが気付いてないけれど、葡萄酒は実は精霊によって作られている。全くファンタジーな飲み物さ」
***
「先生、いかがでしたか?」
視察後。日暮れも近い赤紫色の空の下、またぞろ肌寒くなってきた葡萄畑を遠く眺め、私は先生にそう尋ねた。
「……凄かった。シャルトリューズ家のこの葡萄畑は先進的だ。これだけの規模で集約農業を行えている事もそうだが、立地も日照条件も土壌も設備状態も、かなり理想的だ。さらにこの農場ではより生産効率を上げるための試行錯誤も行っている。……この農場は、五百年先でも通用する」
先生のそんな一言に、私は心臓をぎゅっと掴まれたような感覚を覚えた。
「いやあ、異界の知識を持つとされる魔王陛下からそんなお墨付きが戴けるとは……光栄の極みです」
ヘッセンさんはそう言って心底嬉しそうに笑ったけれど、私はとてもそんな気分にはなれなかった。
先生は、あの夜の森で、自身の記憶を全て失ったと、私に言った。
私は、それが嘘だと気付いている。
今の先生が、中身の入れ替わった、私の知らない異界の誰かである事を、私は知っている。
だから思う。五百年先でも通用するという先ほどの先生の言葉は、賞賛でも激励でも予言でもなく、恐らく……ただの事実だ。
私は隣に立つ先生を見上げる。
葡萄畑に向かい思案に暮れる先生の目が、ここではないどこかを見ているのではないか――そんな想像に駆られ、私は彼の袖を掴んだ。
それに気付いた先生は、しかし、そんな私の焦燥をよそに、こちらを見て力なく笑う。
「葡萄も畑も一切問題なかったけれど、解決策は見当たらなかった。どういう酒なら、あの子は笑顔になるだろう……こんな事ならもっと深く広く、葡萄酒の事を学んでおくべきだった」
そう言って先生は、再び葡萄畑の方に目をやった。
見上げる先生の横顔は西日の逆光に塗り潰され、私があと一歩踏み出せば腕が触れ合う程近くにいるというのに、その距離が、今は何よりも遠いものに思え、私は口を閉ざして俯いた。
私には、分からない。
なぜこの人は、見知らぬはずのこの異世界で、しっかりと両足で立ち、出会って間もない誰かのために、何かを頑張る事が出来るのだろうか。
「『異界の魔王』、『氷の姫』……なんだか、おとぎ話の世界みたいですね」
口からぽつりとこぼれ落ちたその言葉は、皮肉のような響きをもって、私と先生との間に
「『氷の姫』!」
突如、先程とは打って変わって大きな声を出した先生に驚き、私は再び顔を上げた。
「先生……どうしたんですか?」
「馬鹿だ俺は……最初から答えは出ていたんだ。葡萄の品種も質も問題ない。手段も……魔術がある。いける!」
先生が私に振り返る。輝きを取り戻した目で、しっかりと私の目を見据えて。
「カリラのお陰だ。ありがとう。君に来て貰って、本当に良かった」
✳︎✳︎✳︎
「申し訳ありませんお客様、こちら、なにぶんお一人でお見えになるとばかり思っておりまして、今の時期は収穫のため日雇いを多く入れておりまして……」
「成る程ねぇ」
村に数軒だけあるという宿の、二階にある客間の一室で、私と先生は途方にくれた。
充てがわれた客間は先生の書斎よりも狭く、簡素なベッドは当然ながら一人用だ。
二人ぴったりくっ付けば、あるいは眠れるかもしれない……それくらいの大きさのものだった。ベッドの脇に一台のソファが置いてあったが、とても人が寝られる大きさではなかった。
「まあ、ベッドはカリラが使ってくれよ。俺はそっちのソファで寝るからさ。同じ部屋になってしまうけれど、一晩だけ我慢してくれないか?」
「それはいけません、私は先生の助手で、今回は私の我儘で付いて来たようなも……」
「昨日カリラを視察に誘ったのは確かに俺だったよ。それに、こう見えて俺の身体は割と頑丈なんだ。ベッドはカリラが使う。いいね?」
私の言葉を無理やり遮り、先生は強引に決めてしまう。
頷いた私に、先生はにこりと笑ってこう言った。
「一階に食堂あるって。ヘッセンさんも来てくれてるから、一緒にご飯食べよう。お腹空いたろう?」
……なんだか、今日は先生にかき乱されてばっかりだ。
歯がゆいやら照れくさいやら、私は無理に笑顔を作ってもう一度頷いた。
✳︎✳︎✳︎
「……それでねヘッセンさん、その時考えたんですが、葡萄を圧搾機に掛けず、人の足で踏み潰していくのはどうかなと」
「ほほう、それは噂に聞く魔王の叡智というヤツですか。一見非効率に思えますが、そうする事で、なにか、味が良くなる理屈でもあるのですか?」
「いや、街の若くて可愛い女の子達を集めて、葡萄はその子らに踏んで貰うんです。そうして作った葡萄酒なら、多少値を吊り上げても男どもが馬鹿すか買っていくに違いない」
すっかりお酒が回りきって顔を真っ赤にしたヘッセンさんは、そんな先生の下品な発言に大笑いして机を叩き、そこに置かれた空の食器やお酒の空き瓶が、反動でがちゃがちゃ音を立てた。
それを見て同じく真っ赤な顔をした先生がうははと笑った。
一方で、同じ卓を囲んでいる私は恥ずかしいやら情けないやら、思わず手で顔を覆った。
もう帰りたい。
酔っ払った先生がこんな風になるなんて、私はこれっぽっちも知らなかった。
カウンターや近くの席に座っていた他のお客さんも、先生のくだらない話にいちいち爆笑して騒いでいる。
この人達がみんな、先生の正体に気付いていない事が、唯一の救いだった。
こんな姿、王都の人たちには絶対に見せられない。
私は意を決して立ち上がり、先生の腕を取る。
「ほら、せ、ん、せ、い! もう早く寝ませんと、明日も早いんですよ」
「おお、そうだった。そいじゃあヘッセンさん、今日はこの辺で失礼しゃす」
先生、呂律が回ってないです。
「ああ、お疲れ様でした魔王陛下。……旦那様からのご依頼、くれぐれも宜しくお願いします」
立ち上がったヘッセンさんは、私に引かれて二階に向かう先生の元に来て、深く深く、頭を下げた。
ぴたり、と先生の足が止まり、ヘッセンさんの方を向く。
瞬間、ぱん! という音を響かせ、先生が両手で自分の頬を叩いた。
そして唖然とするヘッセンさんの肩に手を当て、こう言った。
「今日の視察で糸口は掴めました。一ヶ月以内にはモノにしてみせます。きっと、シャルトリューズ家に、そしてレゼルお嬢様に受け入れて貰える葡萄酒を作ってみせます」
お酒の回った先生の顔は相も変わらず真っ赤なのに、私には、先程まで食卓で馬鹿をやっていた人と同じ人には見えなかった。
「うう、いかんマジで飲みすぎた……」
二階の客間に戻った先生はふらふらしながらもどうにか寝支度をすませ、宿に借りた追加の毛布を一枚とってソファに向かう。……とは言っても、この狭い客間の中で、ベッドとソファは二歩も歩かず行き交える距離だ。
「じゃあ、おやすみカリラ。今日もありがとう」
「…………」
底冷えのするこの部屋で、酔っ払ってもなおそんな言葉を欠かさない先生を見て、私は心にもやが掛かったような、なんとも言えぬ気持ちになった。
馬車のシートで眠る先生の安らいだ横顔と、葡萄畑で仕事に取り組む真剣な横顔と、夕焼けに染まり思案に暮れる横顔と、食堂で真っ赤になって笑うだらしない横顔と、そして、ヘッセンさんに確かな約束を返した先ほどの真摯な横顔が、いま目の前に立つこの人の、優しい輪郭に重なって、私の心の奥底に、苛立ちにも似た感情が湧き上がった。
気がつけば、私は先生の腕を取りベッドに歩き出していた。
「……こっちです」
「お、おお~?」
抗えずベッド脇まで腕を引かれた先生は、ふらついてベッドの縁に足を取られ、床に毛布を取り落とし、あえなくベッドにうつ伏せに倒れこんだ。
私は我に返ってその様子をしばし見守ったが、先生が起き出すことはなく、いっときすると彼の寝息の音が、シーツ越しにくぐもって部屋の中に響くようになった。
「…………」
私は先生の体勢を少しだけ整え、床に落ちた毛布を掛け、少しの逡巡のあと、同じベッドに入り込んだ。
先生の寝息のせいで少しだけお酒臭くなった毛布の中で、私は先生の腰に手を回しぎゅううと抱き絞め、彼の腕に顔を押し付け目を閉じた。
「先生の、ばーか」
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