魔王とカリラ
nyone
第一章 魔王とこの世で一番美味い酒
第一幕 クライマックス
願いが一つ叶うなら、あの時飲んだ酒の名前を知りたい。
二十歳を迎えた誕生日の夜の事だった。
大学の先輩に連れて行かれた居酒屋でビールだの焼酎だのいうテリブルな酒(失礼)をしこたま飲まされほうほうの体で逃げ出した俺は、とってもデンジャラスな状態で夜の繁華街を歩いていた。
路地裏にひっそりと佇むそのバーを見つけたのはだから、全くもって偶然である。
こういう店に前から一度入ってみたかった。カラオケもない、女の子もいない、薄暗い店内で、密やかに誰にも知られず酒を飲む。俺には酒の知識はないが、そういうハードボイルドな感じに憧れていた。
酔ってほとんど動かなくなった頭でそんな事をぼんやり考え、恐れ多くも鼻歌交じりに、俺はその重厚な木の扉を押し中に入った。
そしてカウンターしかないその店の、空いている席にどかりと座ってこう言った。
「この世で一番美味い酒をくれ」
決まった、と思った。泥酔した自分の頭の端の端のとてもクリアな部分が考え出したなけなしの冗句に、右隣に座っていた先客はがははと大笑いした。夜を閉じ込めたような薄暗い店内で、俺自身も相当に酔っていたので仔細は思い出せないが、そいつは黒のマントを纏い赤いワインを嗜んでいた。気取った雰囲気がいかにもで、文豪たちの小説から出てきたような出で立ちだった。他に客はいなかった。
「気に入った。マスター、あれ、出してやってくれ。俺の奢りでいいぜ」
なんと冗句の礼にその黒マントが奢ってくれるという。
この不景気に、なんとも気前のいい話である。
程なくして、小さいワイングラスみたいな器に入った琥珀色の酒が出てきた。
それは氷も水も入っていない、罰ゲームで飲まされるレベルの強い強いウィスキーだった。
俺にはそれが「帰れ小僧、ここはお前みたいなおこちゃまの来る場所じゃあないぜ」と言われているようで少しむっとした。
いいだろう。ふん。ストレートで飲んでやろうじゃないか。
俺はウィスキーをありがたく頂戴し、グラスを傾け口に含んだ。
俺の人生はそこで終わった。代わりに何かが始まった。
それまでの俺の175200時間全てを洗い流す情報の洪水。
それは空と大地と海とを悠久に旅した水の記憶。麦と酵母との交わりを経て、泥炭の炎に焼かれ、静かな森の樽の中で己の人生よりも長きに渡り眠り続けた琥珀の夢。数十年もの時間を掛けてこの一瞬だけに花開く、狂瀾怒濤の香りの大輪。舌の端を悪戯に跳ね回る、ペドロヒメネスの優しく妖艶な囁き。
それはまさしくこの世ならざる天上の雫。
隠されていた世界の秘密。
この世で一番美味い酒。
それから六年。
俺は街の全てを探し、世界のあらゆる酒を飲んだが、未だにその酒の名前を知らない。
✳︎✳︎✳︎
「成る程、大変に素敵な記憶をどうも有難う」
俺の人生を変えたドラマティックな思い出話に、名前も知らぬその女はまるで我が事を褒められたように満足げに微笑んだ。
「ですが、今この時にその話をしてなんとなさいます」
女にそういう具合に切り替えされ、俺は六年前より幾分マシになった己の頭で返しの言葉を切り出した。
「いやね、異世界というものがあるのなら、あの時の酒の記憶は、案外夢じゃなかったんじゃないかと思ってさ」
「夢? 貴方はその記憶を夢と思われていたのですか?」
「ああ。何せその時は俺も随分酔っていて、気が付いたら朝に電柱抱きしめて寝てたからさ。……六年掛けて探したが、街のどこにもそのバーはなかった。当然に、俺はその出来事を、今日の今日まで酔っ払って見た夢と思っていたのさ」
俺のその答えに、女は呆れたようにふうと息を吐く。
「では、その夢とも現とも分からぬ記憶を頼りに、あるかも分からぬ酒を求めて、貴方は世界を歩いていたのですか?」
「それくらい、衝撃的だったんだ。それを探すため、無ければ自分で作るため、俺は世界を歩き続けて、そうしていたら不本意にも、こんな妙な事になってしまった」
「妙な事とは?」
「あんたがさっき話してくれた、俺がどっかの誰かの所為で異世界に連れてかれてしまうって話さ」
そう。
異世界。
俺は現世とは違う世界に、連れて行かれてしまうらしい。誰の酔狂かはしらないが、強制的に。
話を聞くに、俺がそうなってしまったのは少なくとも、目の前の女の所為ではないという。
だのに女は、まるでそれが自分の仕業であるかのように俺に問うた。
「貴方が飲んだその酒が、異界のものだと言われれば?」
「俺の生きた世界にあの酒が無かったのなら、それはちょっと寂しいねえ」
「貴方がこれから赴く世界にも、その酒が無いとしたら?」
「仕方ないから、自分で作るしかないねえ」
全くどうして俺という奴は、こういう極端な状況に限ってどうにも落ち着いてしまうのだろう。
目の前のこの女には、俺の強がりが伝わっているだろうか。
「家族や友人と、今生の別れとなる事、惜しくはありませんか?」
女にそう問われて、俺は改めて自分の友人を、父を、母を思った。
そして何かを答えなければと思い、俺は女にこう言った。
「……妹の仏壇に、あの時の酒を供えてやる積もりだった。妹は小さかったから、酒なんぞ供えても猫に小判だろうがね」
その答えに女は満足げに微笑み、色よい返事を返してくれた。
「それではその酒は、いつか貴方の妹御にきっと届けましょう」
「そりゃ大層な役得だね。その時が来たら宜しく頼むよ」
「……ではお行きなさい。全ては『魔王』カラン・マルクの導きのままに。次元を旅する者に、水神の祝福あれ――」
女と俺の身体が光を纏う。
光の中でぼんやりと思う。
……ああ、それにしても、その異世界とやらに全うな酒はあるのだろうか。酒無しでは眠れない俺のこの身体は、異世界とやらでちゃんと機能するのだろうか。そんな馬鹿な事をつらつらと考えていた俺の精神体は容赦なく本体と切り離され、これまで世界の理と思っていたものを容易く破り、遠く遠く次元を超え、かつて魔王カランの身体だったものに引き寄せられていく。
かくして俺は異世界に転生した。転生させられた。
結局、女がどのような存在だったのか、俺には分からず仕舞いだった。
神のようなものにも思えたが、それを知る手がかりは一切なかったし、なにより、異なる世界に連れ去られる過程の中で、俺の記憶からこの女の事がすっかり抜け落ちてしまっていた。
女の事を思い出したのは、だから、俺が異世界に転生してから、ずっと後の事だった。
✳︎✳︎✳︎
「……ぃ、……せい、せんせい、先生!」
「……!」
鈴を転がすように美しい、しかし切実な声に導かれ、俺は目覚めた。
なにかとても大切な夢を見ていた気がするが、思い出そうとするとそのシルエットは逃げるように霞みがかり、やがて散った。
仰向けに寝ていた俺の目に映るのは、無数の木々のシルエットと、その向こうに僅かに見える赤灯色の夕焼け空と、俺を心配そうな顔で覗き込む少女の姿。
「良かった……本当に良かった、です、先生」
気がついた俺の顔を見て、少女がぽろぽろと涙を零す。
仰向けのまま、訳が分からぬまま、俺は彼女の顔を見る。
美しい少女だった。胸元まで伸びた黒髪は濡れた鴉を思わせるほど艶やかで、酔ってしまいそうな琥珀色の大きな瞳が切なげにひずんでいた。よく使い込まれた、無骨な焦げ茶色のコートを羽織っていた。
今は横たわる俺の身体にすがり、消えてしまいそうな悲痛な声で俺を呼ぶ。
「私、先生がもう二度と目覚めないんじゃないかと、思って」
少女は明らかに疲弊していた。長い間、必死にこの身体に呼びかけていたようである。
俺はなけなしの気力を振り絞り、なんとか上半身を起こす事に成功した。身体の節々が怠いが、気にしている暇はない。
少女は赤く腫れた目をくしゃくしゃに歪め、それでも俺の目をちゃんと見て、か細い声でこう言った。
「先生、もう、どこにも行かないでください。私を置いて行かないでください。……本当はずっと怖かったんです。研究室に篭っている先生が、どこか、この世じゃないどこかを見ているような気がして。いつか、私や、私たちを取り巻くこの世界を捨てて、別の世界に旅立ってしまうんじゃないかと思って。私みたいな孤児の身分で、先生をお慕いする事が分不相応なのは分かってます。でも言わずにはいられないんです。……もう、どこにも行かないでください。私を置いていかないでください」
そのいじらしい様子に、俺はたまらず少女を抱きしめた。
俺はなんと愚かな男だろう。
こんなにも自分を想ってくれている人がいながら、俺は自身の欲望を優先しこの子を蔑ろにしたのである。到底許される行為ではなかった。全ての子どもには幸せになる権利があるというのに、それだのに俺はこの子を泣かせてしまったのだ。
大学の頃、塾講師として働いた経験はどこに失われてしまったというのか。俺は少女に心から謝罪した。
「ごめん、ごめんね。俺はもうどこにも行かない。君が、俺の手助けなしに幸せになる日を迎えるまで、俺がずっと傍に居よう」
そこまで言って俺は思う。
まるで物語のクライマックスのような雰囲気だが、どうした事か、何がどうしてこういう状況になったのか、俺にはさっぱり思い出せない。
どこにも行かないとは言ってみたものの、そもそも俺はどこに行こうとしていたのか。
彼女に何をしたのだろう。そもそも、ここは何処で、今はいつで、彼女は誰で、ついでに俺は誰だろう。
やばい。これは噂に聞く、記憶喪失というやつだ。
「…………」
風の音に夜が混じり始めた時分、何処とも分からぬ木々の中で、俺は途方に暮れていた。
どうやら俺のものらしい腕の中で、見知らぬ少女が泣いていた。
正直、俺も泣きたい気持ちだったが、そういう訳にもいかなかったので、俺は彼女が泣き止むまで、彼女を抱きしめたままでいた。木々の葉は他人のようにこすれ合い、近くで水の流れる音が聞こえていた。
少女が泣き止んだのは、しばらく経ってからの事だった。
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