第二章 魔王と氷の姫

第六幕 魔王の新しいお母さんと氷の姫



「先生、先生」


 まどろみの向こうから、鈴を転がすような美しくも優しい声が聞こえる。

 先生。

 その呼び名は選ばれし者にのみ許された愉悦。金では買えぬこの世の特権。


「先生っ」


 眠るも愉悦、目覚めるも愉悦。

 これがまさしくこの世のはらいそ。この上なく満足した面持ちで息を吐き、まどろみの世界でくつろいでいると、何者かから頭をぴしゃりと叩かれ俺はたまらず飛び起きた。


「な、何奴」

「お早うございます、先生」


 ようやっと俺は覚醒し、現状を把握する。

 柔らかな朝の光に包まれた部屋の中で、ベッド脇に立っていた少女が俺を見てにこりと微笑む。窓の外から鳥の鳴き声が聞こえる。


 俺は数秒をかけて、ここは異世界で、俺は魔王で、彼女は俺の助手のカリラである事を思い出した。


「うん、お早う、カリラ」

「朝ごはん、出来てますから。早くキッチンに来てくださいね。もうすぐ水色の鐘(時報代わりに、朝に鳴る鐘なのだろうなと勝手に推察した)が鳴っちゃいますよ」


 そう言ってカリラが俺に背を向け、隣のキッチンに向かおうとする。


「……!」


 寝ぼけた頭で、俺は昨夜の出来事を思い出した。

 異界の魔王、カラン・マルクが俺に残した手紙の事を。置いて行かれたカリラの事を。その事実に気付いても尚、俺を心配させまいと笑顔を絶やさぬこの底抜けに優しい少女の裏側を。

 その行動は咄嗟で、半ば本能的なものだったのだが、俺は部屋を出ようとするカリラの白い手を掴んでしまった。


「?」


 当然、虚を突かれたカリラが、ベッドから上半身だけを起こした情けない姿の俺を見下ろす。

 俺は、一瞬前の自分の無意識の行動が理解できず、恥ずかしさで今にも逃げ出したい気持ちに駆られたが、次の瞬間、カリラは思いもよらぬ行動に出た。


「……ふふ、なんですか? 甘えちゃって。怖い夢でも、見たんですか?」


 なんと、俺の頭を、まるで幼い子どもをあやすかのように抱きしめたのである。

 俺の顔は、必然、彼女の胸元に押し付けられる形になる。


「!」



 突然だが、APPLEの創始者スティーブ・ジョブズは生前こんな事を言った。


『フォーカスグループ(ある製品のサービスやコンセプト、宣伝方法等について人間の集団に考えを質問する手法)によって製品をデザインするのはとても難しい。多くの場合、人は形にして見せてもらうまで、自分は何が欲しいのかわからないものだ』


 まずい。

 これはまずい。

 生まれて初めての感覚に、俺の全身が粟立った。

 見たことのない性癖が、自分の心の奥底から召喚されたような、名状しがたい感覚が脳に警鐘を鳴らす。

 俺のすぐ鼻先の、カリラの着ている白いブラウスから、えも言われぬいい匂いがする。

 今まで想像だにしていなかった。林檎を食べたアダムの気持ちが、今なら少し分かる気がした。ずっと年下の少女にこうして甘やかされるというのは、なんというか、その、つまり、とても。


「魔王陛下、お戯れも大概してくだされ」

「な、何奴」


 そこに至りようやっと、この部屋にカリラと自分の他に誰かがいる事に気がついた。

 誰かというか、王都の財閥シャルトリューズ家執事のグラン氏だった。マジでなんでいるの?

 今日も完璧な執事ファッションを難なく着こなし、俺を見て呆れて眉根を寄せている。

 かああ、と顔面に全身の血が集まっていくのを感じる。

 年下の少女に甘えているところを他の誰かに見られてしまった。

 これは万死に価するやつ……! 割と警部も動くやつ……!


「な、なんでグラン様がいらっしゃるんですか!」


 カリラも顔を真っ赤にしてぱっと俺から身体を離す(もったいない!)。


「……ノックはしましたぞ。早朝に失礼。昨夜、レゼルお嬢様に魔王陛下の記憶喪失の一件を伝えましたところ、きょう朝一番で連れて来いとの仰せでしてな。朝食もシャルトリューズ家で召し上がるようにと」


  そこまでいって、グラン氏はふむと顎に手を当てた。


「それも記憶喪失の成す業ですかな。魔王陛下とカリラ殿との距離はこの数日でずっと近まったと見える。この重大な事実はお嬢様にすぐさま報告せねばなりますまい」

「あ、あんた、自分の主人にどんな報連相してるんだ止めてくれ!」


 俺の苦し紛れのつっこみに、グラン氏ではなくカリラが、朝日よりも眩しい笑顔でこう答えた。


「あ、そういえば先生、今朝市場で良いほうれん草があったので朝ごはんにしましたよ」


 俺は脱力した。



 その後、朝飯はシャルトリューズ家で食えというグラン氏の提案を断り、俺は研究室のダイニングキッチンでカリラと一緒に朝食をとった。ほうれん草の煮込みはカリラの味付けのセンスもあり美味だった。


 驚くべき話だが、カリラは毎日夜明けに目覚め、身支度を整えると女子寮を出て、上級学校の校門から歩いてすぐのところにある学生向けの市場でパンや豆などの食材を買い、その後この研究室に来て魔王を起こし、朝食の支度をして、魔王と一緒に朝飯を食ってからそのまま授業に出る……そういう生活をずっと続けてきたのだという。

 カリラは魔王の助手を自称していたが、これじゃあ助手じゃなくてお母さんだ。


 食後、黒い上着を羽織ったカリラはほんとにそのまま授業に出て行った。

 カリラを見送った俺はグラン氏に連れられるまま、校門を出てシャルトリューズ家の馬車に乗り、昨日俺を畏怖させた例の屋敷に赴いた。家の庭を馬車で移動するのは初めてだった。

 そして、シャルトリューズ家の荘厳な屋敷の、今日びRPGでも見ないような大扉を開け中に入ると、真っ赤な絨毯が豪奢に敷かれたエントランスの正面階段の頂上に、一人の少女が仁王立ちで待っていた。



 シャトー・ディケムを思わせる高貴なる金色の髪の毛、ボーンチャイナよりも滑らかな白磁の肌。世界一の人形師が設えたのだとしか思えない並外れた美貌。

 実は人間ではなく天界の民ですと言われれば普通に信じてしまいそうな、絶世の美少女。

 魔王カランの、唯一の教え子。

 いかなるサファイアをも路傍の石ころに替える、その紺碧の瞳に怒りを浮かべ、少女――レゼル・アーク・シャルトリューズは、天界の民に相応しい美声でこう言った。


「遅いわよ!」


 言うや否やつかつかと階段を半分ほど降りて、なおも俺とグラン氏を見下ろして、レゼルはよく通る声でこう言った。


「グラン、貴方、水色の鐘が鳴る前にはこの屋敷を出たわよね? 何処で何をしていたのかしら。もう青の鐘が鳴る頃じゃないの」

「既に助手のカリラ殿が朝食を作っておいででしてな。それを捨て置く訳にも行きますまい。シャルトリューズ家の人間は富みても病みてもパンは捨てず。その教えに従った迄です」

「なら貴方は一旦報告に帰りなさいよ」

「返す言葉もありませぬ」


 なんだこのやり取り。


「まあ良いわ。グランは紅茶の支度をして頂戴」

「畏まりました」


 それだけの簡潔なやりとりで、グラン氏は俺を置いてすぐさま厨房へ向かう。


「何してるのカラン、来て」


 レゼルは階下の俺を見下ろし高らかにそう言って、こう言った。


「家庭教師を始めるわよ」


 俺はレゼルが気に入った。


✳︎✳︎✳︎


 グラン氏が言うには、レゼルは昨夜、俺が記憶を喪失したという話を聞いているという。

 実はそれは俺の嘘で、魔王カラン・マルクはその天才的な頭脳によって異世界への転生が可能である事実を長年の研究によって突き止め、魔術でそれを実行した。代わりに俺の魂が、魔王の身体に入ってしまい、俺はこの何処とも知らぬ異世界で、魔王などというとても恥ずかしい異名で呼ばれるようになった訳であるが、無論それは伏せていた。

 ところで三十手前になって周囲から魔王と呼ばれるのはことのほか辛かったが、今はそれはどうでもよろしい。


 グラン氏が優雅に紅茶を準備するさまを、俺とレゼルは彼女の部屋で向かい合って座り静かに見守る。

 とぽとぽとぽ、と、ティーポットから紅茶が注がれるのをぼんやりと眺めつつ、俺は考える。

 魔王カランはこのレゼルお嬢様に大層難解そうな、哲学めいたものを教えていたようであるが、あいにくと今の俺に出来るのは酒の話だけである。

 俺には塾講師の経験があるので高卒程度の勉強であれば一応一通り教えられるが、俺がこの場で求められているのは多分そういうものではない。


 何より俺は、下手な事を喋って彼女に嘘を見破られるのが怖かった。

 俺が魔王カランなどではなく、異世界から来たアル中のおっさんなのだとバレるのが怖かった。


「グランから話は聞いたわ」


 紅茶を注ぎ終えたグラン氏が部屋を辞したあと、俺がレゼルにどう話を切り出そうか思案していたら、これまで人形のように静かだったレゼルが、俺にそう言葉を掛けた。

 広すぎるレゼルの自室には、俺と彼女以外誰もいない。


「そうですか、申し訳ありません。グラン殿が伝えた通り、俺は記憶を全て失いました。折角五年も家庭教師として雇って戴いていたというのに、お嬢様には本当に申し訳なく」

「もう嘘は良いわ」

「……え?」


 一瞬、心臓を氷漬けにされたような感覚を覚え、俺は言葉を失った。

 顔を上げる。

 レゼルが俺の目を見ている。

 紺碧の瞳はマリアナ海溝よりも深い。


 薔薇の蕾が開くように、彼女の唇が開かれ、次の言葉が放たれた瞬間、その小さな口に似合わぬ極大の棘が、今しがた氷漬けにされた俺の心臓に突き立てられた……そう感じた。


「貴方は、誰なの?」

「…………」


 俺は一瞬で理解した。

 これが、これが、レゼル・アーク・シャルトリューズ。

 王国財閥の一人娘にして、氷の姫と謳われた才媛で、魔王カランの、唯一の教え子。


 言葉を失った俺に続けざまに、レゼルが言葉を投げかけてくる。


「話を始める前にひとつ、訂正して貰いたい事があるわ」

「な、なんでしょうお嬢様」

「『お嬢様』と呼ぶのを止めて頂戴」

「……?」

「嫌いなの、その呼び方。敬語もね。貴方じゃない方のカランにもそうして貰っていたし、今更畏まられるのも嫌なのよ。良いかしら」

「……はい」

「敬語も、ね」

「……分かったよ。……れ、レゼル」


 俺がそう言うと、レゼルは八分咲きの薔薇を思わせる、美しい笑みを見せてくれた。

 だが、その笑みは見ている内に次第に萎れ、彼女はやがて遣るかたなしと言った風に唇を噛んだ。


「貴方には迷惑を掛けたわ。分かっていたの。あの人が異世界への憧れを日増しに強めていったのも。亡くなったご両親を悼んで、世界中を恨んでいたのも。ここじゃない何処かへ旅立とうとするあの人を、あたしにも、カリラにも、止めることは出来なかったわ」


 こんな可愛い女の子二人も置いて、何様なのかしら――と、レゼルは紅茶を一口飲み、憂いた目で顔をうつむけた。

 レゼルは昨夜グラン氏から、俺が記憶を失ったという話を聞いている。

 彼女はきっと、その時に全てを察したのだろう。

 ならば、この少女になら、話していいのだ、と思った。

 俺が昨夜感じた、魔王カランの理不尽な暴挙に対する憤りを。


「……そうだ。俺は許せない。レゼルやカリラを置いて、勝手にどこかに行ってしまったカラン・マルクが許せない。何が、全ての子どもには幸せになる権利がある、だ。ふざけるな。残された奴の気持ちを、あいつは何一つ、考えちゃいなかったんだ」

「……あの人を悪く言うのは止めて頂戴」


 だから、レゼルの口からその言葉が出たとき、俺は再び虚を突かれ、反射的にレゼルを見た。


「…………」


 そんな俺の顔を見て、レゼルは心底呆れたように溜息を吐いた。


「カリラから、何も聞いてないのね、貴方……無理も、ないわね」


 レゼルがすっと息を吸う。

 それだけで、この空間の全ての空気が入れ替わったような、そんな感覚に襲われる。


「なら、あの子の代わりにあたしが教えましょう。あの人が何を思って、この世界を捨てたのか」


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