第三幕 金貨の令嬢

 朝。

 鳥の鳴く声が世界の始まりを告げるように、俺とカリラが眠る森を太陽が明るく照らしていく。


 そういえば、この世界にも太陽はあるのだな、などと益体もない事を考えながら、俺とカリラは起き出して、近くの川で顔を洗い、湯を沸かして簡単に朝食をとる事にした。


「それでカリラ、俺たちはこれからどうすれば良いだろう?」


 昨日と同じ金属のカップで淹れられたお茶を飲みながら、俺はカリラにそう尋ねる。

 ところでこのカップは何で出来ているのだろう……ステンレスのように見えるが、こうした剣と魔法の世界(まだ剣は見てないが)にステンレスがあるイメージがどうにも湧かない。


「先生はこの山に何かの実験に来られたようでしたが、実験の途中に倒れてしまわれたので……。記憶を無くされたとなってはしようがありません、下山して、王都に戻りましょう」


 カリラのその言葉に俺はずきりと胸を痛めた。

 彼女には勿論言えないが、俺のこの身体の本来の持ち主、『異界の魔王』カラン・マルクの実験は……恐らく、成功している。

 成功しているからこそ、多分俺はこうしている。

 俺は知らず知らずのうちに肩を縮め、謎金属のカップでお茶を飲む。


「あ、ちなみにそのカップは先生の発明品です。『錆びない鉄』と言われていましたが、本当に錆びないんですよ。凄いですよね。……あ、でも、先生が記憶を無くされてるなら、もうこの鉄も作れなくなっちゃったんですね」


 そんなカリラの何気ない一言に、俺はお茶を吹き出しそうになる。

 『異界の魔王』……冗談は名前だけにしてくれよ。



 カリラから昨夜聞いた話では、『魔王』カラン・マルクは、王都とやらで学校の先生をしていたそうだ。

 待遇は名誉教授という事だが、講義の実績は無いらしい。

 全く大層な身分であるが、カランは世界を救った英雄との事。在籍しているだけでも値打ちのある存在だったのだろう。動物園のパンダのように。


 講義をしなくていいのは都合が良かった。

 俺には塾講師の経験はあったが、それで教授を名乗れるのなら異世界に行っても苦労はしない。

 魔法が教えられない魔王……それは大層滑稽なことだろう。


 カリラと山道を下りながら、俺はつらつらと考える。

 記憶を失くした魔王。彼の長年の研究の目的は恐らく果たされた。俺は王都に帰り、カリラみたいな可愛い子に先生と呼んで貰いながら、講義をしなくて良い教授として、研究室で暮らす事になる。魔王には伯爵位があるらしいので(ところで魔王で伯爵とは一体どういう了見だ)恐らく国から生活に困らないだけの金も出ていよう。


 それは多くの人にとって願ってもない夢の生活だろう。

 あとは、この異世界に美味い酒があるかどうか、それが問題だ。



 研究室に引きこもりだったという割には、この『魔王』の身体は以外と頑丈で、ほどなくして俺とカリラは流れる川に沿って山を下りきった。視界の端に、川を横断する百メートルはあろうかという立派な石橋が見えた。その左右には、しっかり踏み固められた街道が伸びているようだ。


「橋まで行って、一旦休憩にしましょう」


 そう行って先に進むカリラの足取りは軽やかで、先ほどからもう五時間近くも山道を歩いてきた風にはとても見えない。


「いやあ、見かけによらず体力があるね」


 前を歩くカリラの、膝下まである長い焦げ茶色のコートが、歩く度小さく上下に揺れるのに向かって、俺はそう言葉を投げかける。


「体力……と言うほどの事はないですよ。学校の剣術の授業や狩猟の実習でも、そんなに成果は上がらないですし。特に魔術の演習なんて、クラスでも下から数えたほうが早いくらい。先生の助手をもう六年もやってるのに、お恥ずかしい限りです」


 言われてみれば当然なのだが、カリラは学生なのだった。俺の助手というのは授業が終わった後にしてくれてるんだろう。それにしても、こんな女の子に剣術の授業が課されるのか。異世界って奴もなかなか一筋縄ではいかんな。


「記憶を無くす前の俺は、カリラに魔法を教えなかったのかい?」


「魔法じゃなく、魔術ですよ、先生。でも、そうです。先生は私に魔術を教える事はありませんでしたし、私も先生に魔術の教えを乞う事はありませんでした。……先生は、魔術がお嫌いでしたから。魔王なんて呼ばれているのに、変な話ですよね」


 カリラが俺に振り返り、えへへ、と困ったように笑う。


 そうして改めて見るとカリラは割と背が低かった。身長は一五〇センチくらいかもしれない。昨夜は、記憶を失くして動転している自分を助けてくれたという事も相まって、もっと大きく見えたものだったけど。

 小さくてハイパワー。日本製品の鑑のような女の子だな。

 いや、ここは日本でもないし、ついでに地球でもない訳だけど。


「……先生」


 俺の僅か先を歩くカリラが、前を見たまま俺に声を掛けてくる。


「んー?」

「記憶と一緒に、魔術が嫌いな事も忘れてしまわれたのなら、今度こそ先生が、私に魔術を教えてくれませんか? 私、才能ないので、すぐに先生に見込み無しって言われちゃうかもですけど」

「俺がかい? 魔術? の使い方なんて全く覚えてないな……もしかしたら、記憶を失くしたときに、全部使えなくなったかも知れないよ」

「魔術の根幹は明確な思念の構築と、魔素の効率的な放出です。これらはいずれも精神体ではなく肉体に由来する素養なので……だから先生の記憶が失われていても、世界で一番すごい魔術師である事は、きっと変わらないと思いますよ。……というのを、先生のノートで盗み見た事があります。先生が、家庭教師に行ってらっしゃる隙に、研究室にこっそり忍び込んで」


 先生には内緒ですよ、と言って、カリラが悪戯っぽく微笑んで口元に人差し指を立てる。

 その先生が俺だろうがよ。かわいいかよ。


「……ん? 家庭教師?」


 初耳である。カランは家庭教師までしてるのか。授業しない教師の癖にふてえ野郎だな。


「はい。ある特別な方からのご依頼で。先生もさすがに断る訳にはいかなかったようです。十日に一度の麦の日に、青色の鐘が鳴る前に、先生はいつもそのお屋敷に向かわれていますよ」

「そうなんだ。ちなみに今日は何の日?」

「畑の日です」


 聞いて後悔した。さっぱり分からん。

 麦の日だの畑の日だのは恐らくこの世界の暦法でいう『週』の概念だろうけど、数字で言われないとどうにも要領を得ない。俺は質問を変えた。


「麦の日は何日後?」

「明日です」

「……明日だって?そりゃまずい。俺たちはそれまでに王都に帰れるのか?」


 俺は慌てた。周囲は川と地平の果てまで続く草原のみ。家の影すら見当たらない。


「大丈夫ですよ」


 カリラがその足取りを止める。いつの間にか橋の袂まで来ていたようである。


「ここで乗合馬車を拾いましょう。今日の夕方には、王都に帰りつきますよ」


 日は中天に差し掛かっていた。俺は腹が減っていた。


✳︎✳︎✳︎


「この橋を渡って東に行きますと私たちが暮らしている王都、西に馬車で一日程行きますと港町エレナに着くそうです」

「着くそうです……って、カリラは行った事ないのかい?」

「ええ。私は王都から出たのさえ、今回の旅が初めてでした」

「ふうん」


 俺とカリラは橋のすぐ近くに腰を下ろし、昼食をとる事にした。献立は朝と同じく黒パンとチーズの欠片だけなのだが、俺たちは旅の途中で、ここは異世界。食べ物を貰えるだけありがたい。王都に帰れば多少はマシな飯にありつけよう。

 二人してぱさついたパンをもそもそやりながらそんな事を考えていたが、ふと疑問に思い、俺はカリラに尋ねた。


「そういえば、カリラはさっき乗合馬車って言ったけど、俺お金ないよ?」


 自慢じゃないが俺は割と貧乏だった。バイト代と毎月振り込まれていた奨学金は全て酒代に消えていたからだ。給料日に近所のイカした酒屋でシングルモルトの棚を眺めるのが月に一度の楽しみだった。

 そういえばあの奨学金はもう返さなくていいんだろうか。

 異世界転生は高飛びの最高峰だな。追ってこれるのは銭形警部くらいなものであろう。


「お金の事なら大丈夫ですよ。鞄の右ポケットを開けてみてください」


 カリラに言われるままに、俺は自分の鞄の右のポケットの釦を外し中身をあらためる。

 中から浅黒い皮の、やたらと重い巾着が出てきて、紐を解くと、中から見た事もない図柄の金貨や銀貨が沢山出てきた。この鞄右側が妙に重いと思っていたが、まさか金貨が入っていようとは……。

 俺は五十ミリほどはある大きな金貨を一枚手に取り、その造形にしばし見惚れる。

 金貨の表面には美しい少女の横顔が掘られている。なかなかの造幣技術だ。


「金貨ってどれくらいの価値があるの?」


 表と裏を矯めつ眇めつ、俺はカリラにそう尋ねる。


「金貨は銀貨百枚と同じ価値です。銀貨一枚が銅貨十枚と同じ価値です。市場でのお買い物は、だいたい銀貨と銅貨があれば事足りますよ」


「成る程。じゃああれだね。この財布の中の金貨があれば、いっときは食べていけそうだね」

「先生の資産の殆どは王国と魔術ギルドが管理しています。少なくとも先生には、一生使い切れないくらいのお金があるはずですよ。疫病を払った時の報奨金も殆ど手付かずでしょうし……あと、家庭教師の代金も、相当な額になってるはずです」

「俺がやってる家庭教師って、十日に一度だけでしょ? それじゃあ大したお金にはならないだろう」


 俺のその返答に、カリラはなんとも言えぬ表情で苦笑した。


「……先生、今お持ちの金貨を見てみてください」


 言われて再び金貨を見る。彫られているのは、相変わらず美しい少女の横顔。この国の姫だろうか?


「金貨に掘られているその女の子が、先生の教え子、王国の財閥シャルトリューズ家の当主の一人娘、レゼル・アーク・シャルトリューズ様です」

「…………」


 俺はカリラを見た。地平の先まで誰も居なかったが、俺は小声で尋ねた。


「そのお嬢様って今いくつ?」

「私と同い歳なので……今年で十五歳ですね。ちなみ今お持ちのその金貨は、レゼル様が十二歳の時に王国が発行したものです」

「この金貨って……王国全土で使えるんだよね?」

「はい。王国は信用力が高いので、この大陸全土と、あと近隣の大陸との貿易でも十分通用しますよ」

「最後に聞くけど、このお嬢様は王族じゃないんだよね? 富豪の家の娘さんだよね?」

「先生、仰りたい事良く分かりますが、諦めてください。シャルトリューズ家は、そういう家なんです」


 俺は目の前が真っ白になった。最初の街に戻してもらえないか。

 そういえば俺はまだ最初の街にも辿り着いていないのだった。


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