第八幕 正午前の氷魔術
「やっ、やった……」
書斎横の物置に高く積み上げられたガラクタの山の中で、お目当ての物を遂に探し当てた俺は興奮して、それを天に掲げ愛おしく眺めた。
俺が元いた世界の物とは比べものにならぬ程原始的だが、間違いない。
顕微鏡である。
切っ掛けは今日の昼前の事だった。
俺はギルト王立学校にある自身の書斎で、この数日そうしている通り、魔王カランの残したノートを漁っていた。カリラが授業に出た後なので、書斎に居るのは俺一人だ。
読んでいるのは『目に見えぬ生物について』という題目のノートで、これは、この異世界に生息する微生物に関する全般的な観察結果や考察が列記されていた。
魔王カランは目に見えぬ生物の事を非常につぶさに調べていたが、それを読んでいる内に俺は自分の中である予感めいたものを覚え、慌てて隣の物置に向かった。
その部屋は、異世界に転生する前のカランが実験や調査に使った道具が山積みになっており、さながらゴミ屋敷のような様相を呈していたが、きっとここにはあれがある。そう直感した俺はいてもたっても居られずに、ゴミ山の採掘を開始した。
そうして一時して、俺は、カランが微生物を観察するために、恐らく自分で作ったのだろう顕微鏡を発掘した訳である。
「ふふふ……」
その顕微鏡は俺が元居た世界で流通しているものとは大きく形が異なるため、一見すると殆どの人には顕微鏡には見えないかもしれない。
だが、前世の大学で有機化学だけを六年やってきた俺には分かる。
そもそも、微生物についてあれだけ正確なレポートを書いていた奴の部屋に顕微鏡が無い訳がない。
昔無くした財布が無傷で帰って来たような……そんな降って湧いたような全能感に、俺は浸っていた。
この顕微鏡とカランの先ほどのノートがあれば、出来る。この世界でも。
全アル中の存在意義、ウイスキーを始め全ての酒に必要不可欠の工程。
酵母の採取と培養である。
そして、いつかカリラはこう言っていた。
『酒造りに必要な発酵と蒸溜の過程は、魔術で代替可能である』と。
おまけに、俺のこの身体は当代最強の魔力を持つ魔術師と言われていたらしいじゃないか。
なれば、俺のすべき事は一つ。
遂に、俺も魔術を使う時が来た訳である。
ガラクタの山の中で、俺は空に手をかざす。
めくるめく酒とバラの日々のために。
いざ。
「ふぁ、ふぁいあー、ぼーる」
火は出なかった。俺の顔は熱くなった。
「何やってるのよ」
「いいっ!?」
俺は慌てて後ろを振り返る。
果たしてそこに立っていたのは、俺の唯一の教え子にしてこの国一番のお嬢様、レゼル・アーク・シャルトリューズだった。白と黒を基調としたゴシックな装いで、怪訝そうな目でこちらを見ている。
――見られただろうか。先ほどの俺の痴態を。俺は知らん顔して平静を装い声を掛けてみた。
「や、やあレゼル。ご機嫌麗しゅう」
「御機嫌よう。で、何よさっきの、ふぁいあーぼーるというのは。顔真っ赤だけど……そういう魔術?」
無駄な抵抗だった。
いい年をして呪文を唱えているところを教え子に見られてしまった。死ねる。
「じゅ、呪文、です……火の」
「ふうん? 貴方の元いた世界では、火を出す魔術はそういう呪文なの?」
「無かったよ俺の世界に魔術なんて!」
「何で魔術がないのに呪文があるのよ」
おっしゃる通り。確かに、なぜ俺の元居た世界には、魔術がないのに呪文があるのか。
俺が一回りも年下の少女に何も言えずはわはわしているうちに、俺の部屋に勝手に入ってきたレゼルは、当然のように物置隣の書斎のソファの、一番陽が当たって暖かい席に腰を下ろし「あ、グラン、紅茶を淹れて頂戴」と、同じく勝手に入ってきたグラン氏に紅茶の準備をするように伝えた。
仕方がないので俺はレゼルの向かいの席に座る。
「それで、なんで突然うちに来たんだ? 家庭教師の日はまだ先だろう」
「ずっと入りたかったのよこの書斎。貴方の精神体がカランの中に入るまで、カランはずっと自分の研究に掛かりっきりで、この書斎には入れなかったから。この部屋には世界中の叡智が詰まっているのよ。それをただの紙束にしておくなんて嘘だわ」
そう言って、レゼルはテーブルに置かれたカランのノートを手に取り愛おしそうに撫でた。
「学びたいなら学校に行けよ。レゼル、俺たちが今いるこの王立学校はな、世界一の学び舎らしいぞ」
「知ってるわ。この学校を五年前に卒業したとき、そんな話を聞いたわね」
事も無げにそういうレゼルに、俺は唖然とした。この子がカリラと同い年なのに学校に通っていないのはそういう理由があったのか。まさかレゼルが十歳で卒業試験にパスしているとは。お前はどこの魔法先生だ。
しかしよくよく考えてみるとこれは好都合。レゼルの学業が優秀であるなら、彼女に直接訊けば良い。
「レゼル、不躾だが俺に魔術を教えてくれ。俺の大いなる目的のためなら、俺はどんな恥ずかしい呪文にも耐えてみせよう」
俺はまくしたてるようにそう言った。
レゼルは鼻を鳴らして、俺を胡乱げな目で見つめた。
「貴方、カリラが貴方のために火や水を出してるときも、カリラの呪文を内心で馬鹿にしてたの?」
「断じて違う。カリラの呪文は素敵なんだ。なぜならカリラが可愛いからだ。俺がやっては駄目なんだ。なぜなら俺がおっさんだからだ」
「それも異世界の価値観って奴かしら……正直全然分からないわ」
レゼルはやれやれと首を振る。そこに、キッチンから、淹れ立ての紅茶のカップをトレイに載せたグラン氏がやってきて、優雅な仕草で俺とレゼルの前にカップを置いた。
「いいカラン、よく見てなさい」
そう言ってレゼルが片手を上げ、今しがたグラン氏の淹れた紅茶を指差した。
レゼルが指先に意識を集中させる。次の瞬間、彼女の指先にたちまち冷気が集っていく。淹れたての紅茶から一瞬にして湯気が失われ、その表面には薄く氷の膜が張り、次にまばたきをした時には、紅茶がカップごと完全に凍りついていた。
「おお……!」
この間、レゼルは一言も発していない。無詠唱、って奴だ。
呪文の詠唱も魔法陣のようなものも介さず、自身の意思のみで魔術を行使する手段。
「呪文を詠唱しなくても、あたしと貴方には魔術が使えるわ。これで問題解決でしょう?」
レゼルはそう言って得意げに微笑んだ。
「あ、グラン、紅茶を淹れて頂戴」
「解せませぬお嬢様」
✳︎✳︎✳︎
「いい? 魔術を使う自分を強くイメージして。空気中を飛ぶ見えない大きさの水が、自分の指先に集まるのを意識するの」
後刻、俺は書斎横の物置で、向かいに立つレゼルに言われるままに、意識を指先に集中した。
身体を巡る何かが指先に集まる感覚はあるが……依然魔術を使える気はしない。
「意識の集中だけでは自分の精神体は変容しないわ。
自分に、世界をねじ曲げる力がある事を知り、それを強く信じなさい」
レゼルのその言葉に、俺の身体はどくりと波打った。
次の瞬間、まるで不可抗力であるかのように、指先から何か不可視の力が出て行くのを感じ、同時に指先にビー玉ほどの大きさの水が生まれた。意識を集中するとその水はどんどん膨らみ、集中を止めた瞬間、水は落下して、あらかじめ準備してあった桶のなかにばしゃりと落ちた。
「…………」
俺は、喜びとも興奮とも恐れともつかぬ不思議な感覚で、自分の指先を見ていた。
それが、俺が生まれて初めて使った魔術だった。
カリラが午前の授業を終え研究室に戻ってきたのは、この異世界の人たちが緑色の鐘と呼んでいる正午の時報の鐘が鳴って間もなくの事だった。
「ただ今戻りました、先生。すぐお昼の準備しますね……ってあれ、レゼルちゃん?」
「カリラ! 久しぶり!」
カリラが部屋に入るや否や、レゼルは立ち上がりカリラに抱きつく。
カリラは一瞬驚いた顔を見せるも、すぐに破顔しレゼルの腰に手を回す。
「うん……久しぶり。レゼルちゃん」
俺は二人の少女が思いの外仲良しだった事に驚いたが、カリラはカリラで、俺の様子を見て驚きと呆れをない混ぜにしたような顔で、俺に声を掛けてきた。
「……それで先生は、何をしてるんですか」
「そうなの聞いてよカリラ、カランに魔術を教えたらね、なんだかおかしくなっちゃった」
レゼルが何やら失礼な事を言っているが、俺は別におかしくなどなっていない。
だが冷静に考えると、桶いっぱいの純氷をにやにやと眺めているおっさんの図は、確かに不気味に見えるかもしれない。
「うふふ、聞いてくれよカリラ。俺がね? 作ったんだ。魔術で。この氷」
俺はこの上なく愉快な心持ちで、そうカリラに返事した。
俺は本当にすぐ、魔術を使えるようになった。
レゼルに見せて貰ったものと同じ、氷の魔術だ。
コツを掴めば容易いもので、俺はまたたく間に自在に水や氷を指先から生み出せるようになっていった。
目の前の美しい氷の全てが己の力によって生み出されたという事実に、俺は興奮を禁じ得なかった。
酒飲みにとって、不純物の一切入っていない氷や水を自ら作れるというのはこの上ない愉悦である。
「それはおめでとうございます……お昼ご飯を作りますので、いいところで切り上げてくださいね」
興奮している俺に、カリラはまるで息子のファミコンをたしなめる母親のような具合で中断を促した。女の子には酒飲みの喜びは分からんか。
「お昼作るの? あたしも手伝うわ!」
そんなカリラに、レゼルが我が意を得たりと話を持ちかけた。
「ええ? そんな、だめだよ。レゼルちゃんはお客様だし、それにすっごいお嬢様なんだし……」
「そんなの関係ないわ。『友達に料理を手伝って貰っちゃ駄目』なんて校則はないでしょ?」
控えめなカリラにぐいぐいと迫るレゼル。楽しげな言い争いは結局のところカリラが折れて、レゼルにエプロンが貸し与えられ、二人はキッチンに立ってあれこれ言いながら昼食の支度を始める。
二人の睦まじい姿に微笑ましいものを覚えつつ、ならばと俺は席を立つ。
「カリラ、ちょっと急ぎで買いたい物があるから、少しだけ出てくるな。昼飯が出来る頃には戻る」
「はい、分かりました。お気をつけて」
コートを羽織り財布を取った俺に、すぐそばに居たグラン氏が声を掛けてきた。
「陛下、私もご一緒致しましょう」
「? ……ええ、構いませんが」
あんたはレゼルの執事だろうがと思ったが不問にした。
女子が二人で料理を作ってる現場に、おっさん一人居合わせるのは辛いよな。
✳︎✳︎✳︎
「魔王陛下、此度は突然の訪問失礼致しました」
「はは、付いて来られたのはそれを仰るためですか、グラン殿」
「申し上げたいのは謝罪ではなく御礼ですよ、陛下」
俺とグラン氏は、研究室を出て中庭を抜け、校門の方へ進む。
水色の空に満ちる外の空気は日増しに冷たさを増していて、コートを着ていても若干肌寒い程だ。
「貴殿が記憶を無くされたとの話を馬車で伺った時、私は内心焦りました」
俺の数歩後を歩くグラン氏が、ぽつりとそう呟く。
「これまで貴殿とレゼルお嬢様とが積み上げてきたものが、貴殿の中で無に帰した訳ですからな。にも関わらず、陛下がお嬢様の家庭教師をお続けくださった事、私は心底感謝申し上げているのです」
「大袈裟な。俺が家庭教師を辞めたとしても、優秀な代わりは幾らでも居るでしょう」
「貴殿の代わりはおりませぬ。魔王陛下は、まだご自身のお立場を分かってないと見える」
校門を出て間もなくのところだった。眼前には、学生向けに日用品や食料品を売る屋台が並んでいるのが見えている。
俺は立ち止まって振り返り、好々爺然と俺を見るグラン氏と目を合わす。
「魔王陛下、貴殿がなぜ、レゼルお嬢様の家庭教師に任ぜられたか、お察し頂けますか」
持って回ったその言い方に若干の苛立ちを覚えつつも、俺は自分の推測で最も妥当だと思う答えを、彼に返した。
「この世ならざる知識を持つ『魔王』カラン……つまり俺を、シャルトリューズ家で囲い込む事。五年前の家庭教師のオファーは、そうするための最善手……俺とレゼルの婚姻を、外堀から埋めるためでしょう」
俺のその答えに、グラン氏は肯定とも否定ともつかぬ顔で、寂しそうに微笑んだ。
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