第四幕 執事と麦を



 どうやら俺は王族ばりの力を持つ財閥家のお嬢様の家庭教師らしい。

 その家庭教師の日が明日らしい。

 そんなお嬢様に俺が何を教えろというのか。魔術か。魔術なのか。俺が教わりたいわ。

 異世界二日目の俺を舐めるなよ。もっと優しくしろよ。

 俺が橋の袂でもちもちしていると、お茶を飲んでいたカリラがぴくりと顔を上げた。


「先生、馬車です」


 言われて見やる。固く締まった街道を、港町エレナの方から、二頭引きの馬車が走ってきていた。

 車輪は四つ、四人掛けくらいの黒い客車は装飾が少ないものの一目で高級品と分かる趣味の良いデザインだった。開口部の下に見慣れぬ紋章が彫られている。


「噂をすればなんとやら、ですよ、先生。あの紋章、シャルトリューズ家の馬車です」

「いやっ」


 反射的に俺は耳を押さえてしゃがみこんだ。

 怖い、と思った。

 東大の学会でプレゼンしたときもここまでは無かった。

 ところで東大の理系達は意外と普通に優しかったが今はそんな事はどうでもよろしい。


 俺がそんな馬鹿な事をしているうちに、黒い馬車は俺とカリラの前まで来て、その進みを停めた。

 おい、なぜ停まる。早く向こうへ行けよ。一日くらいは対策を立てさせてくれよ。


「誰かと思いきや貴方でしたか……魔王陛下。貴殿ほどのお方が、一体何に怖がっておられるのです」


 恐る恐る振り返り馬車を見る。

 開口部からこちらを見るのは、どっからどう見ても執事だった。

 ロマンスグレーのオールバック、貫禄を感じさせる顔の皺、良く手入れされた黒いスーツ、美しく白い髭。非の打ち所のないイケオジだった。俺はとても良い気分になった。


✳︎✳︎✳︎


「記憶喪失、でございますか……」


 シャルトリューズ家の馬車はサスペンション付きの高級品で、車内は見た目ほどには揺れなかった。

 結局その後、招かれるままに俺とカリラは執事の乗るその馬車に乗り、共に王都に向かっていた。


「それは大変なご苦労お察しします。私の名はグラン・タリスカー。王国財閥シャルトリューズ家に仕える者で、当主の一人娘であるレゼル・アーク・シャルトリューズ様の執事を務めております。改めてお見知り置きを、魔王陛下」


 グラン氏はよりにもよって件のお嬢様本人の執事だった。

 終わった、と思った。


「こ、この度は、お嬢様の家庭教師という大役を仰せつかっておきながら、このような事態になってしまった事、甚だ慙愧に耐えませんで、なんともお詫びのしようもありませんで」

「落ち着いてくだされ陛下。良いのです。事故なのですから仕方ありますまい。魔王陛下と我が栄光のシャルトリューズ家とは、これから長い時間を掛けて、また良好な関係を築けていけば良いのです。それに、いずれ陛下も、我が主人となる訳でありますからな」

「……は?」


 なんでこのイケオジが、いずれ俺のしもべになるのか?


「まさかそれもお忘れですかな? 魔王陛下」

「…………」


 な、なんてズルい執事だ。記憶喪失と言ったろう。イケオジじゃなかったらぶん殴ってる。


「……な、何をでしょうか? 恐れ多くも私は全てを忘れた身。お教え願えませんか」

「魔王陛下とレゼルお嬢様のご婚約の話でございます。ご記憶を無くされているようでしたら、この話はシャルトリューズ家にて、旦那様も交え改めてしなければなりますまい」


 ズルい執事からそんな言葉が出た瞬間、


「そ、そんなお話は聞いていません!」


 ばん! と勢い良くカリラがシートから立ち上がり、そのまま天井に頭をぶつけた。


「うみゅー」


 両手で頭を押さえ屈み込むカリラ。目に涙を溜めながらも執事をきりりと睨みつける。


「ご、ご婚約なんて……そんなのは嘘です。先生は確かに偉人だ魔王だ伯爵だと呼ばれていますが、ご飯も一人で作れませんしお部屋は散らかり放題だし髪の毛はぼさぼさだしたまに靴下に穴もあいてますし社交術など皆無です。レゼルちゃ……シャルトリューズ家のご息女の旦那様なんて務まるはずがありません。そもそも先生は、こないだおしめが取れたばっかりなのです結婚なんて早すぎます」


 そんなのは嘘です。


「カリラ、ちょっと落ち着いて。俺の悪口言うの止めて」

「でも先生」

「陛下の仰る通りですぞカリラ殿。ご婚約の話は私の嘘です」


 俺は執事をぶん殴ったが、すんでのところで躱された。



 馬車に設えられた濃紺色のシートは非常に座り心地がよく、昨夜あまり眠れなかった俺としてはここで一つ昼寝でもしたいところであるが、いかんせん乗っている馬車が大身の財閥家の車であるため、そういう訳にもいかないのだった。

 王都へ続く街道は思ったよりも硬く慣らされ、馬車の揺れはどこか心地良い。

 時折聞こえる馬のいななきと、遠くに香る麦の匂い。季節は収穫の秋らしい。

 水色に晴れた空は高く、気ままな雲がまばらに泳ぐ。


 昨夜の俺は世界で一番の不幸者だと思っていたが、こうしていると、異世界というのも案外悪くない気がしてくるから、まったく人間というやつは現金なものだ。


「魔王陛下はレゼルお嬢様の家庭教師をかれこれ五年お続けになっていますが(ここで俺が「長えよ」と突っ込んだがグラン氏は無視した)、最近は教える事も無くなり、もう殆どお嬢様の話し相手のような役割になっておりましたので、記憶喪失でもさしたる不都合はありますまい」


「俺が不都合なんですがね、グラン殿」


 自慢じゃないがウイスキーの話しか出来ないぞ俺は。お嬢様の教育には不都合しかありますまい。


「貴殿が不都合だとしても、お嬢様は、記憶喪失になった程度では貴殿を手放しますまい」


 貴殿はお嬢様のお気入りですからな、と、グラン氏は薄く微笑んだ。


「お気に入り?」

「ええ。天界の美貌と最高の頭脳とありとあらゆる才能を併せ持ってお生まれになられたお嬢様は、何をなさっても数日で師を追い抜いてしまうのです。努力で何かを成す喜びを理解できず、いつしかその顔から笑みは消え、美しい容貌と相まって国民からは『氷の姫』と呼ばれていました」


 グラン氏はそのダンディズム溢れる顔に似合わず、己の主人である少女をべた褒めした。


「しかし貴殿が家庭教師をしている時間だけは、年相応に明るく溌剌とした笑顔を取り戻すようになりまして、旦那様も大層お喜びでいらっしゃいます」


 グラン氏の話を聞いて、俺はなるほど合点がいった。


「……お嬢様は魔術の分野で初めて努力の喜びを知ったのですね」


 そう問うと、グラン氏は「いいえ」と首を横に振る。


「最初はそうでしたが、結局のところ、魔王陛下がお嬢様に教えていたのが何だったのか……凡庸な私には分かりかねました。何と言いますかな……、魔術という、一つの学問で収まるような、そうした狭い教えではなかったように思うのです」


 彼はふと顔を上げ、思案げに何かを思い出すようにぽつりとこう言った。


「魔王陛下が……記憶を失くされる前の貴殿が、レゼルお嬢様に教えていたのは……学問を越えた者だけに許された、他の者には理解出来ぬ、隠されていた世界の秘密のような物だったのではないかと思うのです」


✳︎✳︎✳︎


 馬車が王都に近づくにつれ、街道に沿って一面の大麦畑が見えてきた。


「うぉぉ、これは圧巻だな」


 地平の先まで続く金色の麦の海と、その向こうに見える青い山々。カリラの魔術を見た時ともまた異なる感動に、口元がつい綻んでしまう。


「先生、まるで子どもみたいです」


 そんな俺の姿を見てカリラがくすくすと笑う。


「これだけ大麦が取れるなら、王都はさぞ酒造りも盛んでしょうね」

「そうですな。王国の麦酒は世界で最も美味だと言われております」


 俺の問いに、グラン氏がそう答える。


「麦酒? 蒸留酒はないのですか?」

「蒸留酒? あの葡萄で作るやつですかな?」

「いや麦で作る蒸留酒」


 というかウィスキー(愛している)。


「いえ、そうしたものはありません。それは美味いのですかな?」


 俺は『かっ』となった。


 まったくこの老執事は世界を知った風でいて真に美味い酒を知らぬと見える。ファンタジーの麦酒など、どうせあれだろ、いわゆる異世界エールだろ。大麦を発酵させてありあわせのハーブで香り付けした常温の不味い奴だろ。そんなものがウィスキー(愛している)に勝てるわけねえだろ!

 と、そこまで思ったところで俺は重大な事実に気付き、わなわなと震えグラン氏に尋ねた。


「麦で作る蒸留酒は、……無い?」


「私がシャルトリューズ家の宰相だった頃は屋敷の酒の管理もしておりましたので(ここで俺は『この男は何をやらかして宰相からただの執事になったんだろうか』と思ったが明らかに地雷なので黙っている事にした)、世界中の酒を知った積もりでおりますが、麦で作る蒸留酒というのは寡聞にして知りませぬ。葡萄の蒸留酒がある訳ですから無論誰かが作っているのでしょうが、少なくとも王国にはありませぬ」


 絶望的な事実を知り、俺は頭を抱えた。

 ウィスキー(愛している)が無い世界でなんて、生きていけない。生きていけない。


「先生、先生、お気を確かに」


 隣のカリラが甲斐甲斐しく俺の背中を撫でさする。この子はマジでいい子だな。

 カリラのお陰で少しだけ元気が出てきた俺は、深く息を吐き思案する。

 グラン氏の言葉は衝撃的だったが、さもありなん。俺の元いた世界でも、実はウイスキーの歴史はそこまで深いものではない。鉄道も自動車も飛行機もなさそうなこの世界で、麦の蒸留酒が樽から生まれるのはまだ先の事なのであろう。


 俺は途方に暮れて金色の海を見る。水面は静かに揺れている。


 漂着した無人島で金銀財宝を見つけた、飢えた冒険者の気分だった。先程の穏やかな心持ちは、この秋空の雲のように散ってしまった。カリラは先程、俺が相当な金持ちだと言ったが、金で即座に酒が作れるならこの世に酒造会社など存在しない。例え酒造の許可を取ったとしても、莫大な金を投じて適切な湿度と水場を備えた森に蒸留所を構え醸造、蒸留、熟成、貯蔵……納得のいく酒が出来上がるのはいつになるのか。その時俺は何歳なのだ。この異世界で、果たしてそんな事が出来るのだろうか。


「ところで先生」

「なんだい、カリラ」

「先生のおっしゃるそのお酒、具体的にはどういう作り方なんですか?」

「作り方、かぁ」


 俺はカリラにウイスキーが出来るまでのおおまかな工程を説明した。とは言っても、酵母や酵素、仕込み水に必要とされるミネラル分の説明などは彼女にとってかなり難解だった様子で、噛み砕いて説明するのには苦心した。目に見えぬミクロな話が多いのだ。思うに、この世界ではそうした分野の学問は未発達なのだろう。

 蒸留の仕組みはなんとか理解して貰えたが「なんだか錬金術みたいですね」というカリラの返答が印象的だった。


「正直半分も分かりませんでした……」

「ごめんね。俺の頭がもっと良ければ、分かりやすく伝えられたと思うんだけど」

「それはこちらの台詞です、先生……ところでそのお酒は、どこの国の文化なのですか?」


 俺はぎくりと身を強張らせた。異世界の酒ですとは言えまい。適当に誤魔化す事にした。


「それが記憶が曖昧なんだ。知識として俺の頭の中に残っているからどこかの国にはあるんだろうけど、悔しいことにそれが自分でも分からないんだ」

「なるほど……記憶喪失も大変なのですね」

「大変なのさ」

「でも多分先生、それくらいの工程なら、先生にとっては簡単な事だと思いますよ?」

「……え?」

「さっき先生が仰った発酵って、要するに食べ物が腐っちゃうのに近い理屈ですよね? そして蒸留は、液体を温めてお酒の成分をだけ取り出す……みたいな感じで良いんですよね?」

「ああ。概ねそれで合ってる」

「なら多分、それ、先生になら出来ると思いますよ」

「……いや、あのねカリラ。出来るなんて簡単に言っても、発酵も蒸留も、特別な機械を使って慎重にするものなんだよ」

「でもそれは、魔術が使えない人の話ですよね? 発酵と蒸留、結果だけを求めるのであれば、先生の魔力と応用力があれば十分可能かと……。記憶を無くす前の先生はその何倍も難解で複雑な魔術試験をされていましたし」

「……!」


 魔術。そういやそうだった。転生した俺は稀代の魔術師という設定だったな。そうでなければ『魔王』などという恥ずかしい異名では呼ばれまい。だが、しかし。


「そんな……そんな魔法のような事が、果たして俺に出来るのだろうか」

「魔法じゃなくて魔術です、先生」


 俺は魔法と魔術がどう違うのか分からなかった。


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