第十幕 就職の魔王



 しばらくは穏やかな日々が続いた。

 朝、研究室にやって来たカリラに起こして貰い、朝食を作って貰い二人で食べ、彼女が授業に出掛けるのを見送る。その後昼まで、カランのノートを読んだり、酵母達と戯れて過ごす。

 ワイン用酵母の培養は順調で、少量のワインならすぐにでも試作出来るまでになっていた。

 昼にカリラが作り置きしてくれていた昼食をとり、午後も午前と同様に過ごす。

 夕方、授業を終えたカリラと一緒に近所の市場に出掛け食材を買い、夕食を作って貰い二人で食べ、彼女を女子寮に送った後、研究室に戻り風呂に入って寝る。


 何不自由ない、完成された日々だった。

 何不自由ないのだが、この生活は……


「何よカラン、具合悪いの?」


 ある午後の事だ。日差しが柔らかく差し込む暖かな書斎の、俺の向かいのソファでカランのノートを読んでいたレゼルが、不安そうな声で俺にそう問うた。

 今日も今日とて、レゼルは白と黒を基調とした、フリルを多分にあしらったドレスのような服を見事に着こなしていた。結わえられた金色の髪が日差しを受けきらきらと輝いている。整った美貌とあいまって、本を読むその姿は絵画のようだ。


「ああすまん。具合が悪い訳じゃないんだ」


 俺は図星を突かれどきりとしたが、慌ててレゼルにそう返す。

 レゼルは二、三日に一度、暇を見つけてはグラン氏と共に俺の研究室にやってきて、俺と一緒に書斎で過ごし、飯を食って帰って行った。

 その日レゼルは午後にやってきたのだが、そのお供は珍しい事にグラン氏ではなくメイド服を来た若い女性だった。


「そう? でも貴方、最近なんだか浮かない顔してるわよ」

「そうかな……ごめんな、気を遣わせちゃって。身体はいたって元気だ」


 レゼルは尚も何か言いたげだったが、それ以上食い下がることはせず読書を続行した。

 彼女は魔王のノートの中でも特に自然科学や経済学について記されたものを好んで読んだ。

 勤勉な子なのだと思う。レゼルには、いずれシャルトリューズ家を率いる存在として、数多の取引先や使用人達を路頭に迷わせぬ動きが求められるだろう。本人は何も言わないが、この部屋で勉学を続けているのも、そうした背景があってこそに違いないのだ。若干十五歳である彼女のひたむきな姿には頭が下がった。


 翻って俺のこの惨状はどうだ。

 毎日カリラに起こしてもらい、食事をはじめ生活の一切を彼女に任せるがまま。しかもその生活費は、レゼルの家庭教師などという実態のない仕事によって発生する、シャルトリューズ家からの小遣いによって賄われている。

 これはつまり、現状俺は、カリラとレゼルに養って貰ってるようなものではないか。


 俺は記憶を無くしたとうそぶいて直ぐに、シャルトリューズ家から解雇通知が届くものと思っていたが、そうした知らせは未だ届かない。

 そういう訳で俺は、ここ最近妙な罪悪感に苛まれていた。それが顔にも出ていたのだろう。レゼルの指摘は最もだったが、こんな情けない理由で彼女に心配されるのは本意ではない。

 俺は気を取り直して、レゼルに別の話題を持ちかけた。


「そういえばレゼル、今日はグラン殿はどうしたんだ?」

「グランは今エレナ港よ。パパのお迎え」

「パパ? レゼルの親父さんか?」

「ええ。三ヶ月くらいだったかしら、隣の大陸との大商いが終わったようで、今日帰ってくる予定なの」


 やべえ、と思った。

 シャルトリューズ家が俺の解雇を保留にしたのは、気まぐれではなく当主がいなかったからだったか。


 イマジンしてみよう。高給で雇った家庭教師(アラサー・男)が記憶を無くした結果愛娘(十五歳・美少女)に何も教えておらず、あまつさえその愛娘が家庭教師の部屋に入り浸っていたらどうするか。

 俺だったらクビどころでは済まさない。背中を嫌な汗が流れた。


 不意に、部屋のノッカーが鳴らされた。来客である。


「あ、はいはい」


 この部屋にレゼル以外の来客とは珍しい。俺は入り口に歩いて出向き、扉を開けた。


「ご機嫌よう魔王陛下。レゼルお嬢様はいらっしゃいますかな」


 来客はグラン氏だった。エレナ港に行ったのではなかったのか。あ、いや、まさか……


「グラン、パパ帰ってきたの?」


 挨拶の口上も抜きに、背後のレゼルが俺越しにグラン氏に問う。


「左様にございます。旦那様がお待ちかねですので、レゼルお嬢様はお戻りのご仕度を。時に魔王陛下、旦那様が是非に陛下を今夜の夕食にお誘いしたいと申しておりますが」


 終わった、と思った。


✳︎✳︎✳︎


 レゼルとグラン氏とメイドさんと、あと俺を載せた馬車は、学校を出て街を抜け、そう間も無くにシャルトリューズ家の門をくぐった。

 正座をしていた俺は、出頭中の罪人のような心持ちで、車窓から広大な庭園を見ていた。


 絞首室の入り口にも見えるシャルトリューズ家の玄関扉を開くと、正面の階段上にいた五十代ほどの身なりのよい男性が、両手を広げこちらに向かい一目散に階段を駆け下りてきた。


「レゼルぅううう!」

「パパ!」


 男性に向かい、間髪置かずレゼルが叫ぶ。男性――シャルトリューズ氏の走りは加速度的に増していく。


「会いたかったぞ! 我が愛しのレゼルぅううう!」

「パパ!」

「いけませぬ旦那様!」


 シャルトリューズ氏のその様子に、珍しくグラン氏が狼狽した。何かトラブルだろうか?

 感動の親子の対面と思われたその瞬間、レゼルは自身を抱きとめる寸前の父に向かいこう言った。


「くさい」

「くさい」


 娘の率直な意見を復唱して、シャルトリューズ氏はひとしきり痙攣し、泡を吹いて倒れた。

 メイドが担架を出してきて、シャルトリューズ氏は運ばれていった。

 どの世界でも娘は父に容赦がない。


✳︎✳︎✳︎


「いやはや、失礼した魔王陛下。記憶を亡くしたとグランから聞いたが、息災そうで何より」

「本日はお招き有難うございます、シャルトリューズ様」

「はは、かしこまった挨拶はいい。今は食事を楽しもうじゃないか」


 一時間ほど後、俺は立ち直ったシャルトリューズ氏(風呂上がり)に招かれ、レゼルの同席の上、屋敷の応接室で夕食をとっていた。三人で囲むには大きすぎる丸テーブルには、子羊のステーキに木苺のソースが掛かったもの、香辛料をふんだんに使った魚介のスープ、新鮮な生野菜とサーモンのサラダ、焼きたての白パンと大きく角切りにされたバターが並んでいた。


「如何かね? 魔王陛下」

「美味いです。特に魚介の新鮮さが素晴らしい」


 シャルトリューズ氏にそう尋ねられ、食事の手を止め俺は素直な感想を述べる。


「そうだろうとも。魚介は今朝獲れのものをエレナ港の魔術便で運んでいるからな」

「魔術便?」

「……ああすまん。エレナ港に食材管理専門の魔術師が居るのだよ。獲れたての魚介を急速に冷凍して、その日のうちに早馬車で王都に運ぶのだ。それを魔術便と呼んでいるのだよ」


 俺は感心した。戦争と無縁そうに見えるこの異世界の王都で、魔術師達はそうして生計を立てていたか。


 一時はどうなる事かと思った夕食の席だったが、存外にも会話は弾み時間は和やかに進み、食事を終えた俺たちは紅茶を飲みながらしばし歓談していた。


「魔王陛下、ひとつ酒でもどうかね」


 紅茶のカップを置いたシャルトリューズ氏が俺にそんな事を訊いてくる。


「戴きます」


 俺は一も二もなく了承した。最後の晩餐かと思い臨んだこの席で、酒を振舞われるとは僥倖である。無論出されるのは麦酒か葡萄酒であろうが、この世界の金持ちの家でどんなレベルのものが振舞われるか、見ものだ。

 シャルトリューズ氏は俺の返答に満足げに笑みを浮かべ、続けざまにレゼルに声を掛けた。「レゼル、お前も良かったら一緒に飲みなさい」


「あたしは要らないわ。ご馳走様」


 ナプキンで口元を拭いていたレゼルは、シャルトリューズ氏の誘いには乗らず、そのまま椅子から立ち上がり部屋を辞した。


「……いやはや、またしても振られてしまった」


 レゼルが部屋を出てしばらく後、シャルトリューズ氏は小さくため息をつき頰杖をついた。


「娘のお気に入りの君とならば、あの子も酒を飲むかと思ったのだがね」


 どうやら俺はダシに使われたらしい。流れを考えるに、この世界では十五歳から酒を飲めるのだろう。父は娘と酒を飲みたい訳だ。


「酒はあくまで嗜好品なのですから、無理強いする事はないでしょう」

「そうも言ってられんのだ。……おい、あれを頼む」


 シャルトリューズ氏は近くにいたメイドに何かを告げる。

 間も無く、俺とシャルトリューズ氏の前にグラスに注がれた赤ワインが運ばれてきた。


「魔王陛下、ひとつこれを飲んでみてはくれないか」


 俺はシャルトリューズ氏に言われるまま、グラスを手に取りワインに口をつける。


「…………」

「世辞は要らん。魔王陛下、この葡萄酒、美味いか不味いか、率直な意見を聞かせてくれ」

「……不味い」


 俺は即答し、目の前のワインをくゆらす。


「そうか。……いやあ、さすがに容赦がないな。これでもこの国一番の売上を誇る葡萄酒なのだがね。生憎とこの国を救った魔王陛下と我が娘には受けが悪いらしい」


 成る程と俺は思った。このワイン、どうやら既に娘にも断じられていたようである。


「フォローの積もりはありませんが、万人受けする酒などありません。ところでシャルトリューズ様は、どうしてそうまでしてレゼルに……お嬢さんに酒を飲ませたいのですか?」


 真剣な面持ちで俺を見る彼の目は、どうも娘の機嫌を取りたいだけの父親のそれではない。なにかレゼルに酒を飲ませねばならぬ、切実な理由がありそうだ。


「……小さい事と君は思うかも知れんがね、その酒はこの家の葡萄で作ったものなのだよ」


 自身もワインに口をつけ、シャルトリューズ氏は言葉を続ける。


「レゼルは年が明ければ十六歳だ。社交の場で、付き合いで酒を飲まねばならぬ機会も多々出てくる。その折に、自分の家で作った葡萄酒が飲めないではあまりに体裁が悪いのだ」


 俺はグラスを再び傾けワインを口に運ぶ。

 悪いわけではない。シャルトリューズ氏の出したワインは、市場で銅貨で買える粗悪品とは比べものにならぬ程、果実味も香りも感じられる。だが、なにぶん渋みと酸味が強すぎた。

 口内に頑と居座るタンニン由来の渋みは、冷蔵技術の発展していないこの世界で、常温での長期保存に耐えうるため自然とそうなったものだ。そして好き勝手に味覚野を跳ねる乱暴な酸味は、恐らく醸造中に酢酸菌が混入したためだ。それらはいずれもワイン作りの歴史上欠かせないものであり、ある意味仕方のないものと言える。

 だが、この酒は、少なくとも十五歳の女の子が好んで飲むものでは決してない。


 ……とはいえ、と俺は思う。

 シャルトリューズ氏の懸念は杞憂に終わるだろう。

 レゼルは必要があれば、この不味い酒を躊躇いなく飲むだろう。あの子はシャルトリューズ家に生まれた者としての義務を正しく把握している。そうでなければ、人生で最も貴重な今という時間を、俺の研究室でカランの文献を読む事などには使わない。


 俺は三たびワインを口に含み、その渋みと酸味に顔をしかめた。

 光り輝く華やかな舞台で、美しいドレスを着て、この不味い酒を飲み下し、笑顔を振りまくレゼルの姿を想像した。


「……ときに魔王陛下、今なにか、レゼルの家庭教師のほかに仕事をしているのかね?」


 俺は我にかえった。耳が痛い質問だった。

 おいやめろ。お前正月のときの俺の叔父さんかよ。院生はニートじゃねえんだぞ。


「い、いやあ、今はその、自分の記憶を取り戻すのに手一杯というか、なんというか」


 俺が肯定も否定も出来ず、しどろもどろで目を泳がせていると、


「記憶を無くしたばかりの君に頼むのも気が引けるのだがな、他に頼りがないのだ」


 シャルトリューズ氏はそう言って、テーブルに一枚の地図を置く。

 王国の地図のようだ。今いる王都から随分と南のある地点に、バツ印が打たれている。


「魔王陛下、聞けば君は今、葡萄から酒を作る魔術を研究しているそうではないか」


 シャルトリューズ氏のその言葉に、俺は内心舌打ちをした。

 情報源はグラン氏か……いらん事を。


「君の研究にどういう意図があるのかは知らんが、渡りに船とはこの事だ。魔王陛下、折角ならばその研究、私の依頼とさせて貰えないだろうか。無論報酬は言い値で払う」


 テーブルの上、俺の目の前に、皿に載った赤葡萄と白葡萄とが置かれた。

 それは説明を受けるまでもなく、シャルトリューズ家で作られている葡萄であろう。


「我が土地の葡萄を使って、レゼルが……娘が気に入るような、新しい葡萄酒を作って欲しいのだ。魔王の叡智、今一度お借りしたい」


✳︎✳︎✳︎


「お帰りなさい、先生。お疲れ様でした。今お茶をお淹れしますね」

「疲れたよ。ありがとう」


 後刻、研究室に戻った俺を、普通に部屋に居てくれたカリラが笑顔で迎えてくれた。

 どかりとキッチンの椅子に腰掛ける俺を横目に、カリラが戸棚から紅茶の木箱を取り出す。この間レゼルが土産に持って来た、舶来品の高級なやつだ。

 俺は手持ち無沙汰にカリラを見る。ケトルに火をかけ、お湯を沸かし、沸騰したところで、安物のくすんだ色の陶器のポットに注ぐ。一旦ポットを温めてからお湯を捨て、茶葉を入れてしっかり蒸らして……そうしたカリラの丁寧な所作に、俺はなんだか紅茶を貰う前から安らいでいる。


 俺は先刻貰った地図をコートから取り出し、手に取った。

 シャルトリューズ家の葡萄畑がある村。明け方に王都を出れば、馬で夕方には着くだろう。


「なぁ、カリラ」

「はぁい。もうすぐですよ」


 カップに紅茶を注ぐカリラが、背を向けたまま俺に答える。


「……確か明日は学校休みだったな?」

「? ……ええ。明日は家の日なので、二連休ですよ」


 どうぞ、と言って、カリラが淹れたての紅茶を俺の前に置いてくれる。

 カップからはアッサムにも似た優しく芳ばしい香りが立つ。

 俺はその香りをしばし楽しんだ後、カリラに向けて言葉を続けた。


「カリラ、明日明後日は休んで良いよ。シャルトリューズ家の用事で二日ほど、南部に出張しなくちゃならなくなった。折角だ、学校の友達と、買い物や食事なんかに行くといい。お小遣いもやる、よ……?」


 そこまで言って俺は首を傾げた。

 さっきのは我ながらなかなか気の効いたナイスな発言と思ったのだが……俺を見るカリラの目は、なんと表現して良いのか……少なくとも嬉しさや楽しさとは全く無縁のものだった。


 瞬間、なぜか俺の頭の奥底で、前世で小学生だった頃の、ある夏休みの記憶が思い起こされた。六年生の頃だった。男友達に誘われて、虫取りだか川遊びだかに行くことになった。それで、急遽身支度をした俺は、出掛けてくると妹に告げた。その時のあいつが、丁度今の……目の前のカリラと同じ表情をしていた、なんて……。


「……良かったら、一緒に来るかい?」


 言葉は自然と口から出てきて、俺はカリラにそう尋ねた。


 カリラは一も二もなく頷いた。

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