第二幕 夜の森



 これは本当は秘密なのだが、俺は二十歳の頃不思議な経験をしている。

 泥酔して勢いで立ち寄ったバーで、この世で一番美味い酒を飲んだ。

 名前も知らないその店を、シラフになって探してみたが、街中どこを探しても、見つける事は出来なかった。


 それは酔った俺が見た夢なのだと誰もが言ったし、俺自身もそう思った。

 しかし、夢である筈のその酒は、俺の人生の全てを変えた。

 たった一杯飲んだだけで、俺はその酒の虜になってしまったのだ。

 それくらい強烈な酒だった、などと説明しても、その時の俺の感動の、万分の一も伝わるまい。


 とにかく、その後俺は酒職人を目指すべく転学し、バーや酒屋を歩いて知識を求めた。

 大手酒造会社に就職が決まったのが半年前だ。一秒たりとも無駄にすまいと、件の酒を探すべく、着替えと酒瓶を鞄に放り込み飛行機に乗り世界に出たのが五ヶ月前。


 世界の方々で酒造りの現場を見学して、その土地の気候や文化を学んだ。

 幼い頃に妹を殺されて以来トラウマとなっていた川の流れの雄大さも、ああした酒を作る源なのだと思うと、不思議と敬意の念を覚えるようになっていった。

 最初はままならなかった現地の人達との会話も、今では割と流暢だ。

 そう。くっきりはっきり覚えているのだ。記憶喪失では、決してない。


 だが、少なくとも、今この目に映る全ての物に、見覚えが無いのも確かなのである。

 着ている物も、持っている物も、川の水面に映る自分の顔さえも……。

 まるで元の身体から精神だけが抜け出して、全く別の違う誰かに乗り移ったかのようだった。



✳︎✳︎✳︎



 少しの時間が経ち、幾分落ち着いては来たものの、やはりどうしても、自分が何者かがさっぱり分からない。

 彼女は俺のその異常事態に気付いていない様子で、俺の無事に「本当によかったです、先生」と心底安心したようにため息をついた。

 少女の頬が心なしか赤い。

 夕焼けの所為だけではない気がする。

 冷静に考えると、俺は先程なにやら彼女に恥ずかしい事を言っていた気がする。


 そもそも彼女はなぜ俺(のこの身体)を『先生』と呼ぶのだろうか。

 少女の年齢は外見から察するに恐らく十五歳くらいだ。ちなみに俺のこの身体の年齢は恐らく、二十代後半くらい。

 俺(のこの身体)と彼女の間柄が教師と生徒であるならば、どうして俺達は二人きりで山になぞ入っているのか。

 これは警部が動きだすやつ……!



 少女は俺の無事を確認した後、すぐに食事の支度を始めた。

 水を汲み、平らで湿り気の少ない草の上に鉄製の五徳を立て、水を入れた銅のケトルを乗せ、薪をくべる。溶けきる直前の西日がそれらを茜色に染めている。

 俺は手伝いもせず、その様子を呆けたように眺めていた。


 俺も世界中の酒を知るべく各地を歩いていた為、こうしたアウトドアの暮らしには慣れている方と自負しているが……比較にすらならない。

 流れるような少女の手際は見事の一言であり、その辺の旅行者にはない貫禄すら感じられた。

 この、どこぞのお嬢様のような雰囲気の少女が、どのような経緯でこうした技術を獲得したのか……今の俺には想像だに出来ない。


「先生、どうかしましたか?」


 気がつけば俺は少女の顔をまじまじと眺めていたようで、俺の視線に気づいた彼女が首を傾げてそう尋ねてきた。

 嘘のように大きな瞳と長い睫毛に思わずたじろぎ、俺は視線を逸らしてしまう。


「ああ、ごめんね、凄く手際が良かったものだから、つい見惚れてしまってて」


 そんな間抜けな俺の言葉に、少女は一瞬きょとんとした後、にわかに頬を赤らめて「あはは、ありがとうございます」と返す。そして手慣れた仕草で薪に手をかざし、呟くように何かを言った。


 その瞬間に起こった出来事は、俺の記憶に強く焼きついている。

 少女の手から白熱の炎が生まれ、それが瞬く間に薪に燃え移ったのだ。


 薪からぱちぱちという音が立ち上り、木が燃える特有の香りが放たれ、寒々とした夜の森を暖かく灯してゆく。

 俺はその不可視の力を子どもの頃から知っていた。しかしそれは、俺の知る世界にはない筈のものだった。お伽話やゲームの中だけに、存在しているものだった。


 この世界は、つまり。


「今のは……魔法?」


 言葉は無意識のうちに漏れ出て、取り返すことは出来ない。しまった、と思った時には遅かった。少女がはっと俺を見上げた。まるで信じられないものを見たような目をして。

 そうだろうとも。冷静に考えれば、今の場面、俺が魔法を知らないのは、おかしい。きっと、おかしいのだろう。何故なら彼女は魔法を使い、俺はその彼女に『先生』などと呼ばれているのだから。


「先生、……まさか」


 不安げな少女の様子に俺は思わず頭を下げる。


「ごめん、……実を言うと、どうやら記憶を無くしているらしい。何も思い出せないんだ」


 俺は咄嗟の判断で、少女にそうして謝った。

 別の人間の記憶がある事は伏せた。奇異に思われるのが怖かった。何より今この少女に、離れられる訳にはいかなかった。


「記憶、喪失……」


 気の所為か、少女の声は先ほどよりも穏やかだった。


「黙ってて悪かった。正直、自分でも混乱してるんだ。少し休めば何か思い出すかと思ったけれど、どうやらそうもいかないらしい」


 言い訳をするように、俺は言葉を続けた。


「だから教えてくれないか。この世界の事、俺の事、そして、君の事を」


 恐る恐る顔を上げる。



 その時見た彼女の顔を、特によく覚えている。

 寂しさ、優しさ、安堵、諦念、怒り……彼女の持つあらゆる感情をない混ぜにしたような、不思議な笑顔を。

 少女の薄紅色の唇がそっと開く。


「……分かりました。先生。私の名前はカリラです。あなたの……『異界の魔王』カラン・マルク伯爵の助手を務める者です」


 そして彼女は、まるで音というものを感じさせない柔らかな動きで、ほっそりした手をこちらに差し伸べ俺の手を握った。


「例えあなたが何を失くしても、私はずっとお傍にいます。あなたが、それを許してくださる限り」


 少女――カリラの白い右手はまるで、その手が先ほど生み出した炎のように熱く感じられ、俺は、自分のものとは思えぬこの身体が随分凍えていた事に、その時初めて気がついた。



✳︎✳︎✳︎



 金属のカップに少量の茶葉が入れられて、そこにケトルの沸きたての湯が注がれる。

 カップを持つと白い湯気が自分の顔に纏わりつく。


「あなたは……カラン・マルク伯爵は、国内外で広く知られている、当代最強の魔術師です。また、高名な医師であり、薬師であり、練金術師であり……私自身、先生の助手を務めて六年になりますが、先生が何者であるかを一言ではとても表せません、とにかく凄い方なんです」


 ダヴィンチみたいな奴だな、カラン・マルク伯爵。って今は俺なんだが。

 訥々と呟くように語るカリラのその口調からは、俺の知らぬカラン・マルクへの確かな尊敬の念が感じられた。

 彼女が『先生』と呼ぶその偉人が、まさに自分なのだという実感は微塵たりとも湧かない。


「何より先生が広く知られているのは、あなたが世界を救った英雄だから」


 そう言って両手に持ったカップの茶を一口。言葉を続ける。


「あなたが六年前、世界中に蔓延し、この世の終わりと言わしめた疫病を鎮めたからです」

「疫病?」

「はい。気がつくとあっという間に私たちの住む王都に蔓延して、人口の二割が死んだ恐ろしい疫病でした。私はその時九歳でしたが、住まわせて戴いていた教会に沢山の人が祈りにいらして、だんだんとその数が減っていくのを見て、とても怖かったのを覚えています」


 俺は二人の間に置かれた木皿から黒パンを一欠片摘み口に入れる。

 簡素な食事だが、貰えるだけでも有難い。

 どうやら俺は彼女の主人らしいが、今の俺は彼女なしではの垂れ死ぬ。


「魔術師達さえも死に至らしめる病を払い、何十万人もの民を救った先生は、この功績を称えられ叙勲されます。瞬く間に世界を救ったその手腕と知識は、この世界にはない異界のものであるとされ、人は畏敬の念を込めあなたを、次元を渡る『異界の魔王』と噂しました」


 そう言って誇らしげに微笑み、ようやっとカリラがパンを口に運ぶ。

 俺はその様子に少しだけ安堵する。

 魔王とはまた大層な異名だと思ったが、カリラの話で気になったのはそこではない……。


 カリラはパンをむぐむぐと咀嚼して飲み込み、お茶を一口。

 夜風が木々を撫でる音と、近く遠くの鳥の鳴き声に、不規則に薪の爆ぜる音が混じる。


「先生は今、王都のエレヴェンス・ギルト王立上級学校に、客員教授待遇で在籍されています。城内に先生専用の研究室があり、そこで暮らしていらっしゃいます。……とは言っても、教授とは名ばかりで、就任して六年、先生はご自身の研究ばかりで、講義をされた事はありません」

「そうか、カリラが俺を先生と呼ぶのはそういう理由からだったんだね。君は助手で、俺は腐っても教授って訳だ」


 合点がいって俺も一口茶を飲む。

 夜の森は存外に冷え、カップの湯気は消えている。


「……いえ、先生は叙勲後、魔王を自称されましたので、それ以降先生は、学生達を含め大勢の方から『魔王』の名で呼ばれるようになりました。今でもそうです。先生の名前は、本名であるカランよりも『魔王』の方がよく浸透している程です」


「そうなのか……でも、それなら何故、カリラは俺の事を、『魔王』ではなく『先生』と呼ぶんだ?」


 俺のその問いに、カリラはしばし逡巡した。

 そして、カップを手に取りゆっくり立ち上がり、すっかり冷めてしまった中身を地に撒く。

 中の茶は、びしゃりという音を立てて、辺りの草花を冷たく濡らした。


「……六年前、その名で呼んだ私に、先生が仰ったのです」


 濡らした草花に冷たい視線を向けるカリラのその声は、少しだけ震えていた。


「俺を魔王と呼ばないでくれ、と」



 食事を終えた俺とカリラは、薪にほど近い場所で、木の枝と枝の間に布を張り、その下に横になって二人で眠った。

 毛布で寒さは凌げたものの、いくら目を閉じても、俺は眠りの世界に発つ事が出来ずにいた。

 魔法を見たときの心を震わされるような感動も、いつしか綺麗に失われていた。

 煮詰めたような孤独感が、今になって腹の奥底に根を張り出す。


 もう二度と戻れぬであろう街や空を、もう二度と会えぬであろう大学の同期や友人達の事を思った。最後に両親と話した日はいつだったろう。実家の仏壇に手を合わせた日はいつだったろう。


 俺は隣に眠るカリラを見る。

 記憶を失くした俺につとめて優しく振る舞ってくれた、俺の助手を名乗る少女を。

 この、世界の果てよりも遠い場所に放り出され、一人ぼっちになってしまった俺の、すぐ傍に居てくれた少女を。


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