第五幕 異世界からの手紙
熟れ過ぎた赤い夕陽が西の山に落ちる頃、俺とカリラを載せたシャルトリューズ家の馬車は王都の重厚な関所を越えた。
王国王都。三十万の人口を有する、この異世界の大都会。
北西部に王城、その周囲を囲むように貴族達の居住区があり、馬車が通るのはその貴族街にほど近い西の関所だ。
石組みの街道の左右には、本当に人の住処かと疑わしくなる程大きい建物が、悠然と並んでいる。街の中央にこの王都で最も高い塔があり、最上部には九つの鐘が別々の色に塗られて吊るされていた。俺が、乗っている馬車からその塔を眺めていると、丁度その塔の最上部に人が登り切り、程なくして、九つの鐘のうち、真っ赤に塗られたものを鳴らした。鐘の音はある種の静謐さをもって王都中に響き、この地に住む全ての人に等しく同じ時間を教えていた。
俺はそこで、この世界に来て一度も時計を見ていない事に気がついた。
大通りにはお高そうな馬車が行き交い、道行く人々の身なりもかなり裕福そう。
シャルトリューズ家の馬車は程なくして、そんな貴族街で一際目立つ城の前で停止した。
俺は口をあんぐり開けて黙りこくった。
そう城。
ここがこの王都を牛耳る財閥家、シャルトリューズ家のお屋敷なのだろう。この前面に広がる国立公園みたいな奴が、多分いわゆる『庭』なのだろう。そして俺は、この城に住むお嬢様に、勉強を教えなければならないのだろう。つらい。
「魔王陛下、私はこれで失礼致します。宜しければ上級学校までこちらの馬車をお使いになりますか?」
「あ、いえ、大丈夫です、歩いて帰ります」
「左様でございますか。ではこれにて」
俺とカリラはグラン氏に礼を言い、馬車を降りて大通りを東に向かった。
北東部の丘に、斜面に沿ってそびえ立つ、王城に匹敵する大きさの城がある。それが今の俺の職場にして居住、エレヴェンス・ギルト王立上級学校という事だ。
「ギルト王立学校の校舎は旧王城をそのまま利用しています。百年ほど前、大陸統一を成し遂げた王国は、魔物達の沈静化を期に、国防上の理由で斜面に建てられていた旧王城の機能を今の王城に移し変えました。経済的な利便性が高いそうです」
「へええ、良く勉強してるんだね」
そうカリラを褒めると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。
「先生のお陰です。教会に住む孤児だった私の引受人になってくださり、学費の高いこの国一番の学び舎で最高の教育を受けさせて戴いています。だから先生には、一生感謝してもしきれないんです」
貴族向けの洋品店や宝飾店や菓子を売る店や、最新の活版印刷技術をフルに活用した高級書店が立ち並ぶ通りに、ぽつぽつと思い出したように、魔道具を売る店や、騎士向けに剣や鎧などを売る店がある。
見知らぬ街をカリラと二人で歩きながら、俺はふと思う。
もしあの時、あの場所に彼女がいなければ、俺は今頃どうしていただろう。
右も左も、ここが異世界かどうかすら分からず、未だに見知らぬ平原の上を、飢えをこらえて彷徨っていただろうか。
カリラがいなければ。
彼女があそこに居てくれたから。
そこでふと思った。
どうして、魔王はこの少女を引き取ったのだろうか。
どうして、魔王はこの少女を置いて、別の世界に……恐らく『帰って』しまったのだろうか。
✳︎✳︎✳︎
あれこれと街を見て回った所為で、エレヴェンス・ギルト王立上級学校に辿り着く頃には、いつしか日は暮れきっていた。
平日の夜という事もあり周囲は静かで、俺とカリラは一定間隔に設けられた街路灯の光を頼りに中央の大きな中庭を横切る。
そうして歩いて間もなくに、『魔術教員棟』と書かれた看板が見え、カリラはその看板から右に見て二つ目の『二号研究室』と書かれた扉に手慣れた様子で鍵を差し込み、俺を伴い中に入った。
カリラは薄暗い研究室の中を、淀む事なく歩き、テーブルの上に置いてある何かに火を灯す。火が灯されてそれがランプだとやっと分かった。
研究室という名ではあったものの、そこはキッチンもトイレも風呂も完備された、石造りである事以外は普通の家のような部屋だった。
その部屋が、魔王となった俺が、これから先ずっと、暮らしてゆく部屋だった。
「じゃあ先生は、テーブルでちょっとお待ちくださいね」
今更だがこの子に先生と言われると心の底で何かが込み上げてくるのを感じる。
カリラは俺が何かを言う前に、あっという間にオーブンと竈門に火を入れ、パンを温め、キッチンに保管してあったあり合わせの野菜と干し肉を使ってポトフのような煮込み料理を作ってくれた。
この部屋には水瓶が無かったので水はどうするのだろうと思っていたが、カリラは昨日の夜のように呪文を唱え、魔術で出した水で鍋を満たしていた。
忘れていたがここは魔王の部屋だった。
魔術を使える人間の部屋には水瓶を置く必要がないのか。
「先生、出来ましたよ」
カリラがテーブルに置いた木の皿から立ち上る湯気で、寒々としていた部屋がじわりと温まる。俺が「戴きます」と言うと、カリラは少しきょとんとして、「あはは、これはご丁寧にどうも……」と言って食事を始める。
二日ぶりの、暖かい食事だった。
もうずっと長い事、こういう食事をしていないようにさえ、思った。
なぜかは分からないが、この二日で一番、異世界に来たのだと実感した。
✳︎✳︎✳︎
「先生、お見送りありがとうございました」
「見送りなんて大げさな……ここまで徒歩で十分もないじゃないか」
「じゅっぷん?」
「あ、いや、なんでもない」
食後。研究室と同じく城内にある女子寮の手前で、カリラが俺に礼を言う。
彼女は俺に礼を言ってばっかりだな。礼を言うのは本当はこちらの方なのに。
「カリラ、夕飯、ごちそうさま。美味かった」
「あはは、記憶を無くされると、先生もそういう事を仰るんですね」
カリラがそうしてくすくすと笑うと、女子寮の方から彼女を呼ぶ声がする。どうやら彼女の級友が迎えに来たようである。
「じゃあ、先生、私はこれで」
「あ、カリラ! あのさ……」
女子寮に向かって去ろうとするカリラを、思わず俺は呼び止める。
そしてすんでで、喉元まで出かかった情けない言葉を押しとどめた。
――次はいつ来てくれるんだ?
「……大丈夫ですよ、先生。明日の朝、ちゃんと研究室に伺いますから」
彼女はそれを見透かした様に、優しくそう言って俺に微笑んだ。
「……そうか、分かった。じゃあまた、明日」
俺はくるりと踵を返し、背中越しにカリラにそう伝える。
「はい先生。お休みなさい」
…………
辺りが暗くて本当に良かった。急いで研究室に帰らなければ。
今の俺は魔術師だから、今なら本当に顔から火が出てくるかもしれない。
カリラと別れ女子寮を後にして間も無く、街の中心の時計塔で夜の鐘が鳴らされた。
非常に小さな音ではあったが、それは乾いた王都の空気を伝って校舎の中庭まで届いてきた。
俺は足早に研究室へ帰り、先ほどカリラがそうしたように、ぎこちない手つきで鍵を取り出し扉を開ける。そして先ほどまで彼女と楽しく食事をしていた部屋を通り過ぎ、隣の書斎と寝室を兼ねた部屋に入った。
『異界の魔王』カラン・マルク伯爵の書斎。
両端の壁に天井まである巨大な本棚があり、専門書達がせめぎ合うようにして詰まっている。部屋中に所狭しと書きかけの羊皮紙が散らかっている。
それらは全て俺の知らない言語で書かれていたが、この魔王カランの肉体は、正常にその文字達を意味のあるものとして認識している。
正面の大窓からは欠け始めの月が天高く昇り、そこから放たれる青白く清廉な光が、灯りのないこの部屋を蛍光灯のように無機的に照らしていた。
俺は窓際に置かれた黒檀の机に向かう。
机の上に『日記』と書かれた鍵付きの分厚い本がある。俺はコートの内側のポケットから金色に輝く鍵を取り出し、恐る恐る、その鍵穴に差し込む。
かちり、という音がして、日記の錠が開いた。
その時はらりと音を立て、日記から一通の便箋が床に落ちた。
『この世界の人間ではない誰かへ』
「…………」
覚悟はしていた積もりだが、その文面を見た瞬間、恐怖にも似た何かが、俺の全身を強張らせた。俺はじわりと震える手で、便箋の裏の蝋を剥がし、中の手紙を開く。
『この荒唐無稽な試みが万が一成功したときのために、この手紙を残す事にする。
つまり、俺の精神体が肉体から解き放たれ、遥か異世界に向かい、代わりに異世界の何者かが、俺の肉体に入るという、そうした魔術実験が成功したときのために』
「!」
やはり、そうだ。
世界を瞬く間に救ったという、この世にあらざる異界の知識。
彼だけが作れるという『錆びない鉄』。
シャルトリューズ家の令嬢に教えていたという『世界の秘密』。
『異界の魔王』カラン・マルクは……もともとこの世界の人間では、ない。
『あなたがこの手紙を読んでいるという事は、俺が何者であるかは助手のカリラから聞いている事だろう。だが、俺がどういう経緯で異世界に傾倒し、六年に渡る調査や実験の末にこうした結末を迎えたのかは、他の誰にも理解して貰う積もりはない。
俺はとある魔術の研究の過程で、この世界の時間の一部が魔術によって操作可能であるという結論に至った。そこを起点として実験と考察を繰り返した結果、転移魔術と時間操作魔術のある程度の系統化に成功し、遂に確信した。この世界とは別の次元、平行世界は実在する』
「え……?」
俺は何か違和感を覚え、更に手紙を読み進める。
『俺はこの世界が、魔術が、嫌いだった。魔術の素養があると分かれば勝手に敬い酷使し搾取し、大きな成果を出せば途端に手の平を返し怯える、非力な有象無象が嫌いだった。
俺には世界最高の魔力があるらしいが、そんなものは、両親の死に際には何の役にも立ちはしなかった。
他の人には分からない。
この俺の心中を巡る絶望は、他の人には分からない。
俺はこの醜い世界を遂に旅立つ。
魔術なき差別なき新天地へ、死んだ家族が生きているかも知れぬ異世界へ、一縷の望みを掛けて。
唯一の心残りは助手のカリラの事だ。
孤児院で彼女と知りあったのは全くの偶然だったが、彼女は亡き母親によく似ていて、俺はどうにも彼女を放っておく事が出来ず引き取った。
彼女は学校が終わるたび俺の研究室に足を運びあれこれと世話を焼いてくれた。
人としての道を捨て、求道者として生きる俺をどう罵ってくれても構わない。
構わないから一つたけ、俺のこの忌まわしい世界での栄誉と財産のすべてを引換えに、願いを聞いては貰えまいか。つまり、カリラにこの事実を――俺が既にこの世界の外にいるという事実を伝え、解放してはくれまいか。
聡明でよく気がつく優しい子だ。国王陛下には彼女の名義で俺の財産の一部を預けているから暮らしに不自由する事もあるまい。
全ての子どもには幸せになる権利がある。その幸せに、俺の存在は足枷にしかならない。
彼女を自由にしてやって欲しい。引き取られた恩義があるからだろう、彼女は俺がどう言っても頑として俺の傍を離れようとしなかったが、中身が別人と分かればその義理からも解放されるだろう』
手紙はそこで終わっている。
全てを読み終えた俺は、次第に震える身体を抑え、深く深くため息を吐き、手紙を一思いに破いた。
「くそったれえ!」
既にこの世界に居ない男に向けて、誰にも届かない俺の叫びが部屋中に響いた。
この借物の身体を駆け巡る怒りで、俺は今にもどうにかなってしまいそうだった。
俺は書斎にあったやたらと高級なソファに腰を下ろし、テーブルに積み上げられていた羊皮紙を力任せに薙ぎ払う。テーブルの上の奴の痕跡が全て消え失せても、俺の中で燃え盛る炎はいささかも消えはしなかった。
魔王カランは、異世界の人間ではなかった。
只の本物の天才で、平行世界の存在に気付き、浮世を嘆き、死んだ家族を求めて異世界に旅立った、底なしの大馬鹿者だった。
幼い頃に家族と死に別れたのだろうカラン少年の心うちは伺いようもない。
何か相当な事情があったであろう事も、書き殴られた文面からはっきりと伝わった。
だがそれなら、そんな男であるなら、どうして同じ境遇のカリラをひとりぼっちにできようか。
この世界への恨みというのはそんなにも深いものだったのか。
異世界への憧れというのはそんなにも中毒的なものだったのか。
残された人の気持ちを、お前は身も千切れる痛みと共に知ってたんじゃなかったのか。
息は荒く、不覚にも目頭が熱くなり、俺は涙をぽろぽろと零した。
カリラが昨日の夕方に、会って最初に俺に向けた言葉を思い出す。
『もう、どこにも行かないでください。私を置いていかないでください。……本当はずっと怖かったんです。研究室に篭っている先生が、どこか、この世じゃないどこかを見ているような気がして。いつか、私や、私たちを取り巻くこの世界を捨てて、別の世界に旅立ってしまうんじゃないかと思って』
ああ……そうか。
俺は目頭を抑え、天を仰ぎ嘆息する。
カリラは最初から気付いていた。気付いてなければ、あの場面であの言葉は出ない。気付かない訳がない。
家族を失った魔王が別の世界に、別の可能性に魅せられていく様を、彼女は六年間、彼に一番近い場所で見ていたのだから。この二日間、俺にしてくれていたように、必死に笑顔を絶やさず、彼のすぐ傍で。
『先生……ところでそのお酒は、どこの国の文化なのですか?』
今日の昼にカリラに言われた何気ない一言を思い出す。
……俺はどうしてこう、底なしの大馬鹿者なのだ。
カリラは全てに気付いていた。気付いていたが、この見知らぬ異世界で、記憶喪失だと嘘をついた俺の胸中を推し量って、わざとその嘘に乗ったのだ。
『例えあなたが何を失くしても、私はずっとお傍にいます。あなたが、それを許してくださる限り』
カリラがこの二日、俺に向けてくれた沢山の優しい微笑みを思い出す。
あの笑みの裏側には、一体どんな思いが渦巻いていたのだろうか。
時計の針すら聞こえぬこの部屋のなかで、俺の頭の中の嵐だけが、狂ったように鳴り響いていた。
この異世界にたった一人放り出された孤独など、既にどこかに失せていた。
俺の全てを投げ出しても、カリラという少女を幸せにしなければと、心の底から思った。
夜はしんしんと降り積もる。
この異世界にも平等に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます