第十一幕 クッキーの午後(Caolila Sound#1)
窓の外はまだ暗く、朝露と肌寒い空気が、未だ眠るこの世界を纏っている。
私はベッドから起きだして、机の上のランプに火を灯し、昨夜あらかじめ用意していた服に袖を通す。
旅装に耐えうる上着を、私は一着しか持ってない。
壁際に置かれた姿見に映るのは、見慣れたこげ茶色のコートを着た自分の姿。
私はその冴えない格好に、思わずため息を漏らしてしまう。
こんなことなら貯めていたお給金で、もっと可愛いコートを買っておけばよかった。
「カリラ、行くのね」
背後の二段ベットの上の方から声が掛かる。
私は振り返って、声の主に謝った。
「あ、ごめんねベルちゃん、起こしちゃったね」
「いいのよ。昨日カリラに話聞いてから、なんだかわたしもドキドキしてたし……そうだカリラ、これを使っていきなさい」
声の主――ベルちゃんはベッドから起きだして梯子を降り、姿見の隣にある自分の引出しから綺麗な小瓶を一つ取り出し、私に手渡す。
「これ……香水?」
「うん。金貨一枚もした、わたしのとっておき。いい?カリラ。これは魔王様をモノにする絶好のチャンスよ。頑張るのよ」
ベルちゃんの燃えるような眼差しに、私は思わずたじろいでしまう。
「あ、あのねベルちゃん、私と先生は、今回ただのお仕事で……」
「駄目よ、そんなことじゃあ! 魔王様をレゼル様に取られちゃってもいいの!?」
何かのスイッチが入ってしまったベルちゃんが私に一喝する。壁越しに隣の部屋から「ベルうるさい~」と声が聞こえる。ベルちゃんはとても優しくていい子ではあるんだけれど、一度スイッチが入るとどうにも手がつけられないのだ。
「とにかくここが正念場よ。あんた、魔王様と六年間も一緒にいるのに、今までこんな事全然無かったんだから。大体、魔王様も魔王様よ……こんな可愛い子がずっと甲斐甲斐しく世話してるのに、求婚の一つもできやしないなんて」
よく分からない怒り方をするベルちゃんをなだめた後、私は彼女の言葉に甘えて香水を使わせて貰い、旅行鞄を手に取り女子寮の扉を開けて外に出た。
夜明け前の冷たく乾いた空気が頬をまとう。
私は構わず、先生の研究室へ歩き出す。
吐く息は白く、心は弾んでいた。
どきどき、していた。
✳︎✳︎✳︎
先生がシャルトリューズ家からお仕事の依頼を受けたのは昨日の事だった。
依頼の中身は聞いていないが、一泊二日で南にあるシャルトリューズ家の葡萄畑を視察に行くらしい。
そして、その視察に私も連れて行って貰えることになった。
ねだったような形になってしまったけれど。
中庭を抜け、先生の研究室の前に立った私は、コートのポケットから合鍵を取り出し扉に差し込む。
私はこうして六年間、目の前のこの扉の鍵を開け続けてきたけれど、今は前よりもずっと、この鍵を開けるのが楽しい。
……そう思ってしまう事に小さな罪悪感を覚えながらも、私は静かに扉を引いた。
「カリラ、お早う。こんな朝早くに来させてしまって、ごめんね」
先生はもう起きていた。
彼が書斎兼寝室として使っている部屋の窓際で、旅装用の黒いコートを着て、しっかり磨かれた革靴を履き、帽子を被った準備万端の姿で、私に優しく微笑んだ。
「お早うございます先生。ご心配無用です。私、今日を楽しみにしてましたから」
「そう言って貰えると助かるよ、ありがとう」
ありがとう。
先生の、少しざらついた低い声で発せられるその言葉に、私はむず痒い気持ちになる。
記憶を無くした後の先生は、こうした日々の積み重ねの中の、何でもないひとつひとつの事に、ありがとうやごめんねといった言葉をくれた。
「あれ、今日香水替えた?」
先生のそんな何気ない一言に、嬉しいやら恥ずかしいやら色んな感情が飛び起きて、私はしどろもどろになりながらも、なんとか彼に言葉を返した。
「はい。あ、いえ……香水を使ったのは、今日が初めて、です」
「あ、そうなんだ。知らなかった……いつもいい香りしてたから……」
言うそばから先生の顔がかあぁと赤くなる。私は先生から顔を背けた。さっきまで痛いほど冷たかった耳先を、沸騰直前の血が駆け回っている。
「ご、ごめんな、折角お洒落して来てくれたのに、今回は葡萄畑にしか連れて行けないんだ」
「それも、ご心配無用です。葡萄畑、楽しみです」
取り繕うような先生の言葉に、私はおかしくなってしまって、笑いながらもそう答えた。
先生はそんな私に少しほっとしたような顔をして、「それじゃあ、さっそく出かけようか」と、当然のように私の鞄を持ち、部屋の外に歩き出した。
校門を出るとシャルトリューズ家の二人乗りの馬車が待機していた。
先生の出張のために二日間貸切にされたものだ。改めて先生の厚遇振りには驚かされる。
先生が御者さんに二言三言挨拶をして、客車に乗り込み私に手を差し出してくれる。
私も先生の手を握りステップに足をかけ客車に入る。
程なくして馬車は街道を歩き出し、まだ薄暗い王都を南へと進み始めた。
手持ちで一番暖かい服を選んできたけれど、お日様が出る前のこの時間帯はそれでも寒い。
私の身体が不随意に震え始めた矢先、肩口にブランケットが被せられた。
私はあわてて右隣を見る。当然、客車には私以外に先生しかいない。
「朝は特に冷えると思ってさ。持ってきておいて正解だったよ。日が出るまでは、これで我慢してくれ」
「……あ、ありがとう、ございます」
私はそれだけをたどたどしく伝える。
そうこうしているうちに、私と先生を乗せた馬車は南の関所から王都を出た。
窓の外、東の山の稜線からお日様が少しだけ顔を覗かせて、鮮烈な朝の光に私は思わず目を細めた。
「朝日、綺麗だねえ」
「……はい」
私は小さくそう答え、ブランケットで身体を覆った。
朝日が客車の中を一様に赤く染め、ブランケットが何色かすらも分からなかった。
✳︎✳︎✳︎
「レゼルちゃんが気に入るような、新しい葡萄酒、ですか……。それはまた、大変なお仕事ですね」
「そうなんだよ……どうした事かなぁ」
そう言ってはぁぁと溜息をつき、先生はだらしなくシートにもたれる。
「でも先生は、丁度葡萄のお酒を作る実験の真っ最中じゃないですか。案外簡単に解決するんじゃないですか?」
「美味い酒は勿論作れるさ。シャルトリューズ家の葡萄は昨日試食したけれど問題無かった。ただ、女の子、それもレゼルみたいな子を喜ばせるとなると……世界中の美味いもの食べてるだろうからな、あの子は」
成る程と私は思った。私だって、レゼルちゃんに心底美味しいと思わせる料理を作れと言われれば、尻込みしてしまうだろう。
「ところでカリラは、葡萄酒を飲んだりするかい?」
「いえ。ベルちゃ……女子寮の同室の友達が十五歳になった時に、同級生でちょっとしたパーティーが開かれた事があって、その時に少し飲んだだけです。多分、先生がシャルトリューズ家で飲まれたような、上等なやつではないです」
「どうだった?」
「……正直、美味しいとは思いませんでした。葡萄をそのまま食べたほうが、ずっとずっと甘くて美味しいのにって思いました」
「やっぱ、そんなもんだよな……こりゃあ難しい依頼だなあ」
先生はそう言って力なくはははと笑う。
私はなんとか先生を元気付けようと考え、一つ良い事を思いついた。
「そうだ先生、クッキーを食べませんか? 昨日の夜焼いたやつです」
「お、いいねえ。戴きます」
私は鞄を開け、クッキーの詰まった紙袋を取り出す。
袋の中で出来るだけ上等に焼けたものを、私は先生に差し出した。
「……美味いねえ。もし今回の依頼が、レゼルが美味いと思えるお菓子を作れだったなら、このクッキーで一発解決だったろうにねえ」
クッキーをさくりと噛んで、先生がそんな事を言う。お世辞にしても言い過ぎだ。
「あはは……このクッキーはそんな大層なものじゃないですよ。でもレゼルちゃんが甘いもの好きなのは本当ですね。このクッキーもレゼルちゃん、いつも凄く美味しいって言って食べてくれますし」
「そういえばレゼルは紅茶にも苺のジャムを入れるよね。甘党なんだろうな」
「女の子はみんな甘いもの好きです……レゼルちゃんも。前から、そうでしたよ」
そう告げると、先生がはっと何かを思い出したように、私の方を見る。
「そういえば、カリラとレゼルとは幼なじみだったよね?」
「幼なじみとも言えません。小さい頃、ほんの少しだけ一緒に過ごした事があるだけです。私とレゼルちゃんとは、住む世界が違いますから」
私は紙袋からクッキーを一枚手に取り、昔のことを思い出す。
「レゼルちゃんは、お家の教育方針で、七歳の時に二ヶ月ほど、当時私がお世話になっていた教会の孤児院に滞在していました」
「改めて聞くと、凄い教育方針だよな、それ」
「私も、そう思います」
そう言って私もクッキーを一口食べる。
麦とバターの素朴な香りと、砂糖の甘みが口の中に広がる。
お菓子を食べる時はいつだって幸せで、特別な時間だ。
そう言えば、私とレゼルちゃんとの繋がりもまた、一枚のクッキーを介しての事だったなと、私は思い出していた。
✳︎✳︎✳︎
孤児院に来たばかりの当時のレゼルちゃんは、いつも泣いてばかりいた。
当然だ。七歳のお嬢様がいきなり親元から離され、孤児と暮らせと言われたのだから。
院の子ども達はそんなレゼルちゃんをなんとか慰めようと頑張ったが、差し述べられる手は次第に減っていった。
それも無理からぬ事だった。
いっときを我慢すればすぐに会える両親を思って泣くレゼルちゃん。
泣けど喚けど永遠に両親が戻らないからこそ、孤児院で暮らしている子ども達。
きっかけは一枚のクッキーだった。
経済的な事情もあり貧しい生活をしていた孤児院で、シスターはなけなしのお金で月に一度砂糖を買い、子ども達にクッキーを焼いてくれた。
月に一度、一人一枚だけの、甘い贅沢。みんなその日を楽しみにしていた。
レゼルちゃんだって、それは例外じゃなかった。
シスターから貰った一枚のクッキーを齧って、泣くのを止めたレゼルちゃん……その姿を見た私は、なぜだろう、自分でも不思議に思うほど自然に、自分の分のクッキーを彼女にあげていた。
お互いまだ、遠慮というものを知らない頃だった。
レゼルちゃんは私のクッキーを素直に受け取り、私に向かって笑ってくれた。
長い雨が終わって雲間から陽が差したような、そんな笑顔を私にくれた。
不思議なものだと私は思う。
いつもお腹を空かせていたあの頃、食べたくて食べたくて仕方がなかった甘いクッキー。
それを一度だけ我慢したあの日が、私とレゼルちゃんを結ぶ今に繋がっているだなんて。
そして、こうして何気なくお菓子を焼いて食べて……そういう生活に慣れてしまった自分を、恐ろしくも思った。
あの時の孤児院の子ども達で、学校に通わせて貰っているのは当然私だけだった。
あの頃の日々を一緒に過ごしたみんなは、今でも大変な思いをしているだろうに。
先生は私のそうした言葉達を、丁寧に相槌を打って聞いてくれた。
静かな馬車の中、湿っぽい空気を入れ替えようと、私はわざと明るい声で先生に問うた。
「そういえば、葡萄酒も蜂蜜を入れて飲んだりしますよね? 今回はそういう飲み方では駄目なんですか?」
「うーん、それで解決出来るなら、最初から俺に依頼は来ないだろうね」
「確かに……」
「もっとも、レゼルの親父さんの言うことはよく分かるよ。会社のトップが自社の製品を愛せなかったら、遠からずその会社はダメになる。でもそれで、飲みたくもない酒を飲まされるのは嫌だよな。なによりあの子はまだ十五歳なんだ」
その言い方に、私はちょっとむっとした。
先生にとっては、私もレゼルちゃんも、まだまだ子どもなのだ。
頭では理解できても、感情はそれに着いていかなかった。
私はそれきり言葉を止めて、しばし窓の外の景色に目をやった。
✳︎✳︎✳︎
馬車が時折の休憩を挟み王都の平野を渡りきり、南の大きな山を越えると、視界に一面美しい葡萄畑が見えてきた。
晴れ渡った水色の空を白い雲が悠々と泳ぎ、秋の風にたなびく緑色の葡萄畑に薄く影を落としている。影は、風に沿って流れる雲と延々に追いかけっこをして遊んでいた。
地平の向こうの畑の終点には、ぽつりぽつりと、赤い煉瓦の家の屋根が見えていた。
車窓から見るそののどかな景色に、たまらず私は声を上げた。
「わぁぁ、先生見てください。こんな綺麗な葡萄畑……先生?」
反応がない事に違和感を覚え振りかえると、先生はシートにもたれ眠ってしまっていた。
空を西に向かうお日様が、ぽかぽかと客車の中を温めていた。
車輪のことこと鳴る音と、眠る先生の息使いだけが、子守唄のように午後の空気を震わせた。
私は肩に掛かったままになっていたブランケットを、私と先生の膝の上に掛け直す。
窓の向こう、葡萄畑の終わりと村の始まりが、視界の先に見えて来る。
この特別な時間はもうすぐ終わる。
「…………」
私はこっそりと先生の肩に身体を預け、反応がないことを確認してから、眠ったふりをして目を閉じた。
いっそ本当に眠ってしまおうかと思ったけれど、それは止めておく事にした。
今この時間より幸せな夢を見る事は、きっと例の依頼よりも難しいに違いないから。
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