第九幕 許嫁と顕微鏡を
「お見事、と言うべきですかな、魔王陛下。記憶を無くされたというのが、貴殿の巧妙な嘘に見える程です」
グラン氏はそう言って、白い手袋に包まれた両手で静かに拍手した。
シャルトリューズ家が魔王カランをレゼルの家庭教師に任じたのは、将来のレゼルとの婚姻を視野に入れての事。
そしてカランは、恐らくそれを、甘んじて受け入れた。
「最初から疑問には思っていました。シャルトリューズ家がカランに家庭教師のオファーを持ちかけた当時、カランは国を救った英雄だった。国を滅ぼしかけた不明の疫病を鎮めた立役者を、王国は是が非でも手放す訳にはいかなかったはず……。カリラとレゼルから聞いた話が全て事実なら、魔王カランの功績は、王家や公爵家から婚姻の打診があってもおかしくないものだったはずだ」
「ご推察通りにございます。六年前、魔王陛下はさる公爵家の御令嬢を始め、数多の縁談をお受けになられた。貴殿がそのことごとくをお断りになった為、今でもそれを恨む者もいるのですぞ」
そう言ってグラン氏がくつくつと笑う。
俺は何やら面白くないものを感じつつも、市場へと歩を進めた。
そうだろうとも。
歩きながら、俺はレゼルに聞いた、当時のカランの様子を思い返していた。
国を救ったというのに、感謝どころか疑惑の念を持つような、そんな恩知らずな公爵家や貴族家と懇意になりたい訳がない。ましてやカランは、そのとき既にこの世界を捨てる事さえ考えていた。婚姻に伴う新しい権利や義務など、もってのほかだったはずだ。
だが、しかし。
「それではなぜ、シャルトリューズ家は当時の魔王……俺を家庭教師に立てることに成功したのですか」
俺は果物売りの前で立ち止まり、並べられた赤葡萄を物色する。
グラン氏はまるで俺の執事であるかのように、すぐ後ろで控えていた。
「レゼルお嬢様が、貴殿に直々にお願いしたのです。そして貴殿はそれを受け入れた。当時は大変に話題になりました。これまで殆ど誰とも口をきかなかった氷の姫が、どのような手管で異界の魔王を口説いたのか、と」
グラン氏のその話に俺は舌を巻いた。
当時レゼルが、魔王カランにどんな条件を提示したかは大方察しがつく。
カランが婚姻も地位も名誉も望んでおらず、しかし当面の研究を支えるスポンサーを欲していた事……レゼルはそれに気付いたのだろう。そして婚姻の代替え案として、家庭教師の話をカランに持ちかけた。
そうして、カランはシャルトリューズ家の家庭教師に就任し、両者の関係性を王都中に知らしめ、五年をかけてその間柄を確固たるものにした。
その先にあるものなど言われずとも分かっている。シャルトリューズ家は何としても俺とレゼルを結びつけ、魔王の叡智を永遠に我が物としたいはず。
その交渉の一切を、当時十歳だったレゼルが行ったのだろう。末恐ろしく思う。
そこまでを考えた俺の口から出た言葉は、自分でも意外に思うほど、どろりとしていた。
「……かくして豪商シャルトリューズ家は、数多の貴族家を差し置いて、魔王カランを我が物にした訳ですか。……大切な一人娘の人生を引き換えに」
店の主人に葡萄の金を払い終えた俺は、そう言いつつグラン氏の方に振り返る。
きっとこの時、俺はグラン氏を睨んでいただろう。
面白くない。俺は苛立ちを抑えきれぬまま、自室への帰路につく。
国の栄枯盛衰をも意のままに出来る異界の魔王。そりゃあ貴族家なら手元に置いておきたいに違いない。だが、それで意に添わぬ男に嫁ぐ事になるレゼルの気持ちはどこに行くんだ。
「冴えない顔をしておられますがな陛下、私は、この物語が、お嬢様にとって最も幸せな筋だと信じているのですよ」
俺の後ろを歩くグラン氏がそのような事を言った。
「馬鹿な。あの子は十五歳だ。捨てきれない恋の一つや二つあるでしょう。それを……」
「貴殿だけだったのですよ、魔王陛下。レゼルお嬢様が少なからず興味を持った男性は」
グラン氏が俺の言葉を遮る。有無を言わさぬ力があった。
「お嬢様はその聡明さゆえ、話の合う者が少なく、また家柄ゆえ気兼ねなく付き合える友人もおらず……いつも屋敷の奥で、お一人で本を読んで過ごしておられた。今でもそうです」
グラン氏の語るレゼルの姿は、俺が知る溌剌とした彼女からは想像出来ないものだった。
レゼルの事を語るグラン氏の口調は、執事というよりも、彼女の祖父のような、穏やかで優しさに満ちたものだった。
「魔王陛下やカリラ殿と共に過ごすレゼルお嬢様は、本当に楽しそうになさる。初めての事なのです。私と旦那様がそれをどれほど嬉しく思っているか……貴殿には想像もつきますまい」
俺はグラン氏の話に相槌を打つこともやめ、黙って校門を抜け中庭を横切る。
グラン氏はやはり俺の数歩後ろを歩きつつ、言葉を続けた。
「貴殿ならば、レゼルお嬢様に長らくの笑顔を与えられると、私は信じております。……それは、貴殿が記憶を失った今も揺るぎませぬ」
独白とも思えるその切実な言葉達に、俺はどうにも居心地の悪さを拭えず、一層に歩みを速めた。
そして俺とグラン氏は研究室の扉の前に帰り着いた。
「私はもう宰相ではありません。レゼルお嬢様個人の執事なのです。……あの子の幸せを、何よりも大事にしたいのです」
グラン氏のその言葉を聞き届けてから、俺は両手で顔を拭い、扉を開いた。
「遅いわよ!」
俺とグラン氏が研究室に入るや、テーブルに座っていたレゼルが立ち上がり不満を垂れた。
「ごめんごめん。ちょっと油を売りすぎたかな」
「油? 油なんて持ってなかったじゃない。適当な事言わないで。まあいいわ、席に座りなさい。せっかくの料理が冷めてしまうわ。……何やってるのグラン、貴方もよ」
レゼルにそう声をかけられたグラン氏は、面食らったように首を横に振った。
「いえ、私は従者ゆえ」
「何言ってるの貴方の分も準備出来てるのよ。あたしの料理が食べられないの?」
そんな主のまくし立てるような言葉に、グラン氏はやれやれといった風に首肯した。
「畏まりました。ありがたく戴きましょう……全くお嬢様には幾つになっても敵いませんな」
その後、俺、カリラ、レゼル、グラン氏の四人は、俺の研究室のキッチンで昼食をとった。
カリラに向けて屈託無い笑みを浮かべとりとめのない話題に興じるレゼルと、楽しそうに受け答えするカリラ、レゼルの様子を心底嬉しそうに見守るグラン氏と同じ卓に座り、俺は先程のグラン氏とのやりとりを反芻していた。
レゼルがシャルトリューズ家の跡取としての義務を全うするため魔王カランに近付いたのなら、今日彼女が俺の部屋にやってきたのは、単なる気まぐれでは決してない。
だが、記憶と共に囲い込む値打ちを失った俺を、シャルトリューズ家はどう見るだろうか。
レゼルのこれまでの五年間の努力は、まったくの無駄に終わるのだろうか。
カリラと談笑するレゼルの横顔からは、確かに金貨の肖像に相応しい、俺には想像もつかぬ重責や矜持のようなものが感じられた。
卓を囲む四人のうち、一番幼いのは紛れもなく自分である事を、改めて思い知らされた。
食後、片付けを終えたカリラは午後の授業に出掛けた。
レゼルとグラン氏は引き続きこの部屋で過ごす積もりらしい。
「そういえばカラン、さっきは何を買いに行っていたの?」
日の傾きに合わせ座る場所を変えたレゼルにそう問われる。
「これだよ」
俺は先程市場で買った葡萄を取り出した。日の光を受け、張りのある果皮が瑞々しく輝いた。
葡萄。
世界に酒という至高の文明をもたらした神の果物である。
葡萄というのは全くファンタジーな果物だ。
痩せた土地でも育ち、世界に星の数ほどもある果物の中で随一の糖分を持ち、しかもその皮には、糖分をアルコールに変える天然の酵母が生息している。
熟れた葡萄が自重で木から落ち潰れると、果皮の酵母が果肉の糖をアルコールに分解し、そこで原初のワインが誕生する。
人類が生まれる前から、ワインはワインとしてこの世にあった訳である。
俺は書斎のテーブルで、葡萄の皮についていた酵母を採取し顕微鏡で観察する。
「おっ、やってるやってる」
レンズの向こう、カランの書斎で発掘したガラス板の中で、微小の酵母が動くのがはっきり分かる。
異世界だからもしやと思ったが、安心した。この世界でも酒造りの方法論は揺るがない。
「なになに、見せて」
いつの間にやら傍に来ていたレゼルが、接眼レンズのすぐ隣に顔を持ってきてそう言った。
結わえられた髪の毛先が俺の手の甲に当たり、頬から同じ生き物と思えない程いい匂いがした。俺は男子高校生のようにどぎまぎしながら場所を譲るが、顕微鏡を覗いた彼女の口から出るのは、
「……なにこれ。なにが面白いのよ」
当然ながら毒である。
「レゼル、この世にこれ以上に面白いものはないぞ」
「こんなうようよしてるよく分からないものの何が面白いの」
そうだった。こういうのは女子には受けないのだった。前世で、大学のオープンキャンパスのとき、微生物の話に熱が入りすぎて女子高生たちにドン引きされた苦い記憶が頭をよぎった。
「これは酵母と言うんだ。葡萄の皮に住んでるんだが、こいつが葡萄を酒に変えるんだぞ」
「へええ、それは知らなかったわ。異界の知識って奴ね……でもその”こーぼ”を観察して、貴方は何がしたいのよ」
「決まってる。この酵母を増やして育てて、ゆくゆくはこの世で一番美味い酒を作るのさ」
「……今度はお酒で世界を取るの?」
「世界など要らん。ただ自分で飲むだけだ」
そう言い切った俺に、レゼルは憮然とした表情を向ける。
「貴方も他の大人たちも、あんな不味いものを有難がって飲むけれど、それがあたしには理解出来ないわ」
いかにも子ども染みたその言い方に、俺はたまらず苦笑した。
「そうかも知れないな……俺も昔そう思ったよ。なんでこんなに美味い果物を、わざわざ酒なんかにしてしまうのかってね」
「なら、どうして?」
隣のレゼルが小首を傾げ、素直な質問を向けてくる。
大きな紺碧の瞳を直視できず、俺は再度顕微鏡に目を当てる。
思えばこんな可愛い子と一緒にひとつの顕微鏡を覗くというのは、前世では想像だにしなかったシチュエーションだった。ばれたら大学の後輩達にしばかれるな。
それにしても、放っておいたらこんな子が嫁さんになってくれるというのに、この世界を立ち去るなどとは、全くカランは大馬鹿者である。
「前居た世界で、二十の時に、ある呪いに掛かってしまってな。それ以来、美味い酒を飲まなきゃ生きていけないようになってしまったのさ」
机の上に置かれた葡萄を一粒房からもぎり取り、それを指先で弄び、俺は接眼レンズから目を離さぬままそう言った。
これから俺が言う台詞は、本当はレゼルの顔を見て言ってやれれば良かったのだが、生憎と隣のキッチンで仕事をしているであろうグラン氏にその様子を見られるのはいかにも具合が悪かった。
「呪い? 貴方の元の世界には、呪いなんてものがあったのね……何の呪い?」
「人生を楽しまなきゃいけなくなる呪いだよ。こんだけ近くに居るんだから、もうじきレゼルにも伝染るかもな」
「……貴方、あの人以上にやり辛いわね」
レゼルは俺のお道化た調子にため息をついて、俺の指先から葡萄を奪い、粗野な仕草で口に放り込んだ。
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